542 ▽森林にて
「うええ……」
仕方ないので少し早めに馬車から降りることになった。
気持ち悪いのが治まるまでは、かなりの時間が必要そうだ。
依頼内容によると今日の午前中には目的の村に着く予定になっている。
次の定期馬車を待つにせよ、歩いて向かうにせよ、間に合うかどうかは五分五分だろう。
「どうする、仕事は破棄して帰るか?」
ネーヴェがアルディの背中をさすりながら言う。
アルディは全力で首を横に振った。
揺れる馬車があんなに気持ち悪いとは予想外だった。
しかし、せっかくの野外活動をこんなことで終わらせたくない。
何より冒険者として、仕事の途中放棄なんて許されない。
アルディも新米なりに冒険者としてのこだわりくらいは持っている。
実際問題としても、駆け出し冒険者が仕事放棄なんてやってしまったら、ギルドの評価はだだ下がりになって次の仕事をもらうのも難しくなってしまうだろう。
「行こう。でも、もう馬車は嫌だ。歩いて行く」
「それが良いだろうな」
決意を秘めて立ち上がる。
えずいたらネーヴェにクスリと笑われた。
馬鹿にされるのは癪だが文句を言えるような立場でもない。
「依頼があった村までは……街道から横道に入るルートだと、やや急いで三時間ってところか」
ネーヴェが地図を確認しながら説明をする。
正午までは二時間半くらい。
任務放棄よりは幾分かマシだが……
約束の時間を守れないのは、依頼人からの信用に関わる。
アルディは横から彼女の持つ地図を覗き込んで、ふと思いついたことを口にする。
「この森を突っ切れば、もうちょっと早く着くんじゃないか?」
地図の上に指を走らせる。
これなら距離は半分くらいだ。
上手くいけば余裕を持って村にたどり着ける。
そう思ったのだが、ネーヴェはあまりいい顔をしなかった。
「森の中っていうのは思ってるよりずっと歩きにくいものだ。地図で見るほど時間の短縮になるとは限らない。それに深い森林には
「でも街道沿いに行ってたら確実に間に合わないんだろ? じゃあ、いちかばちかで突っ切るしかないじゃん」
「うーん、それも確かに……」
ネーヴェは少し考えていたが、最後はアルディの提案に賛同してくれた。
「わかった。ただし、絶対に私の指示には必ず従うと約束するんだぞ。森の中ではどんな危険があるかわからないんだからな」
「了解、りょーかい」
にっこりと笑って親指を立てる。
ネーヴェは何故かそっぽを向いて視線を逸らした。
が、アルディは特に気にもせず、森へと向かって歩き始めた。
※
森の中は昼間でも薄暗い。
うっそうと生い茂った木々の葉が太陽の光を妨げている。
不規則に立ち並ぶいくつもの大木が行く手を阻み、遠くまでは見渡せない。
どこからか得体の知れない低い唸り声が聞こえてくる。
二人の行く手には獣道すらなく、何度も足を木の根っこに取られた。
未開の森はアルディが思っていたよりもずっと不気味な、人の侵入を拒む魔境であった。
「ふ、雰囲気あるな。これぞ冒険って感じだぜ……」
内心の不安を誤魔化すために軽口を叩いてみせる。
しかし、震えた声は明らかに逆効果になった。
怯えているのがバレてしまったかとネーヴェの顔を見るが、彼女は糸と磁石で作った即席の方位コンパスと地図を交互に眺めており、アルディの言葉は聞いてないようだった。
アルディは鼻を鳴らしてネーヴェの先を行く。
と、先輩女冒険者からの叱責が飛んだ。
「むやみに前に出るな!」
「大丈夫だって。そんなに離れたりしないからさ」
「私の指示には従うと約束したはずだぞ。今すぐ依頼を中止にして引き返しても良いんだからな」
「ぐっ……」
それを言われては返す言葉もない。
ここで言うことを聞かないと判断されたら、次の野外活動にも支障が出る恐れがある。
アルディはがっくりと肩を落としてネーヴェの隣に戻って歩いた。
はぁ、とため息が聞こえる。
顔を上げると、ネーヴェが顔を覗き込んでいた。
怒っている様子ではない。
「仕方ない生徒だな」
うっすらと口元を緩ませた、優しい表情を浮かべている。
「森の中に入るのは初めてだろう。とりあえず、私の後ろでよく周囲を観察するんだ。雰囲気を学んでおくのも大事だぞ。いいな?」
「ん、おう」
落ち込んだと思われてフォローされたのだろうか。
