忘れかけていた情熱

 夕暮れ時の校庭は、沈む太陽の光に照らされ茜色の光彩を帯びていた。

 青いユニフォームにそれぞれの番号を背負った生徒たちが、声を張り上げながら人工芝の上を駆け回っている。

 その一団の先頭を行く青年の足にはサッカーボール。一直線にゴールネットを目指し疾走している。彼を阻もうと何人もの男が立ちふさがるがそれらを難なく切り抜け、やがて蹴り飛ばされたそれは勢いよく回転しながらゴールネットに突き刺さった。

 ギャラリーからわぁっと歓声が上がる。

 ゴールを決めた青年は声の方向に笑顔で手を振った。

 女子生徒の声援を浴びながら微笑むかつてのチームメイトの姿を眺めながら、博は自分が憂鬱な気分に陥っていることに気がつく。

 何故、自分はあの場にいることが出来ないのだろう。チームメイトと冗談を飛ばしながら練習に励み、観客の声援に笑顔を返し、コーチから叱責を受け、見返してやろうと必死で努力する。そんな当たり前のことがどうしてできないのだろう。

窓の外で青春を謳歌する学生たちの姿を羨ましげに見つめながら博は大きなため息を一ついた。

「博先輩、こんなところにいたんですね。……また、部活の見学ですか?」

 暗く冷たい廊下に静かな女性の声が響き、俯いた顔を上げる。その口調に自分の身を案じるかのような響きを感じ取った博はその相手に対して激しい嫌悪感を覚えた。

「そうだ」

「でも先輩、もうサッカーは……」

「誰のせいで」視線を眼下の光景に注ぎながら博は憎々しげに言葉を吐き出す。「誰のせいで、俺はこんな身体になったと思ってるんだ」

 少女は目線を床に落とすとかすれた声でごめんなさい、と謝った。両肩は僅かに震えていた。


***


 博は生まれた時から才能に恵まれ、将来は日本を背負うサッカー選手になることを周囲から期待されて育ってきた。彼自身も皆の想いに応えようと必死に鍛錬を続け、決して自らの才能に溺れることはなかった。

 練習漬けの幼少期を過ごし、中学時代は全国大会で優勝を経験。推薦で県内有数のサッカー強豪校に入学してからも部活動を始めとする様々な場において多大な成績を残し、高校卒業後にはプロ入りも夢ではないとまで言われていた。サッカーという一つのスポーツに十七年もの年月を捧げた彼にとってまさに絶頂の時期。そしてそんな中で事件は起きた。

 ある日の部活の帰り道。目の前に現れた何の変哲もない一台のトラック。赤い屋根が特徴的な一軒家の外壁に寄り添うようにして停められていたその車は彼の目の前で突如豪快なエンジン音を吹き鳴らし、一瞬のうちにその少年を撥ねた。

博は何とか一命を取り留めたものの事故の後遺症で両脚がほとんど動かなくなり、彼は一生を車椅子の上で過ごすことを強いられた。夢も希望も何もかも失った博の心は完全に壊れ、その行き場のない怒りは一人の少女に向けられた。

 その少女の名前は千夏といった。博より一つ年下の後輩で穏やかな雰囲気をした女の子だ。サッカー部のマネージャーを務めいていたため知り合いでもあった。そして千夏は、事件を引き起こした男の子供、つまり博を撥ねた人間の娘だった。

 彼女は必死に謝り続けたが、全てを奪われた博はそれを許そうとはしなかった。

「俺はお前の父親を一生許さない」

 怒りに満ちた表情で涙を浮かべる少女を睨み付けた。そしてその日以来、千夏は何を思ったのか頼まれてもいないのに、博の身の回りの世話をするようになった。


***


「ご飯、できましたよ」

 相変わらず自分のことを労わるような雰囲気を帯びた声に博はふと我に返る。どうやら学校から家に帰ってきた後眠り込んでしまったようだった。自分の身体に妙な感覚を覚えてその原因を確かめようと手を動かすと優しい感触に触れる。焦げ茶色の薄い毛布が肩の上からかけられていた。博は無言で毛布をはぎ取った。布は静かに空気を切り、そのまま床に落ちる。小さな音が部屋に反響した。

 そのかすかな音に気付いた少女は慌てた表情で毛布に駆け寄り、それを拾おうとする。背中を向ける少女に博は舌打ちする。

「余計なことを……」

 しかし彼女は何も聞こえなかったかのように黙々と薄い大布を持って立ち上がり、博の顔を見て「ご飯をお持ちしますね」と笑顔で言った。

 しばらくして長方形のお盆の上に乗せられた夕食が白い湯気を立ち上らせながら運ばれてきた。ハンバーグ、サラダ、コンソメスープに小麦色のブレッド。博の好物ばかりが並べられていた。

