君に捧ぐ歌
中ZU弘志
君に捧ぐ歌
夏の日差しがステンドグラスを貫いて鮮やかな影を作る礼拝堂の中では、微かな歌声が少女の薄い唇から紡がれていた。
彼女以外には誰もいない堂内の冷たい石敷きの床に、少女は目を閉じて跪いている。
礼拝の無い日の朝この場所に来ては十字架の前で歌を捧げるのが彼女の習慣になってきていた初夏のある日。
その礼拝堂へと入った少年は、声が途切れないようになるべく気配を消して彼女の歌に耳を澄ませ、それから光に照らされて神秘的にすら見える少女の姿をじっくりと観察した。
それも堪能し終え、彼は少女の歌が終わるのを待つ。
「メル」
名前を呼ばれた少女、メル・アイヴィーはそのとき初めて背後に少年がいたことに気づいた。
「何?」
少女は透ける銀の髪を揺らし声の方向へ振り向く。海を切り取ったような青さの瞳が、少年を映した。
「『何?』って、そんな不機嫌そうに言うなよ。それに、僕じゃなかったらどうするつもりだったわけ? お祈りに集中するのはいいけど、もっと周り見ないと、危ないよ」
彼女は、別に不機嫌というわけではない。常に無表情でいることが習慣づいてしまい、それが少女に愛想笑いも許さないのだ。
「気をつける」
少女はなるべく素っ気なく答える。不機嫌なわけではなかったものの、少年に自分の祈っている姿を見られるのは気まずかった。
「随分熱心だったようだね。僕がじっと見てても気づかないし。何を祈ってたの?」
「秘密」
歌っている間は時間の流れを忘れてしまう彼女は、それこそ何時間でも祈り続けることができる。胸の前で組んでいる指が痺れてきても、歌い終えるまでは気づかない。
「ああ、『私を歌手にしてください』ってお願いしてるの? いよいよ神頼みってやつ? 大丈夫だよ。メルはまだ十七歳なんだし、将来はあるって」
なんて想像力の無い人間なんだろう。少女は僅かに表情を厳しくし、彼女と対照的なほど饒舌に語る少年に背を向けた。
「邪魔しないで。シエル」
シエルという少年は少女の幼馴染で、四歳からの付き合いだ。お互い兄弟がいなかったから遊び相手といえば近くに住んでいる同い年の子どもくらいで、二人はそうやって必然的に出来上がった『友達』だった。
少女にとっては、愛想笑いもご機嫌取りもしなくて済む、ただ一人の友達だ。
だから二人でいるしかないのだが、友達としては性格にちぐはぐなところも多い。少女の願うことの半分も伝わらないのが彼だった。
「はいはい。あ、見てるだけならいい? いや、相変わらず声綺麗だね。メルはもったいないくらい美人だし、ここにいると本当に天使がお迎えに来たみたいだ」
屈託なく笑う少年の言葉に少女は顔をしかめ、また目を閉じて歌い始めた。
三ヶ月後。
礼拝堂前の花壇に植えられた花がすっかり枯れるほど容赦ない日照りが続いた盛夏のある日。
猛暑の中でも涼しげな顔で祈りを捧げていた彼女は、背後で聞こえた音にふと歌を止めた。
「どうしたの?」
その日、少年の姿を見て、初めて少女の方から声をかけた。
彼は三日に一度ほどの割合で、彼女が祈りを捧げる日にそれを見物に来るようになっていた。何かが起こるわけでもなかったのに、彼はただ歌う彼女の後ろ姿をじっと見ていた。
「ああ。別にどうってことないよ。もうここまで歩けなくなっちゃったみたいでさ。何回も休憩しながら来たんだけど、椅子がついてくるっていうのはどうやら結構便利みたいだ。ずっと座ってられるんだよ」
衰えることのない舌で明るく語る少年の言葉を、彼女は深刻な面持ちで聞いた。
「もうここに来ないで」
言い切った声は行き場を無くしたように虚しく響いた。少女はすぐに後悔する。彼が苦労してここに来たのは彼女自身のためなのだとわかっていたからだ。そんな彼に、冷たい言い方をした。
撤回か弁明をしようと思うも、いい方法が思い浮かばない。少女は想いを伝えるのが苦手だった。頭の中で言葉が錯綜し、結局都合のいい文にまとまらない。
そんな彼女に対し、奇術師のように言葉をすらすらと出すことができるのが彼だった。
「わかったよ。もう無理はしない、と思う。神に誓って言えるわけじゃないけど。ここで嘘つくのは気が引けるな。……ねぇ、メル。僕のことどう思ってる?」
「……別に」
シエルのいいところは正直なところだ。そしてその率直さは欠点でもある。
彼女は今の質問でリズムを狂わせた心臓を宥めた。神様の前で嘘をついた罰がどうか自分だけに当たりますようにと、少女はまた祈る。
一方少年は、少女の素っ気ない答えを気に留めてはいなかった。
