第六章 希望なき世界で 1
圏外都市H9・旧東京都中心部。
新紀元22年・六月十九日。
通常時間軸・日本標準時23:17。
会議室で、加苗は調波器の在庫統計表を机に投げ出し、力なく突っ伏した。
「だめだぁ……全然足りないよぉ……」
三年。墓守がこの町を支配し、いつでも発生しうる災変をなくそうと行動を始めてから、もう三年が経った。とはいえ、加苗の策略と透矢、嵐司二人の力で、何度も調波器を奪ってきても、絶望的な状況を打破することができなかった。
今まで、墓守は奪った錨で町全体に調波を行ってきたが、効果が薄い。加苗の話によると、錨の調波は範囲が広ければ広いほど、効果が薄くなってしまう。といっても、それが分かったところで、中央都市のように大型調波器で街を囲むなんてことが急にできるようになるはずもない。
いつ発生してもおかしくない災変に対応しようと、墓守の戦闘員が毎日町の中を飛び回り、急に出てきた泥を殺してきたが、もう何人かがやられているのか……それに、泥じゃなく、町のど真ん中に血霧が発生する場合は、どうしても大量の死傷者が出てしまう。
錨で街の論外次元を維持するのも、そろそろ限界が見えてきた。
「んじゃ中型調波器でどうだ? ユートピアが使ってるらしいぞ」
思いついたことを口にした嵐司だが、加苗は目を向けるどころか、机に接触している顔面を上げることもなく言葉を返す。
「無理だよ。中型調波器って基本あっちこっち運んだりしないし、もし本当にあったとしても、護衛は絶対強いもん。勝てるわけない」
「へー、強いんだ」
「ちょっと、あらしん、どこ行くの? お兄ちゃん止めて!」
「嵐司……真面目な話してんだから、バカな真似すんな」
もう十分にややこしい現状がさらにややこしくならないために、透矢は体を慣らすように肩を回しながら出ていこうとする嵐司を席に戻し、それから自分の考えた解決策を口にする。
「買うならどうだ? ユートピアも最初は接触してきたし、食料も水も足りないのは知っているけど……」
「はぁ……」
「……なんだ。そのムカつく表情は」
「お兄ちゃんはさー、もっとこう、頭を使うほうがいいよ、絶対。脳みそって、人間の大事な資産だから」
「さっき嵐司にも言ったけど、今真面目な話してんだ」
「中型調波器ってお兄ちゃんと違って高いんだよ。買ったとしても、町の運営はできなくなっちゃう。あ、でも加苗にとってお兄ちゃんは掛け替えのない宝物から安心して!」
「じゃどうすりゃいいんだ? やっぱ奪い続けるしかないのか……」
「まぁ……うん、今はね」
考え事担当する加苗にしてはあまり言いたくない結論だが、詰んだというのも事実だ。
ストレス発散しているのか、頬を膨らませる。オレンジ色の目が不満げに何もない机を睨みつける。
「透矢!」
ふと、会議室の扉が勢いよく開け放たれた。一人の赤毛の少女が慌てて駆け込んできた。最近町で泥を葬りまくる沙季だ。
「あらしん、あの子お兄ちゃんしか見てないらしいよ」
「告白しにきただろう」
「やれやれ、これだから恋の真っ最中の女子はよ、若いのう、若いのう」
わざとらしく口元を歪め、加苗が仕方なさそうに肩をすくめて見せる。
「ち、ちがっ、って大事な話あるから冗談はやめてくれない⁉」
怒ったヤマネコを思わせる姿で、赤面で叫ぶ。勢いよく手にした資料を机に叩きつける。
「とにかく、これ見て!」
「……」
「なになに?」
「汚ぇ紙だな」
三人が同時に覗き込む。隣で沙季は補足するように口を開く。
「さっき、管理省のものが泥に襲われた場所に行ったら、見つけたものだ」
管理省は中央都市に引きこもるだけではなく、圏外へ部隊を派遣することも珍しくないから、墓守のような圏外組織は、管理省が災変にやられたら、残されたものを漁りにいくのがいつものことだ。残り物でも圏外のものにとっては宝物からだ。
「もともとは調波器や武器を回収したいけど……なんか、これを拾っちゃって……」
