256 ▽ケイオスの迷い
「こうすれば、あなた方も理解するでしょうか?」
ブルート地方官の口を借りてケイオスが言う。
すると、屋敷の中から一人の子どもが小走りにやってきた。
ルーチェに勉強を教わっていた子のうちの一人、確かミルフという名の少女である。
「ミルフちゃん……どうしたの……?」
「私の数少ない能力でしてね。この子に命令をして操っているのですよ」
ミルフはうつろな目をしており、体は前を向いているが、視線はどこも見ていなかった。
そして、なぜか小さなナイフを手に持っている。
「今から五分後に、彼女は己の喉を切り裂いて自害します」
「っ!? そ、そんなことっ!」
「ですが」
ケイオスは何故か子どもたちから距離を取る。
「あなた方にとって幸運なことに、私はケイオスの中でも特に弱い。操れるのも、こんな幼子だけ。そして今なら私を殺せばこの子は死ななくて済む」
「で、でもっ。命令さえ撤回してくれれば……っ」
「わからない人だ。それは優しさか? 現実を見られない愚かさか? 何度も言うが、我々とヒトは殺し合うしか道はない。それとも、私という敵を見逃して、罪もないこの子を見捨てるのか?」
問われるまでもない。
ルーチェに子どもを見捨てるなどという選択ができるわけがない。
しかし。
「なんで!? せっかくわかり合えたのに、どうして殺し合わなきゃいけないのっ!?」
「わかり合えていないからですよ。ああ、もしかしてあなたが躊躇っているのは、私の器となったヒトの生死を気にしているからですか? でしたら申し訳ない。すぐに本来の姿に戻って差し上げます」
「どうしてそんな自分から殺されたがるようなことをするの!? 私たちが手を出せないうちに逃げればいいじゃない! こいつを殺されたくなかったらおとなしくしろって、本物の地方官さまを人質にとって抵抗すればいいじゃないっ!」
「ふふ。本当に人間は悪知恵の働く生き物だ」
ブルート地方官の口がわずかに開き、その隙間からドロッとした紫色の液体が漏れてくる。
それは喉から胸、腹を伝って足下に流れ、ひとつの形を形成していく。
同時に地方官の体が糸が切れた人形のようにバタリと倒れた。
紫色の液体はジュルジュルと音を立てて蠢き、その中には位置の定まらない二つの黒点があった。
どうみても生物には見えないが、明らかに意思を持って動いていることはわかる。
「コレが、ワタシのホントウのスガタだ」
先ほどまでとは違う、泡が弾けるような聞き取りづらい音声。
それは紫色の液体から発せられていた。
「テイコウするチカラもナイ。ニゲるコトもデキナイ。ゼイジャクなワタシがキョウまでイキノビられたノは、ただタンにウンがヨカッタだけだ」
それは異形そのもの。
醜悪で、嫌悪感をもたらす存在。
ケイオスとは、カーディナルのような人型ばかりではない。
人間の定義では自らの意思を持つ上位エヴィルをすべてケイオスと呼ぶ。
なので人間タイプや獣人タイプもいれば、コイツのような異形のケイオスも存在する。
それにしても、あまりに醜い。
ただ側に居るだけで不快感を覚える。
こんなものと会話していたのかと思うと身の毛がよだつ。
数分前までの感傷など忘れ去って、このまま焼き払ってしまいたいとビッツは思った。
だが、ルーチェは違った。
その場でしゃがみ込み、紫色の液体に話しかける。
「もしかして、あなたはすでに人間のことが好きなんじゃないの?」
「……!?」
「だからそうやって、本能とせめぎ合って、死を急ぐようなことを――」
「チガウ!」
紫の液体から吹き出る泡の数が激増する。
まるでお湯が沸騰しているようにグツグツと音を立てりう。
「チガウちがうチガウッ! ワレはケイオス、ホコリたかきマゾクのセンペイ! ヒトなどとイウ、カトウなイキモノにカンカされるワケがナイッ!」
それは怒りの表現か。
はたまた悲しみの涙か。
必死に否定するケイオスは、種族の持つ業と戦っているように見えた。
「コロスうゥゥゥゥゥ!」
「っ!」
やがて、弾かれたように紫の液体がルーチェに襲いかかる。