「プリンでも買って来ようか。こんな秘密のデートみたいなのも最後だし、お腹空いたし。メル好きだよね」
「いらない」
即答する。これ以上無理をさせるわけにはいかない。
それに、何が『秘密のデート』だ。この図々しさには辟易する。
「珍しいね。食べ物をいらないなんて言うメルは初めて見た。いつもは食べ物の名前が出ただけで目の色変えるのに」
彼女は少年のニヤニヤとした笑顔がつくづく頭に来ている。彼は人を飢えた獣か何かだと思っているんだろう。
少女は返す言葉も無く、代わりに彼に聞こえるように溜息をついた。
「静かにしてて」
彼女は焦っていた。いずれにしても時間が無い。どうか、この歌が神様に届くように。
一ヶ月後。
うだるような暑さが止んだある晩夏の日。古びた礼拝堂の高い天井から、水滴がリズムを刻みながら落ちては床に水溜りを作っていく。
雨音にかき消されないように、今日もまた少女は声を紡ぐ。
シエルはあれからここには来なくなった。いや、来れなくなっているのかもしれない。最近は、顔も見ていない。
頭を過る最悪の事態と陰り始めた諦めの色が歌声を低く震わせていた。
風雨は時間とともにその威力を増していき、礼拝堂の窓はカタカタと音を立てた。
一段と強く吹いた風の音に少女が息を止めたそのとき、礼拝堂の扉が開く。
傘も差さないで雨に濡れた少年が、息を切らしている。
海色の瞳が少年を映して揺らめく。
なぜ傘を差していないのか。どうして来るなと言ったのに来たのか。元気でいたのか。
いや、素直に最初に浮かんだ言葉は、『逢いたかった』だった。
どれを口にするべきか、どんな表情をすればいいのか、彼女は選べないまま固まっている。
「もういいよ」
少年は少女に近づいていく。彼の髪を水が滴って、涙のように頬を伝う。
「そりゃ、銀髪の美少女が僕のために祈ってくれるなんてこと以上に嬉しいことは無いよ。でも、神様は最初からこうするって決めてたんだ」
車椅子の車輪が軋む。
彼は知っていた。運命が、そう遠くないうちに彼を殺すことを。
そして少女は知っていた。神に祈ること以外、自分にできることは無いのだと。
「僕はどうにかやっと受け入れた。だからメルは、もう僕だけのために歌わなくていい。他のみんなにも、その声聴かせてやってよ」
彼は知っていた。少女が祈り続けた本当の理由を。
――あのさ、メル。僕、死ぬんだ。
柔らかい春の日の中で、少年は前触れもなくそう打ち明けた。
いつもの冗談かと聞き流そうとしたが、少年の表情が少女にそうさせなかった。
夢が醒めるように祈っても、変わらない悪夢がそこにあるだけだった。
――どうして、僕、なんだろう。
誰に聞かせるでもなく、虚ろな声で少年は呟いた。
話すのが好きで、笑うのも好きで、能天気な彼のその目が曇るのを、少女は初めて見た。
どうして、君だったんだろう。
少女は彼以上に彼の運命を受け入れたくなかった。
だからずっと、歌うことで奇跡を願っていた。
今、少年の目は快晴の空のように澄んでいて、一点の曇りも無い。それが彼の辿り着いた結論で、誰よりも大切な『友達』のために決めた覚悟だった。
少女に手が届く距離まで近づくと、少年は車輪を回す腕を止めた。
「それで、メル・アイヴィーは歌姫になって、町で一番大きい舞台に立つんだ」
だからもう、跪くのはやめろ。
そう言うように差し出された右手を少女が躊躇いながら取る前に、少年の痩躯は頽れた。
一ヶ月後。
冷たい風が高い空へ抜ける秋晴れのある日、少女は見送るための歌を歌っている。
礼拝堂には黒い礼装の彼女以外誰もいない。
彼女は、また一人になった。
あの雨の日から三週間後の早朝、少年は家族に看取られ安らかに息を引き取った。穏やかな顔で、少し笑っているようにも見えたらしい。と、彼女は葬儀の席で誰かが話すのを聞いた。
小さな町の一少年のための葬列はあまり長くはなく、式も簡素なものだったが、愛された少年の死を惜しんで涙を流す人は多かった。その中で、少女だけは感情を失ってしまったかのように、ずっと無表情だった。
気味が悪いから、と式場を途中で追い出された少女は、こうして古びた礼拝堂の十字架にまた跪いている。
だが、無表情だった彼女は、無感情だったわけではなかった。
この感情をどんな顔で、どんな言葉で表せばいいのか、少女にはわからなかった。それだけだったのだ。
今にも溢れそうな感情を無理矢理抑えつけるように、声を紡ぐ。
少女は少年の想いに、気づいていないわけではなかった。
少年は、少女の祈りの歌を聴いて、いつも泣いていたのだ。彼女の歌を邪魔しないように、声を殺して。
――……ねぇ、メル。僕のことどう思ってる?
