260 ▽前話・神刀
硬い音は引きずった重い凶器が階段にぶつかる音だろうか。
逃げ延びた幼い子がやって来たとは思えない。
近づいているのは、敵だ。
自分に、そして弟に危害を加える敵。
変わり果てた知り合いの誰かだろうか。
いや、そんなことはどうでもいい。
弟を守るため、戦わなければ。
少女は決意をした。
階段を上りきった瞬間、体当たりを食らわせて、下まで突き落としてやろう。
迷ってなんかいられない。
やらなければ二人とも殺される。
やらなければ。
やらなくっちゃ。
少女は恐怖を噛み殺しながら、心の中で繰り返し呟いた。
社を出て、少しずつ階段の方へに近づきながら。
階段を上ってくる人物が見えた。
燃えあがる炎のせいで逆光になっているため、それが誰かは分からない。
しかし、やはりその手には凶器を握っていた。
農作業用の大きな鍬である。
顔が見えないのはむしろ好都合だ。
誰かなんて気にしなければ、思いっきりやれる。
少女は勢いをつけて走り出した。
途中で迷わず、一気に蹴り落とすため。
階段まであと数歩と言う所で、少女の足が止まった。
見てしまった。
その人影が誰か理解してしまった。
自分と同じ長い黒髪。
年齢こそもう四十半ばだが、まだまだ若さを感じさせる容姿。
狂気に染まっていても、なお美しいその人が、誰なのか。
わからないわけが、ない。
朝に弱い自分を、いつも優しく起こしてくれた。
毎朝、とっても美味しい食事を作ってくれた。
そういえば、今夜はまだ一度も見ていなかった。
一心不乱に逃げ回っていた時は忘れていたし、弟を探すことを決めてからは、改めて考える余裕もなかった。
少し考えればすぐにわかることだ。
彼女もまた、この村に住む大人の一人なのだから。
いや、認めたくないから、今まで考えないようにしていたのかもしれない。
自分の母親もまた、他の大人同様に狂ってしまっているということを……
少女が戸惑った隙に、階段を登り切った母親は少女の服を乱暴に掴んだ。
力いっぱい引き寄せられたと気づき、少女は反射的にその手を振りほどいた。
服が破れ、着物が乱れて前がはだける。
少女は後ろによろけて尻餅をついてしまった。
顔を上げると、一切の優しさを感じさせない、変わり果てた悪鬼のような姿の母がいた。
手に握った鈍器を振り上げ、躊躇なく振り下ろす。
少女は地面を転がって攻撃を避けた。
母の手から武器が落ちる。
「ウガァッ!」
勢いをつけてなんとか起き上がった少女。
そこに武器を捨てた母が素手で襲いかかってきた。
避ける間もなく、少女は母の拳を頬に受けて殴り飛ばされた。
大好きな母に怒られるのが嫌だった。
だから、ずっといい子を続けた。
言葉遣いも丁寧になった。
生まれてからの十七年間。
叩かれたことなんて一度もなかったのに。
痛み以上に、母親に暴力を振るわれたことは、少女にとって大きな衝撃だった。
たとえ、母がもう正気ではないとしても。
恐怖と絶望が、少女の心を黒く塗り潰していく。
震えて蹲る少女を、母だった人はさらに何度も殴りつける。
「ウガッ、ウガアッ! ウガッ!」
痛い。
心も体も。
とても痛い。
「母様、やめて、もう止めてください……っ!」
少女は反射的に大きく後ろに跳び下がった。
けれど、逃げる気は起きなかった。
母だった人が自分に背を向ける。
見逃してくれたのではない。
より殺傷力が高い武器を、さっきの鍬を拾おうとしている。
今度はあれで殴られるのだろうか。
自分の娘すら判別できなくなっても、人を殺すための道具の使い方は忘れないのですね。
私は死ぬのでしょうか。
きっとそうなのでしょう。
ここで、母だったモノに殺されてしまうのです。
こんなことが現実に起こりうると言うなら、これ以上生きてたくない。
なら、死んで楽になった方がいい。
もう――
覚悟を決め、少女は目を閉じた。
閉じたまぶたの裏に炎の色が残っている。
炎の中で思い浮かべるのは、正気だった頃の母の姿。
目前に迫っている狂人ではなく、優しくて、とても綺麗な、大好きないつも通りの母。
その横に並ぶのは、着物を綺麗に着付けてもらった自分。
そして、無邪気に笑う――
弟の姿。
瞬間、少女は目を見開いた。
素早く横に跳んで、振り下ろされた凶器をかわす。
普段の辛い稽古によって体に覚えさせられた反射行動だった。
死ねません!
私がやられてしまえば、母は次に弟を殺します!
