第二章 リラクセーション・フェイク 1

 中央都市C3・中央区。

 新紀元29年・十月二十七日。

 通常時間軸・日本標準時06:24。


 中央都市に来ても、起床時間は圏外にいるときと変わることなく、透矢たちは朝日が中央都市の壁を越えて差してくる前に目が覚めた。調波官たちも朝が早いのか、外ではすでに人の喧騒が聞こえてきた。

 昨日の夜で、晴斗に教えてもらった着任式の日付は三日後。

 本来なら、圏外から来たものは、すぐ配属先の長官と対面するのが普通らしいが、透矢たちの場合ちょうど長官に用事があるらしく、すぐに会ってもらえなかった。別に透矢たちからすれば会いたいわけじゃないから、そんなことどうでもいいのだが、凪乃からの伝言だと、着任式のあとに単独で話をするそうだ。

 と、すべきことがいろいろと控えているが、とりあえず、三人はこの三日間で、自由に中央都市をぶらつく暇ができたことになった。

 久しぶり……というより、生まれて初めてすることがない感じに戸惑いつつ、透矢は洗面所に入り、朝の支度をしようとする。すると、そこには先客の少女がぽつりと洗面台の前に立っていた。

 ラベンダー色の長髪に水銀プレートを挟んでいる。いつも通り、何考えているか全くわからない無表情で、歯ブラシを持つ手だけが規則的に動いている。

 攻性理論を常時維持しながらも、自然と歯磨きしているなんて、凪乃が異常に強いという事実はもううんざりするほど思い知らされたのだが、理解することは今となってもできなかった。

「おい、そこ退け」

「………」

 歯磨きしようと洗面台に向かいながら凪乃に言い放つが、彼女から動く気配はなかった。

 代わりに、歯磨きする手を止め、歯ブラシを洗ってから、二、三回うがいをし、歯ブラシをもとにあった場所に戻す。それから、静かに踵を返して洗面所を出ていった。

 圏外都市にいたときは勧誘の任務もあったからか、やけに話しかけてきていたのだが、中央都市に入った今、同じ部屋にいても、彼女のほうからあまり話しかけてくることはない。

 やはり、よく分からない人だ。

「お、透矢。早いな」

 朝の支度を一通り済ませてリビングに出ると、そこには昨日晴斗からもらった焼き菓子をかじっている嵐司の姿がいた。あれで朝食を済ませるつもりか、おいしそうに食っている。

「お前も食えよ」

 適当に焼き菓子を一つ掴んで投げてきたので、反射的に受け止める。それを見て、嵐司が満足そうに口の端を吊り上げる。

「ずいぶんと楽しそうに食ってんな。調波官からもらったもんだろう」

「その晴斗ってやつは悪ぃやつじゃねぇって、お前も分かるだろうが。それに、調波官はお互い様だ。食わねぇ理由ねぇだろう」

「……お前らしい理由だ」

 ときどき思うのだが、嵐司のこういうどこにいても楽に生きる性格は正直羨ましい。

 とはいえ、受け入れるべきだと心の中では知っていても、|鱗鬼(クラーケン)のことはまだ一か月も過ぎていない。急に管理省を受け入れろと言われても、できるわけがない。

「そういや」

 すでに半分ぐらいしか残っていない焼き菓子に手を伸ばしながら、嵐司が思い出したように聞いてくる。

「加苗、何してんだ? まさかまだ寝てるじゃねぇだろうな」

「そのまさかだ。昔から起こしてやらないといつまでも寝るやつって、お前も知ってるはずだが」

「ははっ、違ぇねぇ」

 と、そこまで言うと、ふと、自室から調波官の制服姿の凪乃がリビングに入ってきた。

 別に任務中でも仕事中でもないのに、全く無音の足取りで歩いている。冷蔵庫の前まで来ると、扉を開けてパンを取り出し、また扉を閉める。

 そのままリビングを出ようとした凪乃に、嵐司が無造作に焼き菓子を投げ渡す。

「お前も一つどうだ」

「………?」

「これから長ぇ付き合いになりそうだ。小せぇところから恩売っとくだけだ。遠慮せず食え」

 焼き菓子を受け取って両手で胸元あたりに持って、透き通った目で嵐司を見つめる凪乃に、嵐司がもう一押しするように言った。

 すると、凪乃が丁寧な手つきで包装を破ると、小さく焼き菓子をかじはじめた。きれいな歯にかじられ、桜色の唇に食べかすがちょっとだけくっつく。それを小さな舌で舐め取る。

 しばしもぐもぐと口を動かしていると、ようやく食べ終わったのか、凪乃が手近にあるゴミ箱に包装を捨てると、嵐司に向き直る。

「ありがとう」

「別に俺が買ったもんじゃねぇんで、礼言われることじゃねぇよ。それより、出かけるのか」

「うん」

「管理省の仕事かなんかか」

「そう」

 朝起きてから、たったの十文字も喋ていなかった凪乃がそれだけ言うと、また踵を返し玄関へ歩いて行った。

 それを見送ってから、透矢が視線を嵐司に戻す。

「お前、なんか変だぞ」

「ひでぇな。朝っぱら親友のこと変って」

「事実を言うだけだ。調波官に媚び売ってどうする」

「別に媚び売ってねぇよ。な、透矢、お前よく考えてみろ。もし加苗が頑張って、管理省のと同じの、それこそ定礎みてぇなもんを作り出したとしたら、俺らは今も圏外にいて、それも街をすげぇもんにしただろう」

