ミステリ

霧の中の交差点

 その日はやけに霧の濃い日だった。

 私はいつも通り、書類がぎっしりと詰まった鞄を手に提げて会社へと向かっていた。

 通勤はいつも徒歩だ。住宅が立ち並んだ川沿いの通りを主に使っている。普段は散歩中の老夫婦や暇そうな学生が寝転がって空を見上げているものだが、今日はそのような光景は見受けられない。代わりに分厚い雲のような霧の壁が何層にも重なって道を阻み、太陽の光を遮っている。

 私は静かに足を早めた。

 霧の中はあまりにも薄暗く、進むたびに方向感覚を見失ってしまいそうになる。懐からスマートフォンを取り出し地図アプリを開こうと思ったが何故か電源が入らない。故障でもしたのだろうか。おまけに腕時計も忘れてきてしまったようで、現在時刻を確認することさえままならない。

「今日は厄日だな」

 一度家に帰るべきか迷ったが、私は進むことを選択する。

 ふと、前方に人の形をした影が映写機でスクリーンに投影された映像のように音もなくふわりと映し出された。恐らく私と同じようにこの霧の中を歩いているのだろうか。しばらく近づくと、その人物もゆっくりとこちらに足を進めてくる。

「やぁ」

 声を出したその相手に私は思わずぎょっとした。分厚い霧の向こうから顔を出したその男は、私と全く同じ顔つきをしていた。スーツを着込み、鞄を握りしめている。

「会社はすぐ傍だよ。気を付けてな」

驚きのあまり声すら出せない私に、私の顔をした男はニヤリと笑ってみせると、そのまま脇をすり抜けて霧の中に消えていった。

「一体何だったんだ……」

 呆然と呟く。幻覚でも見ていたのだろうかと思い自分の頬をつねってみたが、単純に痛いだけだ。

 不意に私は昔見た映画を思い出した。正体不明の霧が街に溢れ、その霧から怪物が現れては人々を襲う話だ。ラストがどうしても思い出せないが、とてもグロテスクで絶望的なストーリーだったと記憶している。

 もしかすると先ほど見たのは霧の中に潜む怪物なのだろうか。

 まさかそんなことがあり得るはずがないと私は否定する。

 霧は非常に濃く、自分の足元がようやく見えるほどだ。当然前方は真っ白で先行きなど見通せそうなはずもない。その上、進めば進むほど霧が濃くなっているような気さえする。

 私は躓いたり、誰かにぶつかったり、仮に水たまりなどがあったときにうっかり足を踏み入れたりしないよう細心の注意を払いながら先へと進んだ。

 しばらく歩き続けているとまた前方の霧に人のシルエットが映り込む。先ほど現れた私と同じ顔の人物とは全く異なっている。近づくと眼鏡をかけた痩せぎすの男がそこにいた。

「さ、先ほどはありがとうございました」

 その男は私の姿を認めると、いきなりそう言って頭を下げた。困惑した私は自分の思ったことをそのまま口にしてしまう。

「ええと、何で見ず知らずの君にお礼を言われるのか分からないのだけど」

「何を言ってるんですか。さっき僕の事を助けてくれたじゃないですか」

「さっき……助けた?」

「はい!」

 ひょっとして、と見知らぬ青年を前に私はある可能性を思いつく。

この男は先ほど私が出会った私の姿をした何者かのことを言っているんじゃなかろうか。

「人違いなんじゃないか?」

「そんなわけないでしょう! 僕は確かにあなたに助けられましたよ! それともなんですか、この霧の中で幻覚でも見たっていうんですか?」

 幻覚か。その言葉を聞いて私は苦笑する。先ほど自分と全く同じ身なりをした人間を目の当たりにしたと言えばこの男は信じてくれるのだろうか。

「あ、ああ。只の冗談だよ。思い出した、そういえばさっき会ったね。どういたしまして」

「い、いえこちらこそありがとうございました!」

 適当に話を繕い早々に切り上げると私はその場を後にする。

 自分自身何が起こっているのか分からなかったが、とにかくこの霧の中で何かが起こっているのは確かだった。早く晴れないものかと心の中で願うが、相変わらず霧は視界を覆い尽くしたままだ。

 とにかく歩けば問題ないはずだ。そう信じて進み続ける。するとまた、人影が見えた。今度は大きい影と小さい影の二つだ。親子だろうか、そう思った矢先若い女性と小さな女の子が手を繋いで目の前に現れた。

 私の姿を認めると、女性は軽く会釈する。

 その隣で女の子はにこにこと笑っていた。

「また会ったねお兄ちゃん! さっきはありがと!」

 屈託のない笑顔にどこか既視感を覚えながらも、どういたしましてと返事をする。尤も感謝されるようなことをした覚えは一切ないのだが。

「それとね、お兄ちゃん。お願いがあるんだけど……」

 そう言っておずおずと差し出してきたそれを受け取る。四角く薄い。べりべりと音がして剥がれた。男子小学生が好むようなマジックテープの財布だ。一体これは何かと尋ねるような視線を投げかけると女の子は笑って「落し物。持ち主に会ったら渡しといてほしいの」

 一体誰に、と問いかけようとすると、その二人はただ静かに笑顔を浮かべて霧の中へと消えていった。

「……後で交番にでも届けておくか」

 誰に向けたわけでもなく呟いて歩きはじめると、不意に霧が開けた。懐かしい朝日に照らされた街並みが私を出迎える。

 ぐるりと周囲を見回し、そこで自分の会社が存在していないことに気づく。

「……まさか」

 慌ててスマートフォンを取り出すと電力が僅かに回復していた。すぐさまマップを開き、現在地を確認するとちょうど会社とは真逆の場所に来ていた。どうやら霧の中で思わぬ方向音痴ぶりを発揮してしまったらしい。

 初めに出会った私と同じ顔つきの男の言葉が頭をよぎる。

「会社はすぐ傍だよ」

 確かに奴はそう言っていた。まるで全てを見透かしていたかのように。

 時間はもうあまり残されていない。私は意を決し、再び霧の中に舞い戻る。

 走る。ひたすら走る。

 私は何事にも気を取られることなく霧の中をただ走り続けた。途中で下卑た声を挙げながら少女を追いかけまわす全裸の男に出くわし、邪魔だといわんばかりに突き飛ばして転倒させながらも走り続けた。霧の中で財布を落としましたと泣きついてきた眼鏡の男に拾ったマジックテープの財布を投げつけながらも走った。

 そして走りに走り続けて、ふとそこで立ち止まる。スマートフォンの地図アプリを起動し現在地を確認すると会社のすぐ近くまで来ていた。時間的にもここから歩いて充分間に合う。ついに残った電力を使い果たしらしく、スマートフォンの画面が黒に染まった。

 さて、と顔を上げると前方に黒い人影があった。見覚えのある人影だ。私は次に起きる出来事を思い出しながら、それに近づく。

「やぁ」

 声をかけられたことに驚いたのか、それとも私の姿に驚いたのか。恐らくその両方だろう。私と全く同じ顔立ちをした私は、目を丸くさせていた。

「会社はすぐ傍だよ。気を付けてな」

 私はニヤリと笑ってみせると、そのまま脇を通り過ぎて霧の中に姿を消した。

 背後ではきっと、私自身が私自身の存在について首を傾げていることだろう。

 私だってこの一連の意味不明な現象についての説明が欲しいくらいだ。

「不思議なことも……あるもんだ、な」

 全くもって今日は厄日だ。

 霧を抜けた先に現れたオフィスを眺めながら、私は一人呟いた。

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