424 ▽秘伝

 そこは、しんと静まりかえった空間だった。

 己の息づかいが聞こえるほどの静寂が支配する場。


 広い道場の中心に、ジルはいた。


 一年以上ぶりに道着に袖を通し、目を閉じて瞑想に浸る。

 怒りと悲しみで満たされていた心が、まるで闇に溶けていくように、穏やかになっていく。


 あんなに嫌いだった道着が、道場が、そしてこの張り詰めた空気が、ジルの心と体を清めていく。


「お父様」


 音もなく近づく者の気配を背後に感じ、ジルは振り返りもせずにその人物を呼んだ。


「お前から儂を呼びつけるとは、相当に重要な用件なのだろうな」


 男の名はカルマ。

 ジル実父にして、この格闘道場の師範である。


 体ごと父に向き直り、床に額を打ちつけるほど深く頭を下げた。

 そして、恥を忍んで請願する。


「魔を払う我が流派の奥義、今こそ伝授をお願いしたい」


 図々しいどころの話ではない。

 ぶん殴られて、親子の縁を切られてもおかしくない。

 そんな一方的な頼みであることを、ジルは重々承知していた。


 ジルはかつて、道場の門下生として、他の若者達と同じように父から技を習っていた。

 しかし、彼女は中等学校時代のある時、自分の都合で一方的に修行を辞めてしまったのだ。


 理由はひどく身勝手なものだった。

 他の学生たちと同じように青春を謳歌したい。

 好きなバスケットボールに打ち込みたいというもの。


 兄が衛兵隊に就職してしまったため、女でありながら将来は師範として道場を継ぐことを期待されていた事も、当時のジルにとっては大きな重荷となっていた。


 毎日のように言い争った。

 時には取っ組み合いのケンカまでした。

 そして、ようやく修行の毎日から離れる事ができた。


 あれからもう三年以上が経っている。

 今さら奥義を伝授して欲しいなど、自分勝手にも程がある。

 父にとって、それが到底受け入れられない要求だということもわかっている。


 それでも、今のジルには力が必要なのだ。


「……フォルツァの容態はどうだった?」


 予想していた怒声は飛んでこなかった。

 代わりに父の口から出たのは、入院した兄を心配する言葉だった。


「一命は取り留めましたが、予断は許さない状況だと」


 ベラは頭を伏せたまま、病院で医者に言われたことをそのまま伝える。


 市役所が少年たちに占拠され、衛兵隊が全滅してから、半日が過ぎていた。

 その間にレガンテと名乗る輝士がフィリア市の独立を宣言したり、街の周囲をエヴィルの大群が囲んでいるとの情報が入ったりと、市内はかつてないほどのパニックに陥っている。


 現場で負傷し病院に運ばれた兄の所にジルはすぐさま駆けつけた。

 兄は全身包帯グルグル巻きで、会話をすることすらできない状態にあった。


 さらにジルは、病院の待合室で信じられないものを見た。

 映水放送で流れた現場の映像を見て、足下が崩れるような気持ちを味わった。

 反乱を起こした少年集団にはあのフォルテ……そして、ターニャの姿があったからだ。


 おそらく、この事件は遠くないうちに鎮圧されるだろう。

 王都エテルノの輝士団はそれほど弱くはなく、また甘くもない。

 若さ故の過ちで済ませるには、少年たちの犯した罪はあまりにも大きすぎる。


 王国への反逆は最悪の罪である。

 首謀者やそれに近い者は間違いなく死罪になる。

 そうなる前に、せめてターニャだけは救いたいと思った。


 彼女がなぜ、こんな馬鹿な行為に荷担したのか。

 ここ最近の変化の原因も理解できていないままである。

 だが、これがターニャ本来の意思だとは思いたくなかった。


「兄の仇討ちではありません。友達を救うため、どうか私に奥義を……!」


 ジルはもう一度強く請うた。

 床に額をつけたまま、父親の反応を待つ。

 一分後、彼女に帰ってきたのは、予想通りの答えだった。


「ダメだ。奥義は教えられぬ」

「……っ、修行を途中で逃げ出した身で、恥知らずな願いとは承知しております。ですが、これからは心を入れ替え、修行に打ち込むと誓い――」

「そうではない」


 父はため息を吐き、信じられないことを言った。


「魔を払う奥義などは存在しない。存在しない奥義を伝えることはできんのだ」

「……は?」


 思わず顔を上げ、父の顔を見る。

 腕を組みジルを見下ろすその姿は、いつも通りの威厳に満ちている。


 だが、その表情はなぜか、とても弱々しく見えた。


「と……師範、それはどういう……?」

「言葉の通りだ。我が流派の極意とされる魔を払う奥義。そんなものは最初から存在しておらぬ」

「し、しかし! 開祖は輝攻戦士と戦い、拳のみで打ち勝ったと――」


 言いかけて、ジルは気付いてしまう。

 門下生の誰かが以前に噂していたこと。


 本当に、素手で輝攻戦士に勝つことなどなんてできるのか?