まるで子ども扱いされたような、なんとなく複雑な気分である。
気まずくなってそっぽを向いた瞬間。
アルディは木の根に足を取られ、数歩たたらを踏んだ。
「こういう場所では視線を落とさず足元に注意するんだ。前を向いたまま自然に歩けるようになるには練習が必要だぞ。勇み足の前にも学ぶことはたくさんある」
「わ、わかったよ」
「じゃあ先へ進もう」
アルディは言われた通り、顔を下げないように歩く練習をした。
ネーヴェの歩調は石畳の上を行くのとほぼ変わらない。
無理についていこうとすると、どうしても足を取られてしまう。
かと行って下を向いたままでは距離は離れる一方だ。
下手したら目の前の木に顔をぶつける。
アルディが後れるたびに、ネーヴェは足を止めて待ってくれる。
そんな彼女の気遣わしげな視線がかえって心に突き刺さる。
初めての森林探索に四苦八苦。
歩くだけでこんな状態では戦闘どころじゃない。
やはり自分にはまだまだ経験も知識も足りないようだ。
「ま、仕方ないな……」
アルディはこれも実地研修の一環だと割り切って、今日はかっこ悪くとも、ひたすらに学ぶことに集中しようと思い直した。
※
視線の端で地形をとらえる。
決して視線を落とさず、感覚で進む道を決める。
そしてようやく早歩き程度の速度なら転ばず進めるようになった頃、ふいにネーヴェが足を止めた。
「どうした?」
「しっ、静かに」
彼女は前を向いたまま、アルディの口を塞いだ。
その態度に一瞬ムッとしかけるが、彼女が放つ気配はただ事ではない。
近くに何かいるのかと尋ねる代わりに、アルディは腰から下げた剣に手をかける。
一流の冒険者であるネーヴェが、何かを感じ取ったのは間違いない。
あるいは……
余計な質問をして彼女の集中を阻害するのは得策ではない。
これから起こる事態に対処するため、気持ちを切り替えることにする。
「人間だな」
やがて、ネーヴェは独り言のように呟いた。
その言葉はアルディにとって少し意外だった。
ネーヴェは緊張を解いてない。
もしや、野盗か山賊の類いでもいるのだろうか?
なんにせよ、彼女の指示を待たずに勝手な行動は起こせない。
ひゅん、と風を切る音がアルディの耳に届いた。
それを知覚した次の瞬間、近くの木に矢が突き立った。
あと少しズレていたら……
嫌な想像をしてアルディは顔を青くする。
対照的に、ネーヴェは即座に行動を開始していた。
腰のナイフを抜き、矢の飛んできた方へ向かって投げる。
「ちっ!」
野太い男の声が聞こえた。
ネーヴェがそちらに向かって走り出す。
彼女は飛んできた矢を鞘ごと引き抜いた剣で受けた。
激しい金属音が薄暗い森に響く。
「ぐわあああっ!」
飛び込んだ彼女が剣を振る。
茂みの中に隠れていた何者かが絶叫を上げた。
ネーヴェは倒れているその男に剣を突きつけ、尋ねた。
「ただの山賊じゃないな、何者だ?」
「や、やめてくれ! 殺さないで!」
「質問に答えろ」
ここは木々が密集した森である。
狙った場所に連続で矢を射るのは相当な技量だ。
しかし、それを完全に見切って受けたネーヴェはさらに凄い。
「すげえ……」
さすが一流の冒険者。
アルディは動けなかった自分を情けなく思った。
だが、それ以上にこの人に師事していることを誇らしく感じた。
「わ、わかった。話すよ、俺は……ぁ、っ――」
「なんだ、はっきりと喋れ」
「……馬鹿が!
眩い光が薄暗い森を照らす。
「くっ!」
発光源はネーヴェの目の前。
まばゆい光で相手の目を眩ませる輝術だ。
アルディはネーヴェの身体が盾となったため光を直視しなかったが、直後に背後から何者かに身体を掴まれ引っ張られてしまう。
「な、なんだ!?」
驚いて振り返る間もなかった。
気づけばロープで両腕を縛られている。
足下の地面が消失し、ふわりと身体が宙に浮く。
「うわあっ!」
アルディは二人の男に担ぎ上げられた。
「――し、しまった!」
ネーヴェの声はすでに遠くにある。
目眩ましをモロに受けたため、彼女はすぐには動けない。
アルディが状況を理解した時にはすでに遅く、完全に拘束されてしまっていた。
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