「今日の料理は私が作ったんですよ」

 パンをちぎって口にした博はその言葉を聞くと食べかけのそれを皿の上に戻し、それを投げ捨てた。皿の割れる音が風通しの良い部屋に反響し、突然のことに驚いた千夏はびくりと身体を震わせる。

「帰れ」

 怒りと軽蔑を孕んだどす黒い声が博の口から洩れる。

「帰れ。二度と来るな」

 凄味のある目つきで睨み付けられた千夏はしばらくの間その場に立ち尽くしていたが、やがて下唇を噛みながらも俯き、顔を上げ、無言で床を片付け始めた。まるでこみ上げる自分の感情を必死で抑えこむかのように。皿の破片とパンの塊を拾い上げ、彼女は会釈して博の部屋を出た。沈黙が空間を満たす。

 廊下に二つの足音が響く。博は車椅子の向きを動かし、窓の方を見た。そこには電灯に灯され、夜の闇に浮かぶ玄関がある。博の母親が彼女と話していた。

「今日もありがとね。あの子も少しはリハビリする気になってくれるといいんだけど」

 母親の呟きに千夏は無言で会釈をして帰っていく。その姿を窓越しに眺めながら博はコーンスープに口を付ける。まろやかな甘みが特徴的な黄金色のスープは何故かいつもよりとても不味く感じた。


***


 目を覚ますと時計の針が午前六時を指していた。窓の外に映る景色はまだ夜の名残を漂わせており、辺りは徐々に白色が混ざり始めた灰色だ。

 博は上体を起こすと自室の壁に設けられた木製の手すりを掴み、自分の足代わりである車椅子の、やや硬めなクッションの上に腰を下ろす。そのまま両腕で車体の向きを変えると、電灯の光に照らされた無人の玄関口が見えた。

いつもならあそこに千夏が立ち、博の視線に気づくと必ず微笑みを返していた。そんな彼女の姿はどこにも見当たらない。

 千夏は今日も現れなかった。感無量で外界に広がる現実を眺めながら博は思考する。

 博が苛立ちのあまり千夏に怒声を浴びせ、彼女が彼に姿を見せなくなってからもう三日になる。初めは喜んでいた博だったが、さすがに土日を過ぎてもなお現れないとなると少しばかり焦りを覚えた。今まで千夏は毎日欠かさず博の介護をしていたのだが、こんなことは初めてだった。

 一瞬、頭の中に心配という単語が浮かび、それを即座に否定する。そんなはずがない、寧ろあの女が去ってくれたおかげでせいせいしているくらいだ。なのに、何故だろう。こんなにも居心地が悪いのは。

「もしかして、千夏ちゃんのことが心配なの?」

 背後からかけられた声に振り向くと、いつの間にか母親が戸口の所に立って、こちらを見ていた。

「まさか。ただいつもと違って家の前に立ってないから少し気になってるだけだよ」

 正直な言葉にふうん、と納得とも推量ともとれない声が返される。

「ご飯出来たわよ。リビングに置いておいたから自分で食べに来なさい」

「……分かったよ」

 入口に背を向ける母の背中を追い、自分の腕で車輪を回して平坦な床を進み、リビングへと向かう。リビングに設置された四人家族用の白いテーブルの上には白米やみそ汁といった昨日とは真逆の、古風な朝食が並んでいた。

「あなたに渡しておくものがあるわ」

 黙々と機械的に食事を口に運び始めた博の前に、母親は一本の紐を差し出した。赤、青、黄の三色の糸が螺旋状に絡み合ったその細い紐は20センチほどの長さがある。

「ミサンガ?」

 それをみて博は怪訝そうな顔で呟いた。

 博の通う高校のサッカー部において、ミサンガはある特別な意味を持つ。それはサッカー部の大事な試合の前に必ず行われる伝統儀式のようなもので、部員の勝利を祈願してマネージャーが手製のミサンガを選手一人一人に渡すというものだ。

博は口元に運びかけていた味噌汁を机に戻し、ミサンガを手に取って眺める。

「実は、千夏ちゃんね」母親は一瞬言葉を切り、その後に続く言葉を伝えるべきか迷うような表情をした後、決心したかのように口を開く。

「引っ越したの」

 いきなり巨大な棍棒で自分の頭を殴られたような驚愕のあまり、博は声を出すことができなかった。頭の中に浮かぶ無数の疑問符を慌てて振り払い、どうにか冷静な顔をつくろう。

