第21話 エッダ2-2

 沈黙のまま待ち続けていると、先ほどの子供が先導するようにエッダをつれてきた。久しぶりの顔に目を眇める。しかし自分は少女を救えなかったのだ。


「ニタ、本当に来てくれたのね。ありがとう」

「エッダ……」


 感謝の言葉を受け取れる男はここにはいない。駄目だったという一言が言えなくて唇をゆがめる。漂う空気で状況を察したのだろう、エッダが心配そうな顔になる。計算機の前に戻った子供だけが明るくエッダにニタの隣を示した。


「さあエッダ、座って座って。ササヅキ、ここに別の明細があります。ちょっと空欄が多いけど、見ててね。さてエッダ、ノイルと一緒に仕事してどうだった?」


「わたし、馬はちょっと苦手。大きくて怖いの。ノイルはすごいわ。でも、鶏は慣れたから大丈夫。大きい動物もブラッシングは怖いけど藁を替えたり掃除したりは臭いも慣れたし、だいぶ上手になったと思う。最近はマーノンの小言も減ったと思うのだけど、ノイルはなんて言ってるかしら」


「ノイルからは『もうちょっと動物をかわいがってほしいかな? 怖がりすぎると向こうも怯えるから。まだまだだけど、4ヶ月頑張れたからやる気は感じます。あとは一生の覚悟だけ』と伝言をもらっています。ササヅキ、ノイルはわかるよね? ネーヴァンジュの厩で働いてる」


「ああ、もちろんわかるぞ、わかるけど、4ヶ月? エッダもいたのか?」

「もちろん娼館仕事の合間合間だけど。マーノンはネーヴァンジュに言ってないのかな?」

「わたしが頼んだの。だって役に立たないってわかってるのに、マーノンに許してもらったんだもの。ほんとうに、足手まといだったのよ」


「知ってる知ってる。ノイルがぼやいてた。でもみんなで協力しあわないとね。あたしたちたった10人なんだもん」

「ふふ」


 子供たちがなにを言っているのか皆目見当もつかない。黙って腕を組むササヅキに視線をとばす。


「家畜に慣れるためか」


「はい。ササヅキ、わたし、ニタの養豚場にお勤めできませんか。本気なら身請け人になってくれると言いましたね。たぶんしばらくは返済もできないと思うのだけど、絶対に返します。セリが計算してくれました。いまはついてない利子もつけてかまいません。何年かかっても返します。ササヅキがここへ連れてきてくれたこと、ここで待たせてくれたこと、本当に感謝しています。わたし、ニタのところへ行きたいの」


 自由でなくていいのか。嫌いだと言った豚舎でいいのか。


 ぐるぐると思考が回る。自分の助けはそもそも無意味だったのか。後ろ向きな思考は肥大するのに言葉にはならず舌が痺れる。脂汗を浮かべるニタに、子供は軽快に問いかけた。


「そこでニタ、そちらでエッダを雇ったら、どれくらい出せますか。正直見習いとしてはほんっとに足りないからお父さんから馘首にならないように守って欲しいんだけど、ものになるまでとものになってから、どれくらい出せます?」

「は、あ、ええと、以前はこのくらい出してたと思う」


 しばらく見習いを雇っていないが、ニタが子供の頃にいた雇われ人はこれくらい、と数字を上げた。住まいも小さいが母屋とは別に用意できる。


 問われるままに答えて、ニタは静かに諦めた。なにより、エッダが自分で拓こうとしているのだ、すばらしいことなのだ。この寂しさは、ニタの諦めと共に胸に寝かせるべきだ。


「じゃあここがこんなもんで、これくらい……と。で、ニタが持ってきた中銀貨のうち3枚補充して、とりあえず、ササヅキへの返済は5年ちょいで終わるかな?」


 なぜか当たり前のようにニタの支払いが組み込まれる。半分だけ。それなら別に全部当てればいいのだ。


「ええと、君、俺は5枚持ってる」

「でもあれでしょ、このへんの風習って3枚が相場なんでしょ。いろいろ買うものもあるだろうからそれでいいよ」

「セリ、お前なに言ってる? つか、なに企ててる?」


「やだなあ、ササヅキ、まだわかんない? エッダがニタんとこにお嫁に行ったら、支度金はそのくらいでしょって話。借金返済だから用意して上げられるものはないけど、まだ2枚あれば新居の準備くらいなら足りるでしょ。ねえニタ」