急激に体を膨張させ、彼女にのしかかろうとする。
ビッツは反射的に火槍の引き金を引いた。
爆発音と同時に発射された弾丸に妖精が飛び乗る。
それは光の尾を引いてケイオスの体に突き刺さった。
形のない液体に見えたが、ケイオスは撃ち込まれた点に引っ張られるように吹き飛んだ。
かつて伝承の中にフェリーテイマーという存在がいた。
妖精を使役し、輝術とは異なる力を自在に操った特殊な戦士のことである。
ビッツはフェリキタスと出会い、伝承の中の力を自らのものとして現代に蘇らせたのだ。
今の一撃も
ビッツは即座に次の弾丸を込めるが、再射撃の必要はなさそうだった。
「ごぼ、ゴボボッ、ごぼ」
紫の液体から湧き出る泡がその数を急激に減らしていく。
ケイオスは弱っていた。
どうやら本当に、このケイオスは戦闘に秀でているわけではないらしい。
「タノム。もう、コロシて。もう、ワカラナイ。ヒトが。ワレラが。ワレは、ケイオス。ヒトをコロすためにイキルもの。でも、ワタシは、あのコをコロシたくないとオモッている……」
「わかった。ならば……」
「待って下さい」
とどめを刺そうとするビッツをルーチェが止めた。
彼女は目元を手の甲で拭い、今にも消えそうなケイオスの前に立った。
「最後に教えてください」
「ぐぼ、ナニ、を」
「あなたの名前を。ブルート地方官としてではなく、ケイオスとしてのあなたの名前を」
泡の勢いがますます弱まっていく。
ゴポゴポと消え入りそうな音だけが辺りに響く。
やがて小さく弾けるような声が聞こえた。
「ワレは、ダティス……『無窮なる人形師』ダティス……」
「ダティスさん。あなたは本当に、とても立派な地方官様でした」
ルーチェの掌から白熱する光が生まれる。
本来ならすぐに減衰するはずの超高熱の閃光。
それが蝶の形を保ったまま宙に浮いている。
「あなたのおかげで、たくさんの人が幸せに暮らすことができました。あなたはそれを望んでいなかったかもしれないけれど、きっと多くの人があなたに感謝をしているはずです」
「ぐご、グゴゴ」
「だけど、ごめんなさいっ……」
ルーチェは白き蝶を閃熱の光に変えて撃ち出した。
ミルフを助けるため、己の心に蓋をして。
閃熱に灼かれたダティス細かな粒子となって消滅した。
元の体は欠片一つ残さず、ただの黄色いエヴィルストーンになる。
――ありがとう。
そんな風に聞こえた気がしたのは、都合のいい幻聴だろうか。
「うっ、うううっ」
「ルーチェ……」
「私が、私が気づかなきゃ、私が、あの人がケイオスだって言わなきゃ……」
涙を流すルーチェを励ます言葉をビッツは持たなかった。
エヴィルは、ケイオスとは一体何者なのだろう。
なぜ殺し合わなくてはならなかったのだろう。
自身の中で渦巻く疑問に答えを出せないまま、ビッツはそっとルーチェの頭に手を置いた。
※
「む、ん……?」
しばらしくて、ブルート地方官が目を覚ました。
恐らくは意識を取り戻した本物の地方官だろう。
ビッツはまだ虚ろな目をしている彼に近づいた。
「大丈夫か?」
久しぶりに意識を取り戻したばかりなのだ。
まだ一人で起き上がるのは辛いだろう。
そう思ってビッツは彼に手を差し伸べる。
しかし、ブルートは力いっぱいビッツの手を振り払った。
「うるさいっ!」
そして怒りの形相で彼を睨みつける。
「何をモタモタやっていた! なぜもっと早く俺を助けん!」
「……なんだと?」
「八年だ! こんなにも長時間、俺の体はあのクソッタレのケイオスに乗っ取られていたんだぞ! わかるか!? 意識だけを残しながら、何一つ自分の思い通りにならないこの苦しみが、この歯がゆさが!?」
「そなたの心中は察するが――」
「黙れっ! おい、ヴェレン! そこに居るんだろう、さっさと出てこいっ!」
ブルートが金切り声を上げると、門の柱の陰から正装をした初老の男性が姿を現した。
「はっ、ここに」
ビッツはギョッとした。
今までその存在に全く気づかなかったからだ。
さっきまでのやり取りを見られていた?
