ドロップアウト

 変化のない人生なんてつまらない。

 窓の外に広がる景色を興味なさげにただぼんやりと眺めながら僕は心の中で呟く。先ほどまで数学の教師がそのたるみきった腹を揺らしながら、やたらと僕の名前を呼んで授業に参加させようとしていたがしばらく無視し続けていたらもう声をかけてこなくなった。

 まったくもってつまらない。

僕は退屈気に大きなあくびをひとつすると、手のひらに顎を乗せたまま横目でちらりと教室を見た。黒板の前に中年の男性教師が立ち、左手に持った教科書の内容を早口で説明してはなんらかの数式をチョークで記してすぐに消し、また早口で単語を並べ立てては黒板に書いて消している。まるでプログラムを学びたての人間が練習がてら適当に一定の動作を繰り返すように組み上げられた機械のようだ。それとも脳みその代わりに出来損ないの人工知能が詰められた肉塊のほうが適切だろうか。

一人で笑いをこらえていると、教師の丸々としたキンメダイのような瞳がこちらを睨み付けた。身体も丸ければお目目も丸いのかなどと余計な思考を走らせ、頬が緩みかける。

「授業の邪魔だ!」

 どうやら頭は硬かったらしい。

ついに僕の態度の悪さに怒りが抑えきれなくなったのだろう。両腕をわなわなと震わせ顔は紅潮し、ますますキンメダイのようになっている。あまりにもおかしな顔だったもので、僕もついに吹き出してしまった。

「何がおかしい!」

 あわてて口を手で覆うフリをするがもう完全に手遅れだったらしい。教師の顔はあともう少しで破裂するんじゃないかと心配になるくらい真っ赤だ。手の隙間から細く息を吐き出しながら僕は辺りを見回す。こんなに面白い状況を楽しめているのが自分だけなんてそんなことはあるまい。

 しかし残念なことにそういう輩は誰一人としていなかった。他の生徒はといえばまるで何も起こっていないかのような様子で、黙々とノートの上でシャープペンシルを動かし続けている。少なくとも教師の様子に嘲笑を向けるような者など見当たらない。

 途端に僕は自分の感情が急速に冷めていくのを感じた。この状況がなんだか馬鹿馬鹿しくなってきたのだ。

「まだ話の途中だぞ!」

「トイレに行ってきます」

 特に何の感慨もなくそう答えると僕はトイレではなく下駄箱のほうへと向かい、靴を履き替えてそのまま学校を出た。

 自分が周囲とズレている。

 そんな感覚は昔からあった。その度に自分は正常で周りの環境がおかしいのだと自身に言い聞かせてきた。今もそれは正しいのだと信じている。別にそれが原因で周囲から疎んじられようが、社会のレールから弾き出されてドロップアウトしようが、そんなことはどうでもよかった。常に笑っていられる人間でありたい。それが僕の願望だった。

 しばらく歩き続けると学校近くの商店街に辿り着いた。平日の昼間だというのにも関わらず人の気配が全くない。客が訪れることを諦めたかのようにどの店もシャッターを降ろしている。ここでも僕は浮いた存在であるらしかった。

 アーケードを通り、むかし万引きの穴場としてよく利用していた書店の前まで来るが、残念なことにそこも閉まっていた。ため息をつき、何処か別の場所へ向かおうかとしたとき、僕の視界に見慣れない看板が映った。以前訪れたときにはなかったものだ。

 商店街に新しくできた店だろうか。こんな閑散とした場所にわざわざ店を開くような人間がいるのだなあと僅かばかり感心しながらその看板に近づく。駄菓子屋『天楽』と書かれたその傍らに薄墨色のガラス戸がたたずみ、中に入れと呼びかけているような気がした。

 戸の縁に手を滑らせて横方向に力を込めるとやや軋んだ音がして、ゆっくりと開く。一瞬中に入ろうか迷ったが、ものは試しだと言わんばかりに僕は店に足を踏み入れた。

「……こんにちは」

「いらっしゃい」

 奥の方から柔和な顔つきをした妙齢の女性が姿を現した。やや皺が見えるものの年齢を感じさせぬ穏やかなその表情にこちらまで微笑んでしまいそうになる。

「お客さんかしら? 珍しいわね。悪いのだけれど、扉を閉めてもらえるかしら?」

「あっ、はい」

 彼女の声に従い、戸を静かに閉めると僕は改めて店の内装に視線を走らせる。こげ茶色を基調とした壁や戸棚に時折宝石のような質感のアクセサリーがちりばめられている。そしてその棚にはぎっしりと詰め込まれた駄菓子の類。レトロというよりもややメルヘンチックだが、それでいて落ち着いた雰囲気の店内だ。

「何か気になるものでも?」

 店員が首を少し傾げながら尋ねる。何と答えるべきだろうか。

「ええと、じゃあオススメの駄菓子とかってありますか?」

「オススメねぇ……」

 彼女はやや考え込むような仕草を見せた後、一つの戸棚に向かい、そこから何かを取り出した。

「これかしら?」

 そういって女性が差し出したものを受け取る。パッケージにファンシーなピンク色の象が描かれていることを除けば、どこにでも売ってそうなごく普通のドロップ缶だった。

「ええとじゃあ、それください」

「まいどあり。ああ、それともしかしたらの話だけど」

 代金を払う僕に女性は付け加えた。

「もし新しいのが欲しくなったら、空っぽになった缶とお金を持ってきてね」

はい、わかりましたと返事をするとドロップ缶を持って店を出た。適当に散歩して近場の公園に着くと、爪で硬い蓋をこじ開ける。下に向けてドロップ缶を二、三度振ると、カラカラという音と共に雪のように白く丸いドロップがひとつ、手の平の上に転がり落ちてきた。