「災変討伐計画……
胸を撫で下ろしながら、計画書をめくっていく加苗。しわがひどくて、雨のせいか汚いのだが、運よく血霧に遭遇していなかったらしく、辛うじて読める状態を保っている。
「でも、中央都市の近くにいないのにわざわざ討伐しに行くなんて……きっと強いでしょう……」
「どれどれ、今どこにいるんだ?」
「お兄ちゃん、あらしん止めて」
「お前ら、遊びじゃねぇぞ……」
呆れた顔で資料に伸ばされてきた嵐司の手を退きながら、資料の文字を目で追う。
昔の伝説の海魔クラーケンの名前をつけた災変。
泥の変異体らしい。大きさは普通の泥より何倍も大きく、体の表面に分厚い鱗が覆われている。その上、タコみたいな触手を振り回せる。それから、それから……
「あ、あれ?」
気になる文字が目に入って、加苗は思わず資料を持ち上げる。
「うん? どうした?」
「面白れぇものでもあったか」
「いや……でも、これって……」
その文字を見つめて、何度も読み返して自分の勘違いじゃないと確認してから、ぼーとした顔で二人に目を向ける。
「あった」
うわごとのようにこぼす。自分の声が鼓膜を震わせてから、さっき口にした事実がようやく真実感を帯びてくる。
「あ、あった! 方法はあった! あたし、やっぱり天才かもしれない!」
「は? いや、ちょっと落ち着け。何があった?」
「え? あ、う、うん。まずね、お兄ちゃん、災変は論外次元が乱されたのが原因って知ってるよね」
「そりゃ知ってるけど」
疑問の眼差しを送ると、加苗はふふん~と大きな胸を反らし、得意げな顔で言葉を続ける。
「でね、災変の種類なんだけど、実はいろいろあるんだ。基本は全部無限因果の数式に従ってるっていても、例外もある」
「例外……?」
「そう! 論外次元の周波数を特定の異常状態に維持する災変があるのだ!」
「……?」
「うーんと、例えば、今は特別な泥が一匹生まれたと仮定するとして、で、その泥は論外次元が異常状態にあるから生まれたんだけど、この泥がいる限り、彼の周りにほかの災変が発生しなくなる。なぜなら、この泥が影響範囲にある論外次元を異常な状態に固定したからだ!」
「つまり……?」
「つまり、論外次元を自分の形にできる災変がいるってこと」
なんか変な言い方で説明された。
「でね、この
言いながら、加苗は資料を机の上に広げ、いくつかの図表や数字に満ちた何らかの統計資料を見せてくる。読んでもわからないが、加苗の話が間違っていなかったら……
「加苗、これまさか……」
「そう、論外次元をずっと異常のままにして、そんでその異常を力ずくで閉じ込める。そうすれば、街から災変がなくなるの!」
正確には制御されて脅威にならない災変が一つしか残っていない状態なのだが、なるほど、確かにそれなら、実質災変をなくすことになる。
結論を口にしてから、加苗は興奮を隠さずに満面の笑みで飛び回る。状況に追いつけず、隣で目をぱちくりさせる沙季に飛びつく。
「さっき――んっ! グッジョブだよ! これで街の問題が解決できる!」
「な、なななな――ちょ、ちょちょっ、ちょっと待ちなさいよ! こ、こらッ!……すりすりしないでって!」
「沙季大好き! あ、今なら妹ちゃんって呼ばせてあげてもいいぞ、ほら、あたしお兄ちゃんの妹だし」
「おい、加苗、作戦を立てろ。このタコ、すぐでも捕まえるぞ」
数日後、管理省は情報通り、鱗鬼の殲滅を行った。
十数本の触手を振り回し、表面を覆った鱗が触れたもののすべてを抉り取る戦いぶりは、正直恐ろしい。だが、管理省の調波官たちは崩れることなく、うまく連携をとって鱗鬼の体に傷を刻んでいき、体力を奪っていく。
分厚い鱗による攻撃と防御によって、戦闘は長く続いた。その間、周囲の地形は見事なまでに破壊されたが、確かに加苗の言った通り、ほかの災変が発生することはなかった。
