298 ギリギリの勝利

 ふと、逃げるナコさんの足が止まった。


 まさか、罠に気づかれた?

 そう考えた瞬間、遠くに水の流れる音が聞こえた。

 ナコさんの前方、つまり彼女が逃げていた先は、大きな崖になっていた。


「……おい、ルー子」

「えっと……」


 やばい、まちがえた!

 こっちは罠を仕掛けた方じゃなかった!


 いや、だって森の中ってどこも似たような景色だし?

 絶対にこっちだと思ったんだけどな……


「け、けど、これは逆にチャンスかもっ」


 森を切り裂くように走った谷。

 とてもじゃないけれど、跳び越えられるような狭い幅じゃない。

 私たちは自然とナコさんを追い詰めた形になった。

 しかもこの地形なら――


「こうなったら、やるしかねーだろ」

「ゆ、油断しちゃダメだよ」

「わかってるよ」


 私たちは視線を交わして頷き合った。

 崖の前に立つナコさんはすでにこちらを向いてる。

 右手は完全に動かないみたいで、左手一本でカタナを構えている。


「行くぜ!」


 ダイが地面を蹴りつける。

 彼は一足飛びでナコさんの懐に飛び込んだ。


 油断するなっていったのに!


「姉ちゃん、大人しくしろ!」

「ああ、おいしそう」


 ナコさんは飛び込んできたダイに向かって、躊躇することなくカタナを振るった。

 けれど、その太刀筋にはこれまでみたいなキレがない。

 利き腕じゃない左手一本じゃ当然だ。


 ダイはジュストくんの剣でナコさんの弱い斬撃を受け止める。


「このままじゃ姉ちゃんも死んじゃうよっ!」

「殺させて、もうあなたでいいから殺させてっ!」


 ナコさんがカタナを引く。

 彼女はもう一度ダイに斬りかかった。


「ちっ!」


 動きは鈍いのに、攻撃に移るまでの動作が恐ろしく速い。

 その斬撃はダイの肩口をやすやすと斬り裂いた。

 輝粒子の防御は気休めにもなっていない。


「姉ちゃん!」

「邪魔しないで! こんなに気持ちいいのに!」

「お願いだから……」

「大人しく、斬り殺されてよお!」


 ダイの必死の懇願にも、ナコさんは耳を貸さない。

 もう彼女は、目の前にいるのが自分の弟だってことすらわかっていないのかもしれない。


 大きく見開かれた瞳は狂気なんて言葉じゃ足りないくらい。

 壊れた人形のような、不気味な闇が広がっている。


火蝶乱舞イグ・ファレーノ!」


 私はさっきと同じように無数の火蝶を撃ち出して彼を援護した。


 ダイは攻撃を続ける。

 ナコさんは左手一本でダイの攻撃と私の火蝶群を同時にさばいていた。

 あれだけの怪我をして、なお輝攻戦士化したダイを上回る技量は本当に恐ろしい。


「ふ……っ」

「姉ちゃん、もうっ……!」


 けれど、さすがに体力の方が持たなくなってるみたい。

 目の前の攻撃を捌くのに精一杯で、周りを気にする余裕もないようだ。

 私の火蝶の一部が彼女に向かっていないことも気づいていない。


 準備は整った。


「ダイ、離れてっ!」


 ダイは私の声に反応して、すぐさま後ろに飛びのいた。

 ナコさんは肩で息を吐いたまま追いかけない。


「ナコさん、もう終わりにしましょう」


 私は彼女に呼びかけた。


「黒い蝶が見えますか? 私が合図をすれば、それは爆発します!」


 ナコさんは首を振って周りを見た。

 彼女から少し離れたところに、三つの黒く燃える蝶が浮かんでいる。


 爆炎黒蝶弾フラゴル・ネロファルハ


 爆炎弾フラゴル・ボムの改良版で、球形にして投げるんじゃなく、閃熱白蝶弾フラル・ビアンファルハと同じように蝶の形をとることで、空中に設置したり好きなタイミングで爆発させることができる。