「は? そうだが、いきなりどうした」

 眉をひそめた透矢の肩を嵐司がまあまあと叩いてから言葉を続ける。

「で、だ。そうなりゃ、墓守の時代の到来って感じだろう? 定礎に囲まれて、中の人は災変を恐れずに暮らしていける。けど、俺らの仕事は変わらねぇ。毎日襲ってくるかもしれねぇ災変をぶっ潰していく、いつも通りだ。その間、災変に襲うこったねぇ街はどんどん成長していって、最後は中央都市みてぇなバカでけぇ街になっちまうだろう?」

「言ってることは別に間違ってないが、今更それを言う意味があるか」

「あるに決まってる。俺を誰だと思ってんだよ」

 偉そうにそう言い切ると、嵐司が焼き菓子を噛み砕いて飲み込んだ。

「よーく考えてみろ。もし本当にそうなりゃ、管理省の状況とあんま変わらねぇじゃねぇか。ほら、俺らの立場は調波官って感じだ。実際、やつらのやってることも俺らがやってたこととあんま変わらねぇ。組織が違えど同じ人種だ。お前はどうしても管理省を許せねぇのは痛いほど分かるけど、いつまでも根に持つな。先に進めなくなっちまうぞ」

 言って、励ますように軽く胸元を叩いてくる。

 そのいつもと若干違う、いたずらっぽさと穏やかさが入り混じった笑顔に、思わず笑みをこぼした。

「偉そうなこと言いやがって」

「偉いやつだからな。それより、加苗を起こしに行くぞ。あとで出かけるから、一応外出って教えてやらねぇとな」

「外出? どこに行く」

「そりゃ」

 片目を瞑って、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべて見せた嵐司が、少しは予想していた言葉を口にした。

「中央都市の外周部さ」




 調波官の寮は、四人向けと二人向けの部屋があって、どれもちゃんと個人部屋が設けられている。

 透矢たちは別に部屋の位置を気にするタイプじゃないので、昨日の夜、凪乃がふらりと一つの部屋に入ると、各々適当に部屋を選び、それで部屋の割り当てを済ませた。

 その中で、早くも元の様子を失って、持ち主の私物で溢れた部屋に入る。ベッドでだらしなくおへそを見せている加苗のほっぺを指で思いっきり弾いた。

「うっ……ううー」

 かなり力を入れたと思ったが、加苗は微かに眉を顰め、弾かれた頬の逆方向に寝返りを打つと、寝息を立て続けた。まったく起きる様子を見せなかった。

「おい、加苗、もう朝だぞ」

 今度は鼻をつまんでやると、加苗が眉を顰め、呼吸不能で苦しんでもがいていると、不意にカッと目を見開いた。そのまま勢いよく上体を起こすと、透矢の頭にぶつかる前に、防御に出した腕にぶつかった。

「痛ッッたあぁ……! な、なに? 何がどうしたの?」

「ああ、お前の頭がイカれちまったんでな、生まれたときから」

「ひ、ひどいよお兄ちゃん! 朝一番そんなこと言っちゃうなんて!」

 両手で額を押さえ、不満げに頬を膨らましながら睨んでくるが、透矢はさほど気にする様子もなく、嵐司を指さして見せた。

「嵐司が外周部に行くって、お前に言っときたいから起こしたんだ。俺はついていくが、お前はどうする」

「ほぇ? 外周部?」

 起きたばかりで、脳はまだぼんやりとしているのか、加苗は間抜けた顔で小首を傾げ、言葉を繰り返すように聞き返した。

「外周部……うーん」

 そして、腕組みしてぐぬぬぬと難しそうな顔で考え込んだ。

「あたしは……また今度かな。今日は服とほかの必要品を買いたいし、ちょっと、情報収集もしたいから」

「そうか。じゃあ先に出かけるぞ」

「リビングに昨日晴斗のやつがくれた焼き菓子があるから、それでも食って、頭を通常運転にさせとけ。それしか能がねぇだろう」

「焼き菓子! ありがとあらしん! ……? って、ちょっと! それ、あたしすごくバカにされてると思うけど⁉」

「バカにしてるからな。んじゃ、いってきますわ」

 適当に手を振ると、二人そろって部屋を出ていった。

「んもう……人が起きたばかりなのにぃ」

 呟くように愚痴をこぼす。

「ま、いっか。いつものことだし」

 そして、すぐ開き直った。大きくあくびをしてから一つ伸びをして、ベッドを降りる。まずは何を食べようと思って、てくてくとリビングまでやってくる。テーブルに置かれた焼き菓子に辿り着いた。

 そこには、かつて焼き菓子に詰まった詰め合わせのボックスと、寂しくも一つだけ中に入っている焼き菓子が目に入った。

 ちなみに、すぐそばにあるゴミ箱の中には、焼き菓子の包装が詰まっている。さながら皆が脱皮して飛んでいったのに、一人ぼっちで取り残されたセミの幼虫のようだ。

「全っっ部食べたじゃない! いや、一つ残してるけど⁉ 一つ残したほうがタチ悪いよ! 残してやったって気になるから!」

 一人しかいないリビングで、加苗の声が大きく響いた。

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