それから、どれぐらいの時間が経ったのだろう。調波官たちはようやく鱗鬼の弱点である体の中心に一撃を加え、調波を行った。
一部始終を見守っている透矢たちにも、戦いの迫力が伝わった。
そして、ようやく戦闘を終わった。調波官たちは調波の結果を確認するために、論外次元を観測しようとしたところで、透矢たちも動き始めた。
陽動として、一つの部隊が管理省の調波器を奪おうと、後方から襲撃を仕掛ける。調波官たちがそれを対処する隙に、透矢が靴板を起動し、出しうる最高速度で鱗鬼が消された跡地に潜入する。平地だから、誰かがいればすぐバレるが、透矢の目的はただ拾って帰ることだけだ。
そう、目標の「鱗鬼の欠片」の位置さえわかれば、靴板で一瞬で終わらせる。
調波官たちが来る前に、透矢たちはとっくに加苗に言われた通り、このあたりに鱗鬼が完全に消されないように、調波を干渉する錨を埋め込んだのだ。ほかの隊員が錨を回収すれば、調波官たちにとって、鱗鬼は見事に消されたように見えるだろう。
さらに三日後……
「どうだった?」
鱗鬼を閉じ込めた倉庫に、嵐司はビール瓶を片手に入ってきた。
「悪くない。死なせないコツも掴んできた」
ここは二十一号倉庫、透矢、加苗、嵐司とごく一部のメンバーしか知らない場所だ。
広い空間の中央に、黒い生物がうごめいている。なにやら足掻いているように見えるが、すでに
血霧と違って、変異生命体の災変だ。手が届くし、物理的な攻撃も通じる。暴れない状態で生かしてやれば、この町の論外次元は鱗鬼がいるおかげで、ずっと
「まさか災変が味方になるとはな」
「味方じゃねぇ。道具だ」
伸びようとしていた触手に調波刀を突き刺さり、「切断」の能力を、調波刀に施された式で発生させ、刺さったところを切断し続けることで鱗鬼の成長を止める。
さらに十日後……
「お兄ちゃん!」
「なんだ?」
「鱗鬼の計算が終わったよ! これで錨で定期的に調波すればお兄ちゃんの負担も減るから、褒めてもいいぞ!」
「そりゃ……偉いな」
「ほ、本当に褒めた……! お兄ちゃん、体大丈夫? 頭大丈夫? 人生大丈夫なの⁉」
「で、どうやってやればいい?」
鱗鬼について徹底的に調べ、計算しつくしたあと、加苗は錨によって鱗鬼を仮死状態にする案を考え出した。
錨で町全体に施す大調波。錨による調波は範囲が大きければ大きいほど効果が弱まるが、別に鱗鬼を殺すつもりはないから、ちょうどよかった。それに、論外次元理論について詳しくない一般住民にも、調波してるよって安心させられる。一石二鳥のやり方だ。
それに、鱗鬼を確保してから、街から災変がなくなった。心躍らせるには十分すぎる事実だ。
これで、ようやく街は災変の脅威から逃げられた。皆は死なないではなく、生きるために頑張れる。二人だけの組織は、ようやく街を変えられた。
なら、きっとなんとかなれるはずだ。
どれだけ絶望的な状況であっても、もし、本気で何を変えようとすれば、こんな世界でもいつか――
*
圏外都市H9・旧東京都・無人区。
新紀元29年・十月九日。
通常時間軸・日本標準時04:03。
「存人――!」
旧時代と違って、この時代は残酷で、理不尽で、とっくに人類の生きられる世界じゃなくなった。世界から何を奪われようと、ちっぽけで非力な人類にはどうしようもないのだ。
変えたいと思っても、歯を食いしばって、死力を尽くして、己のすべてで挑んでも。
わずかな力を、知恵を、運を振り絞って、無数の策を駆使し、困難を乗り越えようとも。
世界の気まぐれで全てを失うのがオチだ。まるで、足掻いてきた自分たちを嗤うかのように。
本気で何を変えたいとして、全力で挑めば、必ず何かが変わる。
そんな甘っちょろい思想が許されるのは、優しい旧時代と物語の中だけだ。
なにせ、この時代は、悲劇とすら言えない、バカげた駄作だからだ。
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