651 ▽étranger

 ここはセアンス共和国の東にある、グラース地方の小国。


 十一ヶ月前にウォスゲートが開かれてからというもの、世界中が大変なことになっている。

 新代エインシャント神国は神都が壊滅、全土がエヴィルに支配された。

 マール海洋王国も領土の大半が陥落しているらしい。


 現在の最前線であるセアンス共和国は残りの二大国の力を借り、今も大軍相手に持ちこたえている。

 セアンスがエヴィルの軍勢を食い止めている限り、グラース地方に本格的なエヴィルの侵攻はやってこない。


 もちろん、十一ヶ月前に比べればエヴィルの脅威は増えた。

 それでもまだこの地の生活が脅かされるほどではない。


 だから、しばらくは大丈夫。

 それに人類はきっとエヴィルに勝てるはずだ。

 もうしばらく待っていれば、また平和な時代が戻ってくる。


 この地に住む誰もが無根拠にそう思っていた。


「う、うわああああっ!?」


 山の方へ猟に出ていたその青年は、エヴィルが群れを作って村の方に向かう光景を見た。


 それは体長二メートルを優に越える、巨大な類人猿型のエヴィルである。

 腕は丸太のように太く、片手に馬鹿でかい棍棒を持っている。

 そんなやつらが推定で三〇体近くだ。


 幸いなことに群れの足取りは遅い。

 急いで早馬を走らせ、エヴィルより先に村に戻って報告する。


「たっ、大変だあ! エヴィルが村に向かって来ているぞ!」

「何だって!?」


 転がり込むように村の広場に入り、さっき見た光景を報告する。

 村内はたちまちのうちにパニック状態に陥った。


「ど、どどど、どうする!?」

「決まってるだろ! すぐに逃げるしかねえよ!」

「こんな時期に女子供を連れてか!? 隣村までは十キロ以上もあるんだぞ!」

「家や畑は捨てられねえよ」

「馬鹿野郎、財産より命の方が大事だろうが!」

「下手に逃げるよりも結界のある村の中に籠っていた方が安全じゃないか?」

「そうだ、武器を持って籠城するんだ!」

「誰か町に馬を走らせて輝士を呼びに行ってくれ!」

「馬鹿かお前らは!? 三〇体近いエヴィルだって言っただろうが! 結界だって持ちこたえられるわけがないんだよ! それに、輝士が来てくれたところで……」


 話は纏まらず、有効な対策は打たれない。

 村の男達は誰もが想定外の事態に混乱していた。


 無駄な話し合いを続けるうちに早期発見の利点も失われていく。

 エヴィルの群れは、間もなく村まで辿り着こうとしていた。


「えっ、エヴィルだーっ!」


 北門を見張っていた男が大声で叫んだ。

 瞬間、村人は完全に恐慌に飲み込まれてしまう。

 中にはひとりで反対側の出入り口から逃げ出す者もいた。


 と、その時だった。


「何かあったのでしょうか?」


 ひとりの女性が落ち着いた様子で広場に姿を現した。

 見慣れない、前あわせの衣服を着た女性である。


「だ、誰だあんた? っていうかその髪……」

「こいつ知ってるぞ。村長の家に泊まってる客人じゃねえか」

「見りゃわかんだろうが、エヴィルが襲ってきて大変なことになってんだよ!」

「まあ……」


 動じない彼女に態度に村の男たちは苛立った。

 こいつは大変な状況を全く理解していないのか。


「とにかく、あんたも死にたくなきゃ急いでどっかに逃げろよ!」


 女は首を捻ると、彼女が宿泊している村長の家の方に歩いて行った。


「逃げろって言ったのに……」

「もう知るか、どうせよそ者だ」


 吐き捨てた男はエヴィルから逃げようと村の反対側に向かうが、


「うわーっ!」


 行く先から絶叫が聞こえてきた。

 見ると、南側の出口に人だかりができている。

 最初は単につっかえた村人同士が争っているだけと思った。


「こっちは無理だ! エヴィルがいるぞ!」


 なんと、そちら側の出口からもエヴィルの群れが迫っていたのだ。

 狼のような頭を持ち、背中を丸めて歩く異形の生物。

 手には分厚い曲刀を握り締めている。


 どちら側の出口も完全に塞がれてしまった。

 北側の出口からバチバチと弾けるような音が聞こえてくる。

 類人猿タイプのエヴィルが強引に入り込んで結界を破ろうとしているのだ。


