第43話 エピローグ 1

 タクシーから降りたモエは灼熱の空を見上げながら、額の汗をぬぐう。


「ドクター纐纈。まもなくパネルディスカッションがはじまりますよ」


 大学のエントランスで待ち受けていた現地のメディカルスタッフが、モエに声をかけた。6月のマニラ。懇意のサント・トマス大学(University of Santo Tomas, UST)医学部の教授から招待講演を依頼されたから、断るわけにもいかずやってきたものの、一年で一番熱いこの時期に、なんで自分を招へいするのかと、飛行機から降りた瞬間からその教授を恨めしく思っていた。


 サント・トマス大学は、1611年に設立されたアジア最古の大学で、4万2千人の学生を擁するフィリピン最大の大学でもある。マニラ市内の繁華な場所にある約25ヘクタール(7万5000坪)のゆったりしたキャンパスは学生であふれ、いかにも大学という雰囲気があった。その広大なキャンパスにさらに悠然と建ちそびえる附属病院。そこの特別講堂が今日のプログラムの会場となっていた。


 モエはスタッフの誘導で、会場に急ぐ。途中外来ロビーを横切っていくのだが、その人の多さに驚いた。日本のようにすべての外来患者が集約的な受診受付を通り、適当なドクターに振り分けられるシステムとはちがい、フィリピンの大学病院では、直接ドクターの診療室に行く方式がとられている。病院ではなく、ドクターを特定して治療を受けなければならないフィリピンの診療事情は分からないではないが、医療事故もなくこの大人数をどう取りまわしているのか、モエは不思議でしょうがなかった。混乱のように見えても、ちゃんと秩序とルールがあるのだろうが、モエはこの人ごみに、その片鱗すら見つけることができなかった。

 聞くところによるとフィリピンでは、患者が手術などを受けた際、病院はホスピタルホテルとして機能し、患者はチェックアウト時に病室や治療設備の使用料、そして薬代を病院に支払い、治療費はドクターに直接払うケースもあると聞く。手術室前で、患者の家族とドクターとで直接値段交渉がおこなわれるなど、異国のドクターのモエには理解しがたいことが普通におこなわれている国なのだ。


「ここにいるのは、みんな診療を待っている患者さんなの?」

 

 思わず疑問を口にするモエ。


「いえ、すべてとは言えませんね。なけなしのお金で遠くからやってきた患者さんが、病院にたどりついたものの、お金を使い果たして、目的だった診療も受けられず茫然としている人々も少なくありません。むげに追い出すわけにもいかないので…」


 モエはあらためてロビーを見回した。


「あの階段の下にいる女の子。お母さんに頭を抱きかかえられて…」

「あの赤い服の子ですか?」

「ええ、両目を包帯でぐるぐるに巻かれているけど、あの親子もそのクチなの?」

「あの身なりで言えば、そうなんでしょうね」

「治療が受けられないで…あの親子はどうなるの?」

「そのうち諦めて、家に帰るしかないですね」


 スタッフはため息をつきながら言葉をつづける。


「社会保障が確立していないこの国では、お金がなければ治療が受けられない。お金が工面できない限り、あの女の子の目の包帯は解かれることなく、暗闇の中で一生を送ることになるでしょうね。残念ですけど仕方がありません。お金がなくとも治療してくれるドクターなど、この国にはいませんから…」


 モエはそんなスタッフの言葉をじっと聞き入っていたが、意を決するとやおら親子の方に歩き出した。


「ドクター纐纈。もうパネルの時間が…」


 慌てるスタッフの声にもとどまることなく、モエは女の子に近づくとその包帯を解こうと額に手御当てた。びっくりした女の子が身を引く。


「だいじょうぶ。私は目のドクターだから…安心しなさい」


 モエは思わず本国での診察のように日本語で女の子に語り掛ける。おびえた顔でモエを見る母親。日本語など通じようもないことに気づいたモエは、スタッフの通訳でタガログ語に訳させた。母親も納得したのか包帯を取り、モエは女の子の目を診察し始めた。


「目の周りにかなりの裂傷が見られるけど…見えなくなった原因は何?」


 モエがスタッフに事情を聴くよう促す。


「どうもその子は、父親のDVにあったようで、顔を強く殴られたみたいです」


 モエは女の子の瞼をやさしく押し包むと、手にしたペンライトで瞳をのぞき込む。


「父親に殴られてどれくらい経つの?」

「父親に殴られたのは、3か月くらい前で、その時はなんでもなかったようですが、2か月前くらいから両目で『飛蚊症』や『光視症』が出始め、その後視野欠損が広がり、現在ではほとんど見えないそうです」

「典型的な外傷性網膜剥離ね。それも両目なんて…とってもひどい暴力を受けたに違いないわ。まずその父親を警察に通報するべきよ」


 スタッフはモエの言葉を女の子の母親に通訳する。


「たしかにこのまま放置したら、この子は一生闇の世界で生きることになるでしょうね」


女の子の診察を終えたモエは、ペンライトをポケットにしまいながらスタッフに向き直った。


「たしか、あした新人向け手術手技セミナーがあったわよね」

「ええ、先生にはルーキーの手術を見て指導していただく予定です」

「予定変更。明日は私がデモ手術するわ。テーマは外傷性網膜剥離の治療のための硝子体手術。手術で剥離を元に戻し、裂孔の周囲をレーザーなどで凝固させて塞ぐ。それを私がやるから、ルーキーに見てもらいましょう」

「ええっ!」

「病院の手術室をひとつ押さえてちょうだい。それから、申し訳ないけど大勢の医者の卵に囲まれて手術することになるから、この子の母親にその承諾を取ってくれない」

「そんなこと…急にいわれましても…いくら高名なドクター纐纈といえども、緊急性がない限り、この国で治療行為をするのは違法になるかと…」

「何言ってるのよ。これは治療じゃないの、セミナーなの。その女の子には、セミナーに協力してもらうだけよ」

「そうなんでしょうけど…ちょっと屁理屈っぽいような…」

「明日の手術手技セミナーまでその患者さんを病室に預かってもらって。入院の費用は私が出すから。術代は私がやるんだから必要ないわよね」

「ドクター…」

「さあ、パネルの時間よ。さっさと病院のスタッフに指示出しなさい。わたしは行くわよ」

 

慌てるスタッフをロビーに残し、モエは胸を張って歩き出した。

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