 少し前に覚えた術だけど、仲間を巻き込みやすいとか、一度設置したら爆発させなきゃ消せないって欠点があって、これまで実戦で使ったことはない。


 ナコさんが万全の状態なら、たぶんこれでも通じないと思う。

 けれど、今の彼女なら。


 黒蝶の一つが斬られても、その瞬間に他の二つを爆発させる。

 後ろは崖で逃げることもできない。

 今度こそチェックメイトだ。


「私たちと一緒に来てください」


 もちろん、私は彼女を殺すつもりなんてない。

 これは話し合いをするための処置だ。


 いくら彼女が狂っていても、目の前に命の危機があれば止まってくれるかもしれない。


「大国に行って、大きな病院でちゃんと診てもらえば、きっとその病気も治せます。だから……」


 武器を捨てて――


 そう口にする前に、ナコさんが動いた。

 彼女は迷うことなく目の前の黒蝶に向かう。

 カタナを振り、それを一刀のもとに斬り捨てた。


 黒い蝶は爆発することなく、姿を失って四散する。

 そして、ナコさんは私の方に走ってくる。

 狂気に染まった顔で。


「ひっ……!」


 どうしよう、と考える余地すらなかった。

 私はとっさに残った二つの黒蝶で彼女の進路を妨害した。


 黒蝶がナコさんに触れる。

 瞬間、それは二つ同時に爆発した。


 眩い光と轟音が荒れ狂う。

 爆風が木々をなぎ倒し、森を焼き払った。


「姉ちゃん!」

「ダメっ!」


 ダイが爆風の中に飛び込もうとする。

 とっさに私はダイの腕を掴んで引き寄せた。


閃熱陣盾フラル・スクードっ!」


 白く燃える閃光の盾が、迫る爆風を遮断した。




    ※


 二つの爆発が、あたり一面を火の海に変えていく。

 まさか、何の躊躇もなく向かってくるなんて……


 ううん、そんなのは言い訳。

 狂った彼女なら考えられたこと。

 私は自分を守るために、ナコさんを……


「ルー子」


 腕の中で、ダイが私の名前を呼ぶ。

 私は思わず身を縮めた。


「姉ちゃんを止めてくれて、ありがとう」

「え、あっ」


 殴られても仕方ないと思っていた。

 けれど、彼の口から出てきたのは、そんな感謝の言葉だった。


「ごめんなさい、私、ナコさんを……」

「仕方なかったんだ。オレじゃどうやっても、姉ちゃんは止められなかったから」


 フォローするような彼の言葉が余計に悲しい。


 ナコさんのしたことは許されることじゃない。

 心の病気とはいえ、彼女は大量殺人者だ。

 救われる道はなかったかもしれない。


 それでもダイにとって彼女は唯一の肉親なんだ。

 その命を奪ってしまったのは、この私。


 やりきれない思いに奥歯を噛み締めていると、次第に周囲の炎は威力を弱めていった。

 爆発で作り出された業火は一瞬にして周囲数十メートルを焼き払った。

 それは、辺りを焦土に変えて――


「そんな……」


 その中心部に、彼女は立っていた。

 長い黒髪は焼け、異国風の衣装は燃え落ちて素肌をさらけ出している。

 下半身や両腕の皮膚は焼け爛れ、綺麗だった顔は煤で真っ黒に染まっていた。


 けれど、それでも。

 ナコさんはカタナを握り締め、立っていた。


「爆風に耐えたの…?」


 私の黒蝶は彼女の体に触れて爆発した。

 斬る余裕なんてなかったはず。

 なのに、ナコさんは立っている。

 エヴィルすら粉々に吹き飛ばす爆炎を生身で受けて、耐え切ってみせた。


 傷ついてなお、焼け野原に佇むナコさん。

 その姿は戦乙女のような神々しさすら纏っていた。


「うっ」


 でも、もう彼女からはさっきまでような威圧感は感じられない。

 たぶん戦う力もほとんど残っていないだろう。


「ふふっ、ふふふふふっ」


 それなのに、ナコさんは笑う。

 怖気すら感じさせるほどの美しい微笑を浮かべて。

 彼女は囁くようにダイに話しかける。


「ごめんなさい大五郎。お姉ちゃん、もう……」

「姉ちゃん!」


 ナコさんがよろける。

 ダイが彼女に走り寄る。


 怪我は相当に危険な状態だ。

 立っているのが不思議なくらいの大火傷を負っている。


 早く治療しなければ死んじゃうかもしれない。

 だけど、今ならもしかしたら……


「姉ちゃん、今――」


 ナコさんの体に触れそうになった瞬間。

 ダイの体が不自然に押し戻された。

 彼の背中から、銀色に輝く刀身が突き出ていた。


「もう、我慢できないのっ!」

「がほっ。ね、姉ちゃんっ……」

「お願い、殺させて! 誰でもいいの。あなたでも、るうてさんでもいいから。はやく、誰か殺さないと、気が狂いそうのよっ!」

「姉ちゃんっ!」


 ダイがナコさんを突き飛ばす。

 カタナが抜けると同時に、彼の腹部から夥しい量の鮮血が迸った。

 ナコさんはなおも彼を斬りつけようと、悪鬼の表情でカタナを振り上げる。


火蝶弾イグ・ファルハっ!」


 迷っている余裕はなかった。

 私は炎の蝶を飛ばし、彼女の動きを妨害する。


 意識が完全にダイを斬る事だけに向いていたのか、火蝶はもろにナコさんの腕を灼いた。


 掲げた左手が炎に包まれる。

 まるで蝋燭の火のように彼女の頭上で燃える。

 それでも、彼女はカタナを手放さない。


「うふっ、ふふふふふふふっ!」


 壊れた笑い声を上げ、ナコさんがダイから離れる。

 燃え続ける自分の腕を庇おうともせず、後ろに数歩下がり――


「あっ」


 爆発で脆くなった足元が、崩落を始めた。

 後ろには崖。

 足元が崩れる。

 彼女のいる場所そのものが崩れ落ち始める。

 私はとっさに近くにいたダイの背中を抱いて宙に浮いた。


「姉ちゃん!」


 ダイが叫び、手を差し伸べる。

 ナコさんはそれに対しカタナを振って応えた。

 ダイの指先を銀色の刃が掠める。


 崩落が始まる。

 無数の岩塊と共に、ナコさんが崖下へと落ちていく。


「あはは、あははははっ!」


 仰向けに落ちていくナコさん。

 私は彼女と目が合った。

 彼女は笑っていた。

 快楽と狂気の狭間の壊れた表情で。

 その顔はたぶん、一生忘れられそうにない。

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