第一章 人類最後の砦 4

 住民登録、銀行口座開設、調波官資格登録、生活用品の調達、中央都市や管理省の知識を教えてもらう……

 雑務だけをやっていると、気づけばすでに夜になっていた。圏外の仕事と比べればさほど疲れる仕事ではないが、全く新しい環境というのは、精神的に疲労をもたらすものだ。少しばかり疲れを止めたのは否めない。

 と、ようやくすべてのことを終えた透矢たちが、晴斗の案内で調波官専属の寮に到着した。

 二人向けか四人向けしかないこの寮は、この時代の希望である調波官を優遇しており、中のスペースはかなり広い。透矢たちが三人いるので、そこの四人向けの部屋を割り当ててもらった。

「ほーら、お兄ちゃん、これからは妹との同棲生活だよ! なんかドキドキしない? ね、ドキドキするでしょ!」

「妹と同棲してドキドキする兄がいたら、そいつはとっくに心臓病で死んでる。あと、お前は妹じゃない」

「いや、あたしはお兄ちゃんのことをお兄ちゃんだと思っているし、逆に言えば、あたしの主観の中で、あたしがお兄ちゃんの妹ということになっているの。そして、あたしの主観はいずれ世界の真理になっちゃうものだから、お兄ちゃんがあたしのお兄ちゃんという概念が、いつか事実になるもので、それが時間軸の概念を論外次元の理論で説明すれば――」

「分かった。とりあえず荷解きでもしてろ」

「あうっ」

 くっついてきて何やら難しいことを言い出した加苗を引き剥がすと、事前に運んでもらった段ボールを押し付ける。

 圏外都市から持ってきた数少ないものの入った段ボールだ。

 とはいえ、加苗の思い出の品がなぜかすごく多くて、しばらくの間は荷解きに集中させて、朝からずっとテンションが高いままの彼女を黙らせることはできるだろう。

 あんなことのあと、休む暇もなく街の復興に取り込み、それから中型調波器の性能検査。すべてが終われば、今度は完全に新しい環境である中央都市にやってくる。

 これほど厳しいスケジュールをこなしたのに未だに元気満々だから、加苗はともすれば、いつの間にか論外次元の波長に影響され、人間より遥かに体力のある生き物になったかもしれない。

「お兄ちゃん。なんか失礼なこと考えてない?」

「ああ、考えてたな」

「そ、そこは普通、『べっ別に考えてない。気にすんな』って言うとこ!」

「お前の言う普通はどこの誰の普通かは分からねぇが、今はお前の荷物をどうにかしろ」

 と、言いながら、自分が持ってきた調波刀の欠片を棚に置く。

 すると、視線が自然とベランダで夜の街を眺める嵐司に止めた。

 圏外都市から何一つ持ってきたものがない彼は静かに夜風に浴びていて、鉛色の髪が風に大きく揺らしている。こうして何も喋らないと、案外穏やかな大人に見える。

「そういや」

 加苗をリビングに放っておいてベランダに出ると、手すりに体重を預け、嵐司の視線が向かう先に目を向ける。

 中央都市の夜は圏外と違って、ちらほらだが電気が付けている家がそれなりにある。さらに先へと視線を伸ばしても、血霧やうろつく泥はない。代わりに、かなり離れているはずなのに、はっきりと見える巨大な壁と定礎が網膜に映る。

 圏外の廃棄されたアパートから眺めた星空は、もうどこにもなくなってしまった。

 再度現実を突きつけられて、透矢が微かに眉を寄せたが、とりあえずそんな感傷を無視し、隣で涼しい顔で街を眺めている嵐司に声を掛ける。

「お前、今日はやけに言葉が少ないな」

「なにを言ってるんだ? 俺ぁもともと言葉少ねぇほうだぜ」

「………は?」

「何もそんな顔することじゃねぇだろう」

 思いっきりドン引きした顔になった透矢に、嵐司が軽く肩をすくめた。

「いやな、なんだかちっとばかし懐かしい感じがすんでね」

「中央区か」

「んや、ここにゃ一度も入ったことねぇし、見たことないもんばっかだ。けど、中央都市となりゃ、懐かしさの一つや二つは覚えるもんさ」

 こうして話している中も赤い目を街の景色から離そうとしない。その様子を見れば、嵐司もまた彼なりに今の状況を慣れようとしているのだろう。大雑把な人だと思ったが、案外、透矢や加苗と同じ、鱗鬼クラーケンが残した傷がまだ癒えていないかもしれない。

「俺とお前も、ここに長くいすぎると、圏外に出りゃ懐かしく思うだろうしさ。同じことだ」

「なるほど。飛行機の中で呟いたのはこれか」

「飛行機? なんだそりゃ」

 意外そうな顔を透矢に向けると、困惑している嵐司が珍しいのか、透矢が微かに口の端を吊り上げあのとき聞いた言葉を口にする。

「よりによってC3か、って言ったぞ。故郷か」

「へぇ、友達思いじゃねぇか」

「だろう」

「ねぇねぇ、二人で何話してるの? あたしも混ぜて!」

 二人が笑い合っていると、加苗がちょこんと二人の間に割り込んできた。クリーム色の髪がふわりと揺れ、微かな香りが鼻腔をくすぐる。

「なんでもないさ」

「なんでもねぇよ」

 そんな加苗の肩や頭を軽く叩いて、二人が揃ってベランダを出ていった。

「え? なに? 何があったの? 二人ともおかしいよ、急になんか悟った顔してて。ね、何があったの?」

「ん? ああ、お前は前線で戦ったことないからな」

 加苗の疑問に透矢が代表して答えると、加苗がほぇと大きく首を傾げた。

 アホみたいな顔をしている加苗に、透矢がドアのほうを指さして見せた。ちょうど、嵐司がレバーハンドルに手を掛けたところだった。

 そこに目を向けると、開けられたドアと、廊下で目を見開いた晴斗が視界に入った。

「驚いた。俺が来ることを事前に誰から聞いたのかな」

「はは、冗談。そんなの、足音が聞こえりゃ誰でも分かる」

「少なくとも俺には分からないよ。さすが圏外出身だね」

 普通に言っている嵐司に苦笑い一つこぼして、参ったなといった感じで後ろ頭を掻く。

 そんな晴斗の後ろには、照葉と凪乃の姿も見えた。

「で、こんな大勢で押し寄せて、なんか用か」

 遠慮なくそう聞くと、晴斗が少し体を退いて、廊下に置かれた三つの段ボールを示してきた。

「君たちの調波器と制服、届けに来たんだ。ちょっと、中に入れてくれないかな」

「別に構わねぇが。後ろの二人はなんだ?」

「ああ、照葉なら俺についてきただけだ。どうせこの時間ですることないらしいし」

「うぃーす」

 サイズがまったく合っていない軍服の袖に覆われ、指先以外が隠された手を小さく上げて、ダラダラした声で挨拶してきた。

「そうか。じゃあこいつは?」

 言いながら凪乃の脳天を指さすと、晴斗が困ったような笑顔を浮かべ、少し逡巡した後、どうしようかという意味を込めた視線を凪乃へ送る。

「………?」

「そうだよな、君はちゃんと言葉で言わないと伝わらない人だったな」

 だが、それはうまくいかなかったようで、晴斗は苦笑いをこぼして、最後はやはり自分で説明することにした。

「まあ、一言でいえば、凪乃は今日からここで暮らすことになったんだ。ほら、四人向けの部屋じゃないか。だから、勧誘役の凪乃が引っ越してきたわけだ」

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