After Carnival

 どこかで、赤黒い雫がぽたりと落ちて撥ねた。

その音を耳に私の意識は静かに目覚めていく。

 重い瞼を持ち上げると見慣れない天井があった。ケーブルで吊り下げられた赤錆色のレトロチックな電球が、幻想的にゆらゆらと揺れている。

「……ここはどこだ」

 声に出して呟くが返事はない。

 不意に、強烈な飢餓感が私を襲う。やけに空腹だ。喉もカラカラに乾いており、もう長い間何も食べていないような気さえする。一体どれぐらいの時間が経過しているのだろうか。

 自分の中の記憶の糸を手繰るように、過去の状況を思い起こす。そう、私は先程まで恋人と一緒にいたはずだった。彼女と映画を見て、喫茶店で歓談し、別れた後の記憶がない。思い出そうとするたびに脳に鋭い痛みが走った。まるで記憶の再生を拒否しているかのように。

 部屋をぐるりと見回す。ごくありふれたなアンティーク調のベッドルームだ。つい先ほどまで横たわっていたセミダブルサイズのベッドのほかに大したものは無く、せいぜいサイドテーブルとクローゼットぐらいしか見当たらない。試しにサイドテーブルの引き出しを開けてみると一冊の聖書が入っていた。適当にパラパラと開いて、元の場所に戻す。

 クローゼットのほうには何が入っているのか確かめようと思ったが、中で何かが引っかかっているらしく開けることが出来なかった。潔く諦めると私は扉の前に向き直る。

 木製のドアだ。金具の部分は真鍮にやや青錆びがかかっている。ノブを握りしめ、軽く力を籠めて回すと何の抵抗もなく扉が開いた。現れた暗い廊下へと足を踏み出す。

 部屋を出てすぐ傍に階段があった。何故か妙に香ばしい匂いが階下から流れてきて、私の腹から情けない音が鳴る。

 ああ、腹が減った。頭痛と空腹で眩暈がする。なんでもいいから口にしたい、そんなことを考えながらふらふらとおぼつかない足取りで階段を下りて廊下へと向かう。いくつかのドアの前を通り過ぎながら、夜の街灯に導かれる羽虫のように私は何も考えぬまま無防備に匂いの方向へと近づいていく。

 しばらく歩き続けると半開きになっている大型の扉があった。中から柔らかい光となんとも言えぬ美味そうな匂いが漏れてくる。どうやらここが匂いの発生場所らしい。

 衝動のままに扉を開くと、そこは華やかなダイニングだった。テーブルに六人分の椅子、室内には豪華な装飾が施され、薄い橙色のテーブルクロスは革でできているのか燭台に乗せられた赤い蝋燭の光を帯びて滑らかな光沢を放っている。

 幅広のダイニングテーブルの上には三段重ねのホールケーキと赤ワインの注がれたグラスに銀色のボウルを被せられたいくつかの皿が並んでいた。ケーキのデコレーションには血のように赤いザクロとホイップクリームに混じって「meet」と意味不明な文字列が鮮やかな紅色のソースで描かれている。

 ワイングラスに視線を向けるとやや濁った深紅の液体に私は目を奪われた。部屋の明かりを反射して輝く姿はまるで宝石のようだ。ステムを持ち蝋燭の灯火に翳すとその美しさはより一層増す。

 ワインをほんの少し口に含み軽く舌の上で転がすと、やや粘り気のある舌触りがして鉄の錆びたような味わいが広がった。渋みが薄いので非常に飲みやすく、後を引く酸味の余韻が心地よい。上質のワインだ。どろりとした血のように赤く染まった液体が食道を伝い、空っぽの胃に沁み渡る。未だかつて飲んだことのない味だった。

 もしここにじっくりと焼けたステーキでも並んでいたら最高なのだが。

グラスの中で液体を揺らしながら私は考える。赤ワインといえば肉料理、勘が正しければ先ほど飲んだワインとぴったりの肉料理が用意されているはずだ。

 古びたダイニングチェアのひとつに腰かけると、私は机の上に並ぶ料理を改めて見回した。

 どの皿の上にもボウルを逆さまにして取っ手をつけたような形状の蓋が乗っている。確か正式名称をクロッシュといい、フランス料理によく用いられる代物で、英語圏ではディッシュカバーと呼ばれていたはずだ。中身を見せないために使われるというイメージが一般的だが、本来の用途は保温が必要な料理にのみ被せるためなのだと聞いたことがある。

