最終話 a new beginning 〜新たな始まり〜

 壮空そらの茶色がかった髪の向こう、サラリと落ちるとリビングに置かれたクリスマスツリーが目に入る。放たれる青と白の光が淡く柔く輝くと、混ざり合って「空色そらいろだね」って声を弾ませる私に壮空がはにかんだのは、何年前のクリスマスだっただろう。


 今、壁を背に、私の背中に回した右腕も顔の右側に触れる左手も「奪っていい?」って言葉とは裏腹に温かくて、むしろ守られてるような安心感さえある。

 僅かな戸惑いを越えて近付いた壮空の唇は、どこまでも優しく触れる。私の、左頰に。


 動揺の中、消えかけていた筈の鼓動が動き出すと、微かな記憶が色鮮やかに蘇ってくる。


 幼稚園の白雪姫のお遊戯会。現実には叶うことの無い、王子様の壮空と白雪姫の私のキスシーン。あの時も、壮空が触れてくれたのは、私の左頰だった。


 二人きりの静かな空間で感じる、この痛い程に脈打つ規則的な音は何? 誰のもの?


 ゆっくりと壮空の顔が離れる。どこか刹那的で、でも苦しげな表情をして私を見つめるその目と、瞬きを忘れた私の目が合った。


「何、これ。いつもの、冗談? それとも、からかってる?」


 声が震える。けれど、それに応じる壮空の声も小さく揺れてる。


「冗談じゃない。言ったじゃん。浮気は許せても、本気なら認めない」


「何それ……。意味が、分からないよ」


 力が抜けて、腕に掛けていた壮空のコートと一緒に階段に座り込むように崩折れると、続いて壮空も階段に膝をついた。


「……中学の時」


 絞り出す壮空が俯き加減でどこか一点を見つめる。今の壮空からはいつもの精悍さを感じられない。


「美乃梨に試されるような態度ばっか取られて、最初は意味分かんなかったし、羞恥心の方が強くて突き離したりしてたけど、美乃梨が他の男と付き合い始めてからやっと気付いたんだ。俺は、美乃梨が好きなんだって……」


「え……?」


 掠れる声で壮空の顔を見る。瞬間、鼓動が乱れて、呼吸が止まりそうになった。


 壮空は今、何て言ったの?


 眉間に皺を寄せた壮空の顔に赤みが差すと、隠すように壮空の手の甲が頰に置かれる。


「俺とは話しもしなくなったクセに、夏休みに手繋いでそいつと出掛けてくとことか、家の前でキスしてんのとか見て、何で俺以外とって、何でこんなに苛立って、何で刺されたみたいに痛くなんだって、そうなって初めて自分の気持ちに気付いた。「彼氏できるかも」って言われた時、バカみたいに余裕のあるフリなんてすんじゃなかったって。なのに、今更嘘だったなんて余計に言えなくて。時間が経てば経つ程言えなくなって。一人、むしゃくしゃして、苦しくて、行き場が無くてっ。先輩から誘われたのがキッカケだったけど、それから美乃梨のこと思い出さないで済む相手と付き合うようになった。自分の気持ち伝えるより、美乃梨と幼馴染でいられる道を選んだんだ。美乃梨の前ではかっこつけたままでいたくて。いつも「壮空、かっこいい」って言ってくれてた美乃梨に幻滅されて、傍にさえいられなくなるのが怖かったから……っ」


 現実感の無い言葉。見たことの無い壮空の姿。

 これは、夢……? 誰の話?

 何で今、言うの?


 あの頃も今も、私はどんな壮空でも好きだった。きっとどんな壮空を見ても傍にいたいと思って、嫌いになることなんて無かったと思う。

 でも、何も言われなければ、聞かれなければ、伝える機会も無かった。私も何一つ、伝えようとしなかった。


 けれどもう、今の私に言えることは一つしかない。


「わ、たしは、今、柊二が、好きだから……」


「柊二なんて呼ぶなよっ。今まで付き合ったやつ、俺の前で名前で呼んだことなかったじゃん……」


 ドクリと心が震える。溶けきれなかった想いが勝手に結集し始めて、何かを形作ろうとする。たぶんそれは、前とは形状も硬さも異なるものだって気付いてしまう。


 だからその前に、無理矢理にでも蓋をしなくちゃいけない。


「そ、れは……っ」


「分かってるよ。美乃梨の顔が今までと違うってことくらい。中一の頃、俺に見せてた顔と同じだから。あの頃はそれが普通で、特別なことなんだって気付きもしなかった」


 壮空にはもう、柊二みたいに何かを期待して落ち着かなくなったり、欲しい言葉を求めたりしない。


「俺には寝てる間しか言わなかったのに、あいつにはあんな声で言ってんの? 抱き締めたくなるくらい震える声で、好きって、目を見て? 教室で? 美乃梨の部屋で?」


「壮空っ、聞いてたのっ?」


「そんで最後に大嫌いって言うの? あいつにも。それとも、俺だけ? あんな美乃梨の声、どんな言葉でも誰にも聞かせたくない……っ」


 柊二となら、壮空みたいに痛くて泣いたりしない。

 それが事実だって、自分に言い聞かせる。


 いつの間にか階段の上で小刻みに震えていた私の手に、壮空がそっと手を重ねてくる。

 反射的に立ち上がって振り解こうとしたその手を力強く握られたら、もう、拒めない。

 再び階段へと座り込む。


「一番近くにいるのに、美乃梨の本心がいつも一番見えなかった。今の美乃梨が俺に望むのは必要な時に助けてくれる幼馴染だけで、それ以上じゃないって、それをはっきり知るのも怖くて、中途半端に繋ぎ止めてばかりで、それでも傍にいられるならって必要とされるならって、うやむやのままにしてきた。誰よりも大事にしたいのに、こんなはっきり美乃梨が離れてくと思ったら、俺のこと忘れてくと思ったら、もう仕方が分かんない……っ」