 町や村に張られた結界は邪悪な存在を通さない。

 無理矢理通ろうとしたエヴィルは強烈な苦痛を受ける。


 しかし、エヴィルがその痛みを我慢し、大勢で強引に乗り込んで来れば、限界を超えた結界はガラスが割れるように砕けてしまう。


 ただの残存エヴィルなら、自分の命を犠牲にして突っ込んでくる事はない。

 だが、いま村を襲っているのは、意志を持った上位エヴィルたち。

 彼らは明確な目的を持って結界を突破しようとしている。


 今はまだ耐えられている。

 南北から同時に攻められたらきっと耐えきれない。

 外に逃げるのを諦めた村人達は、我先にと家の中に避難していった。


 それだって時間稼ぎにしか過ぎない。

 結界を破られたらすべてがお終いだ。


 間もなくこの村はエヴィルの群れに蹂躙される。

 ひとり残らず殺されてしまうのだ――


「あらあら」


 絶望に蹲る男の横を、先ほどの女性が通り過ぎた。

 彼女は腰に長い『何か』をぶら下げている。


 その何かを、すらりと抜いた。


 それは剣。

 片刃の、刀身が奇妙に反った、長い剣。


「邪悪な怪物を放っておく訳にはいきませんね」


 彼女は剣を右手に握り締めたまま南門の方へと歩いて行く。

 その先に待つのは結界を破ろうと体当たりを繰り返す、獣頭のエヴィルたち。


 結界範囲ギリギリ。

 村の出口に差し掛かった彼女は。

 とても無造作に、撫でるように剣を振った。


 結界に体をぶつけていたエヴィルの胴体が、真っ二つに切断される。


「……え?」


 男は自らの目を疑い、瞬きを繰り返した。

 その間にも彼女は次々とエヴィルの群れを屠っていく。

 無人の野を行くように歩を進め、箒で枯れ葉を集めるように。


 獣頭の魔物は悉く両断され、緑色の宝石に変わる。

 二〇体ほどいたエヴィルは気づけば一体残らずに消滅していた。


 彼女は振り返る。

 何事もなかったように剣を払う。


「次はあちらですね」


 北門の方へ歩いて行く。

 腕を振り回して駆けたりはない。

 男にはただゆっくりと歩いているようにしか見えない。


 小さな村とはいえ、縦断すればそこそこの時間は掛かるはず。

 彼女は男の横を通り過ぎ、数秒後には北門の所にいた。

 まるで、気づかぬうちに地を縮めたように。


 そして彼女はまた剣を振る。

 雑草を刈るように、蠅を追い払うように。

 三〇体以上いた巨体の類人猿型エヴィルは瞬く間に消えていく。


 男は周囲がヤケに静かなことに気付いた。

 他の村人達も剣を振る彼女を呆然と眺めている。

 目を離した数秒のうちに、すべての脅威は取り除かれていた。


 村を救った女性がゆっくりとこちらに戻ってくる。

 銀色に輝く片刃の剣を鞘に納め、何事もなかったように。


 村人達から歓声が上がった。


「すごいよ、女剣士さん!」

「村を救ってくれてありがとう!」

「あんた何者だ!? いや、なんでもいいか。とにかくあんたは救世主だ!」


 彼女を取り囲み口々に感謝の言葉を述べる村人達。

 皆が大興奮する中、輪の中心に立つ彼女は儚げに微笑む。


「いいえ、感謝されるようなことはありません。私は村長さんの恩に報いただけですから」

「恩?」


 村長の恩とは、近くの森を彷徨っていた彼女を村に呼び、家に泊めてやったことを言っているのか?

 一宿一飯に対する報いとしては、過大に過ぎる程の恩返しである。


「いや、改めてちゃんとした礼がしたい。宴会を開くからぜひ主賓として参加してくれ」

「せっかくのご厚意を申し訳ありませんが、遠慮致します。それに……」


 彼女は言葉を詰まらせる。

 不意に表情に影を落として、


「私の犯した罪は、この程度では許されませんから」


 優雅な所作でぺこりと頭を下げた。


「お世話になりました」


 彼女は村人達に背を向けて村の出口の方へと歩いていく。

 あれほど騒いでいた村人達も、誰ひとり彼女を止めようとはしなかった。


 一体なんだったのだろう。

 幻のように現れ去って行った、あの不思議な女性。


 黒髪の異邦人は―― 

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