少女は母だったものに飛び掛った。
母は躊躇なく鍬を振り、それが少女の横っ腹を打った。
「ぐっ……」
それでも、少女は倒れなかった。
嘔吐感を必死で耐え、勢いのままに駆け寄り、敵の喉元に強烈な肘撃ちを食らわせた。
母だったモノが仰向けに倒れる。
同時に少女は胃の中の物を逆流させた。
口元を拭って前方を見ると、母は再び立ち上がろうとしていた。
喉への攻撃は完全に決まっていた。
屈強な大人でも、しばらくは痛みで立ち上がれないはずなのに。
この狂った生物は、痛みも、死の恐怖すら感じないのだろう。
だとしたら、こいつを倒すには、生半可な攻撃じゃダメだ。
少女は敵に背を向け、社へ向かって駆け出した。
頭がガンガンする。
走りながら後ろを確認。
攻撃は効いてはいるのだろう。
迫ってくる敵の動きは鈍くなっていた。
社にたどり着くと、弟は壁際で安らかな寝息を立てていた。
その姿に守るべき相手を確認し、自分自身の勇気を奮い立たせる。
社の奥へと進む。
祭壇に奉られていた、長い白木の棒を手に取る。
少女が両手を広げたよりも長く、片手で握れる程度の太さの楕円柱。
社に入った瞬間から、その存在は目の端に映っていた。
できればコレを手に取りたくはなかった。
コレはそんなことのために使うものじゃないから。
だけど、もうそんなことを言っていられるような状況じゃない。
弟を守るため。
死すら覚悟したのだ。
コレを手に取ることを躊躇う必要は無い。
白木の棒の両端を持ち、左右に引く。
右端から七分の一くらいの部分に切れ目が入り、中から覗く銀色の刃が現れた。
刀身が炎に照らされ、赤い光を返す。
村に昔から伝わる刀。
精霊が宿ると謂われている神刀。
前にこの刀を見たのは十二の時。
五年に一度の精霊祭の時だけ、村一番の剣術家の手によって、この刀は日の目を見る。
あの時に刀を握っていたのは、少女が幼い頃に憧れた、今は亡き青年剣士。
幼きあの日、この神刀のあまりの神々しさに、畏れを抱いたのを覚えている。
同時に強い羨望も持ち、次の精霊祭ではその大役に選んでもらおうと、少女は必死に剣術を磨いた。
そして少女は、村一番の剣術使いと呼ばれるほどになった。
三か月後に行われるはずだった次の祭りでは、この刀を手に演舞をすることも決まっていた。
日々の修行で心を鍛えたつもりになっても、本当の死の恐怖を前にしたら、子どもひとりすら守れないことは証明されてしまったが……
だから、きっと自分にはこの刀を手に取る資格はないだろう。
祭りの日まで、もう少しだけ眠っているはずだった神刀。
それは幼い頃に見た時と比べても、なんら色あせることなく少女の心を魅了した。
初めて手に取るはずなのに、稽古に使っている木刀よりもずっと手になじむ。
暗闇の中でもはっきりと存在を感じさせるその刀を、少女は不思議なほど落ち着いた気持ちで見つめていた。
刀の向こうに、社へと踏み込んでくる母の姿が見えた。
さっきまでの恐怖が一気に戻ってくる。
逆光の中で、母だったモノがニヤリと笑った気がした。
人としての感情など全く感じさせない、醜悪で妖しい笑み。
少女は震える手を抑えながら刀を構えた。
それに応じるように、母も武器を――
どこで拾ったのか、稽古用の木刀を上段に構えた。
その姿だけ見れば、正気を失っているとは思えない、剣士の構えだった。
狂っているとは言え、母は母。
本気で斬るつもりなんか無いし、できるとも思えない。
凶器を持った相手に対して、自分も武器を持って抵抗するだけ。
上手く相手の武器だけを破壊し、隙を見せたら昏倒させて逃げる。
大丈夫、できるはずです。
私は村一番の剣術使いなのですから。
己自身の恐怖に負けないかぎり、誰にだって負けません。
相対していた母が、くるりと体の向きを変える。
その方向に何があるかを思い出す。
母の視線の先には、壁に寄りかかって眠っている弟の姿。
「や、やめっ……!」
静止の声が届くはずもない。
母は木刀を振りかぶったまま弟に近づいた。
「キエーゥッ!」
その姿は剣士などではない。
ただの獣にしか見えなかった。
どうにかしなくては。
少女は考えるよりも先に走り出た。
刀を反すことも忘れ、腕を大きく振り上げ――
力の限りに振り抜いた。
掌に何とも言えない奇妙な感覚が伝わる。
視界が、真っ赤に染まった。
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