第70話 忍び寄る影


 あと一歩気づくのが遅れていれば、本当に手をかけられていただろう。薫はハッと蒼白になり、傍らの桜子を乱暴に突きとばした。

 突然のことに尻もちをついた桜子が、憤慨して文句を言おうとすると——見あげた先に、黒装束をまとった人物が音もなく佇むのが目にとまった。


 しゃの垂れ幕をしているせいで顔は見えなかった。薫がかばうように伏せたままの桜子の前をふさぐと、その人物は野太い声で言った。



郡司こおりのつかさの息女、刀祢とねの桜子殿とお見受けする」



 そう指摘され、さすがの桜子も思わず身を引いた。ここで誰かの手にかかるわけにはいかない。

 薫は背後に桜子をかばったまま、敵意を隠そうともせず言いはなった。


「お前は誰だ。この人に手を触れたらただじゃおかない」


 そこで男は、初めて薫を視野に入れた。


「お前が黄泉の淵を渡る者か。組織を裏切り足抜けした男の性質を、受け継いでいる童男おぐなというわけだ」


 男は冷ややかにそうつぶやくと、懐から匕首ひしゅを引き抜いた。鋭く白いやいばが反射する。


「その芽は早く摘み取っておかねばならない」



 男に殺意がみなぎるのを見て桜子は息を呑み、直後怒りが体の奥底から湧きあがった。そんなことは到底、許すことはできないと思ったのだ。

 桜子は後ろからかまえ直した薫の腕を引くと、男の目の前に立ちはだかって言った。



「そんな勝手は絶対ゆるさない。だいたい恥ずかしいと思わないの。大の男が丸腰の子供に刃物をふるうなんて」



 男は桜子が前に来るとやや勢いを削がれたようだったが、匕首をおさめようとはしなかった。



「かばいだてなさいますな。そなたは何を庇護されているかをご存知ないのだ。そやつは黄泉の淵を渡り、風穴を開けるもの。放っておくと、大きな災いを呼ぶ」



 薫が——災いを呼ぶ?


 しかしそんな言葉に惑わされるわけにはいかなかった。桜子は相手をキッとにらみすえた。



「あなたの目的は私のはずでしょう。薫の何が災いになると言うの」


 その問いかけに男は冷笑して、背後の薫を見やるようにした。


「なるほど、何も知らせていないというわけだ。だがお前が水脈筋の奥深くに渡り、黄泉の淵を広げている事実に相違はない。

 その穴がこれ以上開かれればどういうことになるか、お前自身も分かっているだろう」



 桜子は、思わず男から目をそらし薫を見た。

 薫はこぶしを握りしめたまま俯き、むきだしにした敵意も失せて見える。



 ——どうして何も言い返さないのよ。



 薫の様子に打ちのめされるように桜子は思った。

 薫がうなだれると、男は残酷な笑みを浮かべたまま言った。


「桜子殿の身柄は保証しよう。先の守り手に出生を定められた時、お前は忌まわしい力を得てしまった。生まれてくるべきではなかったのだ」



 男は匕首を片手で持ち直し、突くかまえを見せた。


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