「思ったより美味しそうだな……」

 ひとしきり眺め終えると僕はベンチに座り込んでそのままドロップを舌先に乗せる。口の中でそれを転がすと、何ともいえない甘みが広がった。

「甘い……!」

 思わず僕はそう声に出していた。信じられないほどの味わいが、電流のように口内を、脳髄を、全身を駆け巡る。まさに快楽の奔流とでもいうべきその感覚を僕は恍惚とした表情で味わっていた。天にも昇るような快感。『天楽』の文字が脳裏をよぎる。

「ああ……良い……」

 がくがくと身を震わせ、口から涎をたらしながらも、その感覚に抗うことができない。快楽に身を任せるうち次第に脳が考えることをやめ、思考がおぼつかなくなっていく。だが、構わない。むしろこの方が楽だ。余計なことを何も考えなくていい。最高だ。

 不意に、その快感が途切れる。口の中のドロップが完全に溶けてしまったようだ。僕は耐えがたいほどの喪失感に襲われた。それどころか吐き気さえ催してくる。

 気が付けば缶を振って二つ目のドロップを取り出し口にしていた。再び快楽の波が押し寄せる。だがそれもつかの間のことで、飴が溶けるとすぐに止まってしまう。

 僕は三個目のドロップを取り出した。

 四個目のドロップを口に入れた。

 五個目のドロップを舌にのせた。

 六個目を舐めまわした。

 七個目をかみ砕いた。

 八個目を飲み下した。

 九個目を取ろうとした。しかし、缶の中はすでに空っぽだった。

「ああ……ああ!」

 声にならない叫びを上げる。足りない。もっと、もっとだ。

 目の前にぼんやりとピンク色の象や、空飛ぶスパゲッティの形をした化け物が現れ、ぎゃあぎゃあと何事かわめき始める。

「うるせぇ! どっか行け!」

 そう言って手を振り払うとそいつらは煙のように消えてしまった。そんな僕を見て通行人がおかしなものを見るような目つきでこちらを眺めるが全く気にならない。

 それよりもむしろ問題は缶の中身が空っぽになってしまったことである。

 新しいのを買いに行かなくては。

 僕は立ち上がった。目指す場所は先ほどの店だ。戸を勢いよく開け、店員に向かって怒鳴るようにして言う。

「さっきのやつ、ください」

「ええあるわよ。約束通り空っぽの缶は持ってきたかしら?」

 言われたとおりに缶を差し出すと、女性はそれを耳元で上下に振った。中身が残っているのか確認しているのだろうか。しばらくすると、にこやかな笑みを浮かべて空の缶を戸棚にしまい込む。

「よしよしいい子ね。これが証拠として残るとのちのち困るのよ……。ああ、気にしないで。ほら、新しいのよ」

 証拠といったような気がしたが頭の回らない今の僕にはさっぱりだった。

 先ほどと同じドロップの缶を受け取る。

「あの、多めに買っていきたいんですけど」

「それはできない約束なの。ごめんなさいね、規則なの……ってまあまた私余計なことを口にして……。安心して、ドロップはまだまだいーっぱいあるわ」

 ぼくはこくりと頷くと先ほどと同じ料金を支払う。耐えきれなくなって蓋を開けその場でひとつ口にした。

 たちまち迸るような甘味で全身が満たされる。

「あまい……」

「あまい? なら良かった」

 ようやく少しはまともになってきた頭で女性に尋ねる。

「このドロップ、いったい何で出来てるんですか」

「これ? うーん、私も中身はなんだかよく知らないわ。人に幸福を与えるとかそういうものだってことは理解してるけど……。ただ、買いにくるお客さんは結構多いの。みんな辛い現実から逃げ出したいのよ。その手助けをしてるだけ」

「そうなんですか。でも、このドロップを食べて気持ちが楽になりました」

「それはほんとに良いことだわ。またいつでも買いにいらっしゃい」

「ありがとうございます」

 僕は店を後にする。

 そうして、僕とドロップの生活が始まった。決められた時間など存在せず、ふとほしくなった時に一粒食べる。そうして一瞬の快楽に身を浸す。足りなくなったら買いに行く。今やドロップだけが日々の楽しみだ。やめようと思ったこともあったが時々現れる幻覚に打ち勝つこともできず、結局はドロップを口にした。

 あれ以来学校はもう行っていない。

 ドロップを買うお金を手に入れるために学校で財布を盗んだり、両親の金に手を出したのがバレて目の前で泣かれたりもしたけどもそんなことはどうでもよかった。

 身も心も、あの甘い悪魔のような味わいに魅せられてしまったのだ。他の甘味料では全く満たされなくなっていた。アイスも、ケーキも、市販のドロップでも駄目だった。

 あの店のドロップでなければならないのだ。

 口の中で甘いドロップを転がしながら考える。

 そう、僕の居場所はここにあったのだ。この、ふしぎなドロップに。甘くて素敵な楽しい世界の中に。

「さて、と」

 僕は立ち上がった。また新しいのを買いに行かなくちゃ。

 空っぽの缶をポケットにしまい、今日も僕はぼろぼろになった財布を持ってあの駄菓子屋へと向かう。

 さびれたシャッター街にある、『天楽』の看板を掲げたあの店に。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます