第44話 エピローグ 2

 父親の葬儀を終えて以来、酒におぼれる日々を送っていたサクチャイ。そんな彼にいよいよ愛想をつかし、彼の妻も子供たちをつれて家を出て行ってしまった。心も体もボロボロで死人同然の彼だったが、たとえ死んだとしても、自身の心に平安が訪れることは決してないということはよくわかっていた。

 彼は入り浸りの酒場で気になるニュースを耳にした。昨日ゴルフトーナメントの初日で、ある中国人が驚異的なコースレコードをたたき出しのだ。そのコースレコードは、彼の父がキャディとしてバッグを担いで、あのタイガー・ウッズに達成させたコースレコードと並ぶものだった。

 大会2日目。サクチャイが、昼間久しぶりに酒場を出たのは、彼の父が作り上げたコースレコードを脅かす選手とキャディとは、いったいどんな奴なのか興味がわいたのに他ならない。

 久しぶりの日差しに目を細めながら、サクチャイはその選手を探した。


 彼は4番グリーン上にいた。ボードを見ると彼はすでにスタートホールから三つのバーディーをとっていた。サクチャイは、今日こそ、父とタイガーが築いた栄光のコースレコードを、書き換えらてしまうのではないかと恐れた。

 中国人の選手は、4番グリーンのパッティングラインを読んでいた。彼のキャディはただグリーンの外にいて選手を見守るだけ。なんだ、このキャディはただバッグを担ぐだけのカートだ。とすると今まで、すべてのグリーン上のパットラインは、この選手ひとりだけで読んでいたことになる。サクチャイは、ますますこの選手に興味がわき、ギャラリー最前列に進み出た。


 すると、グリーンを読んでいた選手が突然グリーンラインから目をそらした。サクチャイは彼がまっすぐ自分を見つめていることに気付いた。やがて、あろうことか目を真っ赤にして大粒の涙を流し始めたではないか。

 中国人の選手は、流れ落ちる涙を拭おうともせずグリーンを降りると、まっすぐサクチャイの前に進んできた。意外にも、中国人の選手はタイ語でサクチャイに話しかけてきた。


「我が子よ。なぜそんな悲しい顔をしているのだ。お前さえ幸せならば、私なぞどうなろうといっこうにかまわないのだよ」


 サクチャイは、驚きのあまり腰が抜けたようにひざまずいた。いきなり知らない中国人がタイ語で話しかけてきたからではない。その彼の瞳の中に彼の敬愛する人の姿を見出したからだ。


「おとうさん…ごめんなさい」


 そういうと、サクチャイは人目もはばからず泣き崩れた。


 中国の選手は、やがてはっと我に帰った。この目の前のタイ人を見て、自分の体の中に、もうひとり別の誰かが出現してきた。俺でない誰かが、俺の頭の中にいる。それを自覚した時の恐怖は筆舌に尽くしがたいものだったに違いない。彼は頭を抱えて絶叫すると、大会を投げ捨ててコースの外に走り出した。


 確かに孫楊選手の網膜に移植されたのは記憶である。だがそれは単なる視覚情報ではなかった。記憶とは、その持ち主の人生そのものでもあったのだ。

(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ さらしもばんび @daddybabes

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