 そんな伝説は嘘っぱちなんじゃないかないか?

 門下生集めのための大言なんじゃ?

 ……と。


 普通に考えれば、その通りだ。

 いくら技を鍛えたところで人の力には限界がある。

 単身で千の兵士にも匹敵すると言われる輝攻戦士とは、そもそも強さの次元が違うのだ。


 奥義は存在しなかった。

 ずっと信じ続けた伝承は偽りであった。

 そのことにジルはとてつもないショックを受けた。

 視線を下に落としたまま、顔を上げることができない。


「……奥義は存在しないが」


 絶望に打ちひしがれるジル。

 しかし、父はさらに言葉を続けた。


「開祖が輝攻戦士に打ち勝ったというのは事実だ」

「え……?」


 思わず顔を上げる。

 言葉の意味がよくわからない。

 床に手をついたまま呆然とするジル。

 その横を通り過ぎ、父……カルマ師範は、ゆっくりと道場の奥へと向かった。


 そこには白黒の絵画が飾ってある。

 岩山の中を流れる小川を描いたものだ。

 師範がその絵の中心を軽く押すと、なんと壁が扉のように動き、くるりと回転した。


 その隙間から小箱を取り出す。


「こちらへ」


 誘われるままジルは父に近寄った。

 開けた箱の中身を見て、小さく呟く。


「グローブ……?」


 小箱の中から出てきたのは黒いグローブだった。

 先端が切れ、指先が出せるようになっている。

 甲部分には三日月型の刺繍が施してあった。


「我が流派に代々伝わる古代神器だ。このグローブには輝力を打ち払う力がある」

「っ!? では、まさかっ……!」

「これが開祖が輝攻戦士に打ち勝った理由だ」


 今度はさっきと別の意味で愕然とする。


 伝説は嘘ではなかった。

 しかし、その理由は技や極意ではない。

 単に強力な武器に頼った勝利だったなんて。


「この事実はフォルツァすら知らん。流派を継ぐ者だけが知ることのできる秘伝だ」


 父はグローブを箱から取り出し、無造作に放り投げた。

 ジルは慌ててそれを胸元でキャッチする。

 グローブは片手分しかない。


「お前に授ける」

「え……」

「フィリア市始まって以来の大事件なのだ。黙って見過ごすわけにもいかぬだろう」

「しかし、私は」


 秘匿され続けた伝説の武具。

 このグローブに込められた歴史。

 それを思うと、急に手の中の重みが増す。

 プレッシャーに押しつぶされそうになってしまう。


「お前はまだ未熟だ。だが、今の私よりは、それを持つに相応しいだろう」


 父は四年前から病を患っている。

 長時間の激しい運動が行えない体なのだ。

 門下生に技を教える程度なら問題ないが、戦闘行為は不可能である。

 市役所に乗り込んで輝攻戦士に準ずる力を持つ少年たちを相手にするのは、まず無理だろう。


「お前が隠れてずっと稽古を続けていたことを、儂は知っている」


 フッと、父が笑った。

 ジルは目を驚きに目を丸くした。

 それから、胸に抱いたグローブをぎゅっと握り締める。


 まさか、気付かれていたなんて。

 青春を謳歌するために大ゲンカまでして辞めた道場の修行。

 しかしジルの体と心は、慣れ親しんだ習慣を簡単には変えられなかった。


 部活のためと言い訳をして必要以上の基礎トレーニングを行い、毎晩のようにこっそりと自室で型を練習し、時には兄に組み手の相手にもなってもらった。


 大見得を切った手前、父にだけは絶対にバレないよう気をつけていたのだが……


 やはり、師範には敵わない。

 ジルは深くお辞儀をし、伝説のグローブを腕にはめた。


「流派の秘伝、しかとお受けいたしました」

「ひとつ、忘れるな。輝攻戦士に打ち勝ったという開祖は、それを可能とするだけの技を修めていたから勝てたのだ。強力な武器を手にしたところで、それを扱えるか否かは、お前自身の腕にかかっている」

「訓言、確かに」


 ジルはもう一度深く頭を下げる。

 グローブをはめた拳を強く握りしめ、彼女は道場を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る