 そんな事を思い出しながら純粋な興味で一番手前にあったクロッシュの取っ手を掴んで持ち上げると、白い蒸気と共にこんがりと焼けたステーキが姿を現した。

 ごくりと生唾をのみ込み、その肉厚の表面を凝視する。抗いようのない食欲が私の身体を満たした。

 ……なに、少しぐらい食べてしまっても問題ないだろう。

 周囲を見回すが人の気配はない。こんな豪勢な食卓を囲まないどころか手をつけないというのは逆に食材に対して失礼極まりない行為なのではなかろうか。それならばむしろ自分が食べてやったほうがよっぽど都合が良い。

 そう自分に言い聞かせると私はフォークとナイフを握り、丁寧にステーキを切り取って口の中に運んだ。舌に乗せられたミディアムレアの肉はじわりじわりと溶けていき、それを味わうようにして二、三度咀嚼する。

 途端に、ふっくらとした柔らかい肉の旨味が口の中に広がる。今までに食べたことのない味わいだ。豚肉や鶏肉よりも香ばしく、だが牛肉ともやや異なる。ラム肉の風味もするがクセがなく、食べれば食べるほど病み付きになる味だ。噛むたびに分厚い肉の感触が歯を押し返し、溢れ出す肉汁は留まるところを知らない。それはまるで一種の完成されたアートのようだ。

 それに香りも素晴らしい。すっきりとした柑橘系と爽やかな薬草の混じり合った上品で軽やかな匂いだ。どこかで嗅いだことがある気がする。恐らくサンタ・マリア・ノヴェッラのものだろう。イタリアのフィレンツに本店を持つブランドだったか。彼女がよくつけていた香水の香りに似ている。

 何故、このステーキはこんなにも彼女のことを思い起こさせるのだろうか。

 吞み込むと、噛んで柔らかくなったその肉が私の胃を静かに満たした。

 添え物のニンジンやポテトにも手を伸ばしたが、やはりメインであるステーキほどのインパクトはない。再びステーキに手を伸ばし、その洗練された味わいに舌鼓を打つ。

 気がつけば皿の上は全て空になっていた。私は満足げに腹をさするが、まだ足りない。もう少し食べたいものだ、と他の皿に目を向ける。どうせ一皿食べようが二皿食べようが食べたことには変わりない。ええいこの際だ全て食ってしまえ。

 私は次の皿に手を伸ばした。クロッシュを取り外しその中身に目を向ける。

 トマトのスープだろうか。赤いスープの表面には細切れにされた肉片と卵の白身をスライスしたようなものがぷかぷかと浮かんでいる。白身をスプーンで掬って口の中に含み、噛むと僅かな弾力があった。コリコリとした食感が面白い。時折魚のウロコのようなものが混じっていたので脇によけておいた。

 料理に舌包みを打ち、満足し終えると私は席を立った。実に豪華な食事であった。一体誰がどんな食材を用いて作ったのか見当もつかなかったが、今まで食べた料理の中で最も美味かったといっても過言ではないだろう。

 不意にぱり、と足元から小さな音が鳴る。

 靴を持ち上げて確認してみると床の上に平べったい薄い円形のプレートのようなものがあった。よくよく見るとコンタクトレンズだ。誤って踏んだせいで少しばかりひび割れている。

 ふと妙な違和感を覚えた私はスプーンを再び手に取り、皿に残ったスープを少しばかり掬う。魚のウロコかと思っていたそれは紛れもなくコンタクトレンズだ。なぜこんなものがスープの中に混じっていたのだろうか。

 赤い蝋燭が幻想的にゆらゆらと揺れている。解け落ちる蝋を目にしながら何故か自分の胸が微かにざわめくのを感じた。

 ある一つの予感が脳裏を過る。ここに至るまでの数々の要素が結びつき始める。私の脳内で誰かが悲鳴をあげた。

 赤黒い雫が、ぽたりと落ちて音を立てる。

 血の匂いがした。

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寝る前サクッと短編集 翠紅金紫 @CyberKei

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