 こんなに余裕の無い壮空を初めて見た。

 小さな子どもみたいに震えて、私に想いを届けてくれる。


 だから、聞いたらダメだって、心が叫んでる。


 でも、本気で抵抗しない身体は、きっと聞きたくて、言って欲しくて、この瞬間を未だに待ち望んでいた。



 壮空が深く呼吸する息遣いが聞こえて、一度伏せた視線とぶつかったら、捕まって引き戻されて、微動だにできなくなる。



「美乃梨、好きなんだ。本当はずっと、美乃梨のことが好きだった。誰よりも、何よりも、好きで、大切で、今こんな風に伝えるつもりじゃ、無かったのに……っ」



 どこかで、誰かが囁く。

 壮空の一言に揺らぐ決心なんて、もう必要ないでしょう?

 だって、私は今……。



「誰と付き合っても、全然気持ちが消えない。俺のこと好きじゃなくても、大嫌いでもいいから、ずっと俺の隣にいて欲しい。美乃梨を、幼馴染じゃなくて彼女として抱き締めたい」



 どうしようもなく溢れ出る涙の意味を理解する前に、私はこの口を動かさなきゃならない。



「壮空……、私は今、柊二の彼女なの。私は、柊二が好きなの。だから壮空の彼女には、なれな……い」



 ずっと夢見てた。

 いつもは家族で過ごすこの時間を、いつかは好きな人と、壮空と二人で過ごせたらって。


 五年間も。

 ううん、きっと産まれる前からほんの先月まで、すぐ消える泡みたいな期待を持ち続けてた。



「それでもっ、それが永遠じゃないなら、俺はもう逃げたくない。明後日のクリスマス、俺と一緒にいて欲しい」


「明後日って、その日は毎年……」



 でも、ただの空想だって。

 叶わない願いなんだって、諦めて、言い聞かせて、何度も、何度も。

 それでもせめて、壮空がいてくれるなら家族と一緒でもって、私が繋いでしまう。



「うん。今日の俺の誕生日みたいにお互い彼氏彼女がいても、毎年必ず家族で祝ってたよな。美乃梨の、誕生日だから。一年で一番特別な日を、本当はずっと二人きりで過ごしたいと思ってた。どんなにダサくても、かっこ悪くても、例え美乃梨に彼氏がいたとしても、今年こそはそう言おうって、文化祭が終わった後で伝えるつもりだった」


「文化、祭……?」


「先輩との一件があってから本気で悩んで、そう決めて、今年は俺と二人きりじゃダメ? って、俺は美乃梨が好きだったって。あいつとネクタイ返しに来なきゃ。今まで言ったこともないのに二人で同じ顔して、俺に、付き合うことになったなんて言いに来なきゃ、本当は伝えるつもりだったんだ」



 だから彼女にはなれなくても、幼馴染として傍にいられるならそれでいいって。柊二を好きになってやっと心から思えるようになった。


 それなのに。


 ——壮空も、本当はずっと、私と同じ気持ちだったの?



 いつか佐和に言った。私と壮空は、きっと幼馴染っていう交点を最後に、永遠に交わらない二本の直線上を歩いてるのかもって。それに佐和は「交わりたい早河さんが曲線なら、真中君は漸近線ぜんきんせんみたいな感じだね」ってグラフ書いて教えてくれたけど、それだけは納得できなかった。



 私は壮空との『幼馴染』っていう交わりがあるから歩いて行けるんだから。そこが出発点で、到着点で、いつでも自由に行き来できる交差点でなきゃ、私はどこにも行けない。


 それを失くした自分なんて、想像したこともない。




 壮空がいない私なんて、考えられない。




「……ダメって言ったら、壮空はもう傍にいてくれないの?」


「……何で確かめんの? そんなこと」


「あっ、違……っ、今のは」


「……おじさんたち心配するし、戻ろ、美乃梨」


「えっ? 壮空、待って。私まだ……っ」


「昔、俺たちの秘密基地で、滑り台の上で約束したよな? 俺がずっと美乃梨を守るって。俺は今でも覚えてる。だから美乃梨が傍にいてって言うなら、ずっと傍にいて俺がこの手で守りたい。美乃梨がそれを望んで、俺に言ってくれるなら、必ず」


「待って。分かんないよ、こんな急に色々言われて。だって、私……。それに、この手は?」




「離さない。もう何があっても俺からは離さない。だから、要らないならこの手、美乃梨から離して」




 ずっとそう、思ってた————。

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