ふとその声を思い出して歌が止まる。
「……好き」
絞り出したようなか細い声が、静寂の中に吸い込まれていく。
神様の前であの日ついた嘘の罰は、消えない後悔の傷だ。
少女は、彼を特別な人間にしたくはなかった。失うのが怖いから、自分の気持ちに気づかないふりをした。
少年は、彼女を傷つけたくなかった。悲しませるのが怖いから、自分の気持ちを伝えるのを避けてきた。
少年と少女は最後まで臆病で不器用な二人のままだった。
海のさざ波が、瞳の縁から零れ出した。彼女はその涙を拭わないまま、神様の前で告白する。
「シエル、大好き」
少女はやっと、素直になれた。
一年後。
開演一時間前にも関わらず長蛇の列ができた劇場前の看板には、メル・アイヴィーの名が大きく書かれている。
彼女はもう生まれ育った町にはいなかった。
『町で一番大きい舞台』に約束通り立った彼女はそれから瞬く間に有名になり、今ではその何倍もの大きさの会場で歌う。一年前は小さな町の一人の少女でしかなかった彼女の名前を知らない人間を街中で探すことすら難しい。
多くを語らない、というよりむしろ多くを語る術を持たない彼女は、『謎に包まれた少女』と宣伝文句までつけられそれが人気の理由にもなっていた。
彼女は自分の性質がそう悪くないものだということに気づき始めている。
簡単なリハーサルと最終チェックを終え、少女は一人楽屋にいた。
歌うだけで一言も喋らずにステージを降りられればいいのだが、どうやらそうはいかないらしい。彼女は自分が言うべきことをいくつか諳んじ、深く溜息をついた。
舞台に立つ仕事は、それこそ奇術師のように言葉を扱う能力を必要とする。しかし、出演数が多いからと言って彼女がすぐにそれをこなせるようになるわけではなかった。
「アイヴィーさん。開演十分前です」
スタッフの誘導に従い、まだ慣れない靴で楽屋を後にする。
場内の期待に満ちたざわめきが響く舞台袖で、彼女は微かに歌いながらステージの成功を祈る。
彼女に歌うことを教えたのは、礼拝堂を管理するシスターだった。放任的だった少女の両親に代わって彼女の世話を焼き、たくさんの祈りの歌を一緒に歌った。祈るときに歌ってしまうのは、その頃から彼女の癖だ。
そんなふうに歌っていた歌を誰よりも褒めてくれたのが彼だった。
歌以外に好きなものが見当たらなかった彼女が、『歌手になりたいかもしれない』なんて曖昧に言ったとき、それを誰よりも本気にして応援してくれたのが彼だった。
「一分前です。問題無いですか?」
「大丈夫」
祈りを捧げた後は、決まって好きだった人の名前を口にする。
その名前を呼ぶと、少し優しい気持ちになれる。でも、メイクが崩れると怒られるから、泣けないんだけどね。
少女は自身にしかわからないほど小さく微笑み、短く息を吸って歩き出す。
スポットライトが当たると同時に、拍手と歓声が歌姫メル・アイヴィーを迎えた。
彼女は歌い続ける。
何もできなかったことを認めたからだ。
歌では誰の命も救えないことを知ったからだ。
それでも、彼が少女を見ていると信じているからだ。
今夜もまた、最前列の特等席に、君がいる。
君に捧ぐ歌 中ZU弘志 @kasiokazane
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