ならば何故、彼はなにも言わずに黙っていた?
もしかして彼はブルートがケイオスに乗っ取られていたことを知っていたのか?
「ここに、じゃない! お前はなぜ俺が倒れたところですぐに駆けつけん!」
「何があっても動かずに見はっていろと、ブルート様からの指示がありましたので」
「バカヤロウ、そいつは俺の体を乗っ取っていたクソッタレなケイオスの言葉だろうが!」
もしかして、ダティスは最初からこうなることをわかっていたのだろうか。
初老の男性の態度は、前もって言い含められていたとしか思えない。
「お前も親父の代からの側近なら、本物の俺の言葉くらい聞き分けろっ! このクズっ、マヌケっ!」
「はっ」
それにしてもこの男……
本物のブルートは、ダティスに乗っ取られていた時とは似ても似つかない。
一見してどうしようもない愚物だということがよくわかる。
長い間体を乗っ取られていたのなら、恨みもあって当然だろう。
しかし、この口汚さはとても為政者の器とは思えない。
散々に怨嗟の声を吐いた後でブルートは言った。
「とにかく、まずは税率を上げるぞ! 新しい税収案をまとめて新法として発布しろ!」
「現状でトラントの経済は上手く回っております。市場もますます活性化してきている中、この時期に無茶な増税を行えば領民たちの心は――」
「うるさいっ! あのクソが勝手に売り払った別荘地を買い戻すんだ! それから、あの浮浪者集団とガキ共を即刻この城から追い出せ! 無駄飯食らいを飼ってやる余裕なんてないんだよっ!」
「なっ!?」
これに黙っていられなかったのはルーチェだった。
ミルフを抱き抱えたまま袖で涙を拭い、ブルートに詰め寄ろうとする。
「ちょっとあなた、それってどういう――」
「やめろ!」
ビッツはブルートに抗議しようとする彼女を押し留めた。
「何で止めるのっ」
「あれは話の通じる人間ではない、下手すれば犯罪者に仕立て上げられるぞ」
「そんな……」
愕然とするルーチェ。
ブルートは醜悪な笑みを浮かべ、濁った視線をこちらに向けた。
「なんだ小娘。言いたいことがあるなら言え」
「……いや、なんでもない。彼女には言って聞かせておく」
「ふん。あのクソを追い出した功績は認めてやるが、本来ならこの島は貴様らのような下賤な冒険者風情が立ち入れるような場所ではないんだ。今すぐ立ち去るなら見逃してやるから、さっさとどっかに行け」
「ああ、そうさせてもらう。世話になったな」
「ううう……っ!」
「行くぞ、ルーチェ」
ビッツはまだ怒りの冷めやらない様子のルーチェの手を引いて船着き場へ向かう。
我々が手を汚すまでもない。
やつは現実を全く理解していない。
暴君でいられた八年前までとは、町の規模も民の意識も違うのだ。
近いうちにあの男は民衆の手で追い出されるだろう。
その基盤を作ったのは、他ならぬ彼を操っていたダティスである。
「ねえ、ビッツさん」
横を見ると、ルーチェはミルフを背負い、歯を食いしばって地面を睨みつけていた。
「私、間違ってたのかな。ダティスを追い出して、本当に良かったのかな……」
「少なくとも、そなたの決断で子どもたちの命は救われた。それだけは何も間違っていない」
あのままダティスを放っておけば、彼女の背負っている少女は命令に従って死んでいただろう。
そしてウォスゲートが開けば、ダティスは宣言通りに町の人々を食料として扱ったはずだ。
ダティスを倒した結果として、この地方は優秀な為政者を失ったかもしれない。
けれど、代わりにいつか来る滅亡からは救われた。
本当に答えが出るのはずっと先。
それまでは何が正しかったかなんてわからない。
数年後、この地方の人々に笑顔が溢れているのかを確認するまでは。
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