第三十一話 引きこもりと恐怖の神出鬼没

「いやあ……楽しかったなあ」


 風呂場に間延びした俺の声が反響する。

 三人でパンケーキを食べに行った夜、久しぶりのちゃんとした外出を俺は満喫しきっていた。まだ少し人込みでは不安になるが、リハビリは大分進んだと言っていいだろう。

 この調子なら年明けの復学も難しくない。


「……というか、お姉さんが空き巣に入ってからまだ一ヵ月も経ってないのか……」


 波乱の半月すぎる……

 あと五日もすれば正月だ。来年はいい年にしよう。


「う~~~ん……!」


 ぐっと伸びをして、俺は湯船から体を起こす。水音がじゃぷじゃぷと響いて、少しのぼせた頭がくらりとした。

 汗を流そうとシャワーを浴びていると、ふと鏡が気になって俺はちらりと視線をそちらに向けた。



 全裸の冷華さんが俺の背後に映っていた。


「!?」


 慌てて振り返るも誰もいない。

 嫌な汗がぶわっと湧き出して、俺は恐る恐るもう一度鏡に目をやった。

 

 いない。


「き、気のせいか……」


 よかった……幻覚か。

 いや幻覚もよくないけど。


 『開けたら人がいる』という最大級の恐怖が今日俺を襲ったので、幾分かトラウマになっているらしい。俺は一体いくつトラウマを抱えればいいんだろう。

 ともかく、俺は過剰に冷華さんを恐れているようだ。これもやはり疲れているのが原因だろう。今日は早めに寝て英気を養おう。

 ちらちらと後ろを確認しながら、俺はそそくさと風呂場をあとにした。



「ねえ夏南。今さ、『ほかの女の匂い』とかしない……?」

「? 急にどしたの?」


 リビングでテレビを見ていた夏南が、唐突な俺の質問に首を傾げた。


「……なに? もしかして、浮気……?」


 スッ……と目の光が消えた夏南がストーカーの百倍怖かったので、俺はすぐに質問を引っ込めた。


「いやなんでもないなんでもない! お風呂入ってきなよ!」

「……へんなきょーくん」


 未だ怪訝そうではあったが、夏南はしぶしぶと立ち上がった。

 よく考えたらまだ付き合ってもないのに浮気もなにもないが、それを言って逆鱗に触れるのも勘弁だったので、俺はいそいそと自室に戻ることにした。

 階段を上っていると、風呂場のほうから二人の声がした。

 

「あら夏南ちゃん。先に入るのは私よ」

「なにいってんの? 今きょーくんはあたしに『入ってきなよ』って言ったんだけど?」

「ただ入ってこいと言っただけで順番までは指定していないわ。おおかた夏南ちゃんってば汗っかきだから匂ったんじゃないかしら~?」

「なッ!? あんたこそそろそろ加齢臭がする頃でしょうがオバサン!」

「…………」

「…………」

「「きょーくん(鏡太君)の残り湯に浸かるのはあたし(わたし)よ!」」


 ……聞かなかったことにしよう。


 自室に戻ると、俺はすぐにベッドにもぐりこんだ。

 なぜか真冬だというのにすでにベッドの中が暖かいことが気になったが、どうせまたお姉さんが俺のいない隙に入っていたのだろう。困った人だなあ。


 ふと何気なく窓の方を見ると、閉め切っていないカーテンの隙間から女性の影が見えたような気がした。


「き、気のせい気のせい! いるわけないって!」


 突き動かされるようにベッドを飛び出すと、俺はカーテンを思いっきり開いた。


 誰もいない。


「ね! ほら! だれもいない!」


 誰にともなく言いながら、俺は部屋を見渡した。

 大丈夫! 絶対大丈夫! 誰もいるわけがない!


 ばんばんばんばんと部屋中の隙間を確認し、クローゼットや引き出しを開け切って誰もいないことを確認すると、俺はベッドに飛び込んで布団を頭からかぶった。

 もうなにも考えるまい……ただ無心で寝るべし……

 がたがたと震えていると、気配に敏感になった俺の耳に、下の階の風呂場から響く喧噪が届いた。

 お姉さんと夏南だ。結局一緒に風呂に入ったのだろうか。随分大きな声で話している。


「……ちょっとあんた、どこさわってんの!?」

「へえ、夏南ちゃんのはこうなってるのねえ……」

「バ、バカ! あッ……だめだめ! ……このっ!」

「うひゃんっ♡ やったわね~~?」

「その手を放しなさいよ! ちょっと……ほんとにだめだってば!」


 …………聞いてると余計眠れなさそうなので、俺はさらに無心になった。

 そのうち、俺にも睡魔が降りてきた。



 目覚まし時計が鳴るのと共に、俺は朝を迎えた。

 カーテンの隙間から差し込む日差しが明るい。今日も晴れだろう。


 起きて顔でも洗おう……

 そんなことを考えてベッドから出ようとしたとき、俺の手になにか柔らかいものが触れた。


 うん? なんだろうこれは……

 手に吸い付くような柔らかさだ。それでいて弾力がある。正直無限に触っていたい。それになんだか先の方が固く――


 一瞬にして嫌な汗が噴き出して、俺はガバッと布団をめくった。


「……鏡太さんのえっち」


 俺は布団を被り直した。


 う、うそだ……

 全裸の冷華さんが俺のベッドの中にいた。

 いや、これも幻覚だろう。間違いない。昨日の夜だってなにもなかったじゃないか。

 そうだ、もう一回布団をめくってみて確かめてみよう。


 ちらっ


「……❤」


 いたぁぁあああああ!!(泣)


「なんでいるんですか!」


 小声で怒鳴ると、冷華さんはうっとりと俺の腕に絡みついたまま言葉を発した。


「……鏡太さんが好きだから」

「いやだからってストーカーはダメですって!」

「……これはストーカーじゃない」

「へ?」

「……同棲」

「違うから!!」


 もうだめだこの人……やっぱりおまわりさんに頼ろう……


「きょーくん。ご飯だよー?」

「うおぉおお!?」


 そんな矢先に夏南が部屋に突入してきて、俺は慌てて布団を被った。


「どうしたのそんな慌てて?」

「いやなんでもないなんでもない!」

「もしかして……」


 夏南は俺を見下ろすと、目を細めて眉間に皺を寄せた。

 や、やばい……!


「『処理中』だった……!? そ、そうだよね! 男の子って朝は大変だもんね! ごめんっ!」


 と、夏南はなにか勘違いをして部屋を飛び出していった。

 うん……もういいよそれで……殺されるよりましだもん……


 朝から意気消沈する俺をよそに、布団からはにょっきりと冷華さんが顔を出して俺を見つめていた。


「……二人でゆっくり楽しみましょうね❤」

「もう勘弁してくれ……」



 どうやら平和な年越しにはならなさそうだった。

 知ってたけどね!

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