「理由は分からないわ」博の心の内を見透かしたように母親は言った。「今日になったらそのミサンガを渡してくれって。そう頼まれたわ」

少年はただただ驚きに満ちた心情でそれを見つめることしかできなかった。


***


 博が鈍い速度で校庭に辿り着いたときにはサッカー部の朝練はもう終わっていた。練習を終えた部員たちはユニフォームから制服に着替えつつ、それぞれの話題に花を咲かせている。博は遠目から彼らの様子を眺めていたが、その内の一人が博の姿に気づいたのか部員たちの輪から抜け、こちらに駆け寄ってきた。

「よぉ、博。久しぶりだな」

 サッカー部時代に博の最も親しかった人物で、今はチームのキャプテンを務めているその男は右手を軽く上げて挨拶した。博も同様に右手を上げ、そのまま互いの手の平を打ち合わせる。

「調子はどうだ」

「まあまあかな、足の調子は悪いけど」

「冗談言えるくらいには回復したようだな」

 男が頬を綻ばせ、博もつられて笑う。二人はそのまま何気ない会話を交わしていたが、暫くして周囲を見回した後、男が唐突に聞いた。

「ところで、千夏は?」

「……引っ越したよ」

 一瞬答えるべきかどうか迷った末、博は視線を校庭の地面に向けつつ一つの言葉を口にする。キャプテンは感慨深く「そうか」とだけ呟いた。そのまなざしは今は座り込んで談笑する部員たちの方に捧げられている。「いつかこんな日が来るんじゃないかと思ってたよ」

「……千夏がいなくなった原因を知ってるのか」

 博は無意識のうちに問うていた。キャプテンは彼に視線を向けると、僅かな沈黙ののち重々しく口を開く。

「千夏と俺は小さい頃からの知り合いでな。あいつの家は凄く貧しかったんだ。あいつの両親は毎日遅くまで働いて、千夏を学校に通わそうと頑張ってた。あいつ自身も学校が終わった後は必ずバイトに行き、休むことなく働いて自分の親の負担を減らそうとした。昔から誰にも弱みを見せず、死ぬ気で毎日を生きていたよ。そして、そんな生活を送る中で、ある日あいつはお前を見たんだ」

 キャプテンは言葉を切ると、今度はしっかりと博の顔を真正面から見据えた。博はただ真剣そのものの表情で男の言葉に耳を傾ける。

「千夏は誰よりも楽しそうにサッカーをするお前の姿に憧れた。なんて自由で、美しく輝いているんだって。それからあいつはサッカー部のマネージャーになった。もちろんバイトもやめずにな。時々辛そうな顔をしていたけど、今が一番楽しいんだって笑ってたよ。でもそんな中で事故が起きた」

 事故という単語に反応して博の肩がびくり、と震える。

「あの日、宅配業者の仕事をしていたあいつの父親は日ごろの疲れが溜まったのか、車のエンジンをかけたまま居眠りしてたらしいんだ。そして目を覚ますと予定の時刻をとっくに過ぎていて、焦った千夏の父親は周りを見ずにアクセルを踏んだ。そこにお前がいるとも知らずにな。そして事故が起きた。当然あいつの父親は会社をクビになり、母親と千夏の負担はますます増えた。きっとあいつがこの街を去ったのはもう他に出来る仕事を見つけられなくなったのかもな」

 今まで博が知りえなかった事実、彼女が決して口にしようとしなかった言葉が次々にその姿を見せ始め、ただ博はそうだったのか、とその言葉を受け入れるしかなかった。激しい後悔の念が浮かび、俯いて茶色がかった地面を見る。

「あいつはな」博の様子を見かねたようにキャプテンは言った。「サッカーしてる時のお前が一番輝いてるって言ってたぜ」

 博ははっとなって顔を上げた。微笑むキャプテンの表情に千夏の姿を思い出す。そう、彼女は決して自分の弱みを見せようとせず、いつも自分に微笑んでくれた。どんなに辛いことを言われても笑顔でそれを耐え続けた。博の足が治ってくれることを、自分の意志でどうにかしてみせようとする決意をしてくれることを信じて。

 車椅子の少年は決心を決め、ミサンガを握りしめると男に背を向ける。

「もしあいつが戻ってきたら、弱々しい俺の姿なんて見せてられないよな。だから俺も頑張るよ。千夏がそう願ったように」

 博は後ろを振り返ると、いつか自分を傍で支えてくれた少女のように微笑を顔に浮かべて眼前の男に一言告げると、車椅子を漕ぎ出した。

 朝日が、彼の行く道を示すように、世界を何処までも照らしていた。

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