第十二話 引きこもりと母の味
「……うぅっ」
命からがら服屋から逃げ帰った俺は部屋にうずくまって一人涙していた。
すでに日は暮れて夕飯時だ。
「もうお婿にいけない……」
対人コミュニケーションのトラウマとかそんなことより新たに追加されたトラウマが強力すぎて、もうリハビリとかどうでもよくなってきた。
もしかしてこうしてトラウマを上書きすることで俺の引きこもりを解消しようという算段なのだろうか。だとしたら大きなお世話すぎる……
上書きっていうか上乗せされてるんですがそれは……
「きょーくーん! ご飯できたよー!」
そんな俺の精神状態などいざ知らず、階下から夏南の無邪気な声が聞こえてくる。
でも無視するのもな……と思って、俺はおずおずと部屋を出た。まったく……我ながら単純な男だぜ……。
部屋の外には予想外にいい香りが漂っていた。
何度も言ってしつこいようだが、半年間まともなご飯を食べていないので、こういう香りを嗅ぐと懐かしいような気分になる。
ざわつく胸を押さえてダイニングに降りると、すでに食卓は用意されていた。
味噌汁に焼き魚。煮物に少しの漬物。そしてなにより炊き立ての白米。完璧な日本食だ。
「これ……夏南が作ったのか?」
「そうだよー!」
てきぱきとエプロンを外しながら、夏南が太陽のような笑顔を見せる。傍らではお姉さんが椅子に縛られて口を封じられていた。見なかったことにしよう……
昔は……というか半年前まではこんなに家庭的な雰囲気はなかったはずだ。運動が大好きな、活発で元気な幼馴染だった。そんな夏南が手慣れた風に料理をこなすのを見ると、なんだかこう……前に進んでいない自分のふがいなさとか夏南に対する羨望とか……そういう感情がこみあげてきて俺は微妙な笑顔になった。
「ね、食べて食べて! 結構自信あるんだよ?」
「……うん! ありがとう」
常に前に進む夏南のその姿に、俺は背中を押された気がした。「半年間で人はこれほど変われる」そんなふうに夏南が教えてくれているように思えた。
「じゃあ、いただきます」
手を合わせて、俺は食卓の前に座った。なぜか料理が俺と夏南の二人分しか用意されていなかったのが気になったが、凄まじい眼差しで存在をアピールしてくるお姉さんから目を逸らしながら、俺はそれにも目をつむることにした。お姉さんはきっともうお腹いっぱいなんだよ。
お椀を持って一口味噌汁を啜る。
「……っ!?」
俺は衝撃のあまりお椀を取り落としそうになった。
これは……この味は……
「きょーくん……? 大丈夫? もしかして不味かった?」
不安げに俺の顔を覗き込む夏南に、俺は衝撃のせいで言葉を返せないでいた。
「これ……この味って……」
「うん……」
絞り出すような俺の質問に、夏南は神妙に頷いた。
「おじさんとおばさんが亡くなってから……ちょっと練習してたの」
隣の椅子に腰かけた夏南が、慎重に言葉を選んでくれているのがわかる。
「何回もきょーくんのお家に来たことがあるから、おばさんのご飯の味も覚えてたの。それでお姉ちゃんにも手伝ってもらいながら、頑張っておばさんの味を再現しようと思って……」
「お、俺のために……?」
そう聞くと、夏南はちいさく「うん……」と頷いた。
俺ははやる気持ちを抑えきれず、味噌汁をもう一度啜った。
やっぱりお母さんの味だ。
箸を一度取り落としながらも、俺は煮物に手を付けた。
これもお母さんの味だ。
大根も、ニンジンも、レンコンも、焼き魚も、ご飯の炊き方も、
これも、これも、これもこれもこれも!
一口食べる度に、まだ独りになる前の光景がまざまざと脳裏に浮かぶ。食卓での会話とか、笑い声とか、たまにシリアスな雰囲気のときとか。そんな思い出たちが、夏南の料理を口に運ぶたびに燃え上がるように思い出されえた。
「ぐっ……うぅっ……」
我慢なんてできるわけもなく、俺は正体を失くして号泣した。皿に縋りつくようにして、お椀に顔をうずめるようにして泣きながら料理を口に運んだ。
「きょーくん……」
「夏南……夏南……ありがとう……」
泣きじゃくる俺の頭を、夏南がそっと抱えるようにして慰めてくれる。ここ数日はこんなことばっかりだ。携帯ショップでやらかしてお姉さんに慰められ、お母さんの料理の味を再現してもらって慰められた。夏南は半年もかけて、今までまったくなかった料理の腕をここまで上げた。こんな俺なんかのために……
俺は一人じゃなにもできない。バニースーツを脱ぐことすら一人でできなかった。……いやそれは別にできなくてもいいか。
ともかく、こんなにもいろいろ人間がただの引きこもりに尽力してくれている。それなのに当の俺がうじうじしているままじゃ、夏南にも、お姉さんにも、死んだお父さんやお母さんにも顔向けできない。
そうだ。俺は立ち上がるぞ。
ぐっと涙をぬぐうと、俺は椅子の上に姿勢を正した。この上なく爽やかな気分だ。
正面を見ると、お姉さんも感極まったように涙を流していた。いや泣きすぎだろ。どんだけ感動してんだよ。猿轡をされているせいでありとあらゆる汁が顔面から流れ出ていてかなりすごい見た目だ。それでも美人なんだからずるいよなあ。
「ふふ……いい目になったね。これでこそきょーくんだよ」
少し赤くなった目元をこすると、夏南はそう言った。
「よかったらなんだけど、あたしの分も……食べる?」
「い、いいのか?」
「もちろん! 沢山食べたいでしょ?」
「! もちろんだ!」
夏南が自分の分まで差し出してくれる。ちょっと悪い気はするけど、今日だけは沢山食べたい。ここは甘えることにしよう。
なぜかさっきまでうめき声をあげながら暖かい涙を滝のように流していたお姉さんが血相を変えて暴れ出したが、俺は気にしなかった。何かを必死で訴えようとしているようだが……おおかた感極まったのだろう。
かき込むようにして夏南の分の料理を口にする。
「ッ!?」
これは!?
「か、辛い!!!!」
激烈に辛い! なんだこれは!? 地獄のような辛さだ!
「!? そ、そんなはずは…………まさか……」
俺が悶えているそばで夏南がの気配が変わった。これは……殺意?
「あんたね……」
「うごごーー! うごーーー!」
お姉さんがぶるぶると首を横に振っている。「これにはわけが……!」とでも言いたげだ。
なるほど夏南をはめようとして夏南の分の料理になにか仕込んだってわけか。
そんなお姉さんの激辛トラップにひっかかった俺は――
なつかしさに涙していた。
そういえば小さいころ、あんまりパズルに熱中しすぎてお母さんを怒らせたときに、晩御飯に大量の唐辛子を仕込まれたことがあったなあ……今となってはいい思い出だ……
ああ。すべてが懐かしい……
「きょーくん……もう一品お料理増やしてくるね……」
「おごごごごごご……」
横目にお姉さんが椅子ごとキッチンに運ばれていくのを確認しながら、俺は激辛とかけがえのない思い出たちに涙し続けていた。
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