 ふられたものの、なにもかもすっ飛んでただ見返した。それから子供の目線が隣に移ったので、釣られてそちらを向く。エッダが恥ずかしそうに俯いている。いや、俯いてはいない。隣に座られると、俯くエッダの表情は見えなくなるのだ。目を伏せてはいるけれど、ニタの方を向いていた。


 倒れてもいいだろうか。


 いや駄目だ、そんなことになったらササヅキが認めてくれなくなるかもしれない。


「サ、ササヅキ……ッ」


 舌がもつれる。ササヅキが苦々しい表情を浮かべて隣のセリの頭をぐりぐりと混ぜた。


「いたーい、なんで!?」

「俺に秘密で動くからだ。ここで驚かせばいいのはニタだけだったろうが」

「だってササヅキに言っても信じなかったんじゃないの? ニタが揃えてくることだって信じてなかったくせに」

「俺だって別口から聞いてたさ、がんばってるってことはな。いつまで続くか様子見てただけだ」

「ふううううん」


 楽しそうなセリと苦々しいササヅキは、しかし辞めろとは言わない。


「いいのか、ササヅキ」

「俺はエッダの保護者じゃない。いいかどうかはエッダに訊け。セリの返済計画通りにする気があるなら俺はかまわない」

「エッダ」


 隣から乗り出した彼女は、片手を太股に乗せてきた。小さな重みの、そこから痺れて広がる。


「ニタ、わたし、ササヅキに返済が終わるまではお給料がないといけないの。お嫁さんになったらないのよね? だからセリはこう言ってるけど結婚はできません。ニタに出してもらった分も返さないといけないでしょう。だけど姫見習いでなくなれば、わたし、ニタといられるわ。それでもよければ、わたしを雇って。わたし、ニタのところでがんばりたいの。流されて諦めたくない」


 ニタが感極まってエッダの手を握ると、恥ずかしそうに、しかし顔を上げたまま彼女は笑顔を浮かべた。遠くで少女たちの笑う声がした。




 エッダは返済のために嫁にはなれないと言ったが、ニタはなにがなんでも両親を説得する気でいた。生まれ村での話はぼかしつつ、幼い身で日々大人から虐待を受け、逃げ出した先の紆余曲折―――自分もつい先ほど聞いたばかりの話―――を、そしてニタのために再度がんばろうとしてくれたことを訴える予定だった。


 しかし連れて帰ったエッダを見て困惑した両親に嫁取りの顛末を話始めた途端、母親が泣き出し、息子に嫁が来たことを狂喜された。鬱々と暮らしていた日々は気づかなかったが両親にはずいぶん心配をかけていたらしい。この半年の働きがエッダのためと知り、父親には呆れ半分でがっかりされたが嬉しげな表情は隠しきれていなかった。自分が両親に見守られていたと知って恥ずかしくなる。もう32歳だ。


 エッダの返済は繰り上げられた。ササヅキには残りもすべて返した。それでいいと父が言ってくれたからだ。エッダは少し怯えていたが、ここに一緒にいてくれるなら、自分と両親にとっては痛手ではないのだと説明した。ニタは跡取りだ。しかしこのまま独身の算段が大きかった。

 それが覆されて、しかもエッダがそれを望んでくれるという点が非常に高得点なのだ。しかも若く、これから次世代が期待できる母胎としても。借金の肩替わりと引き換えに子供を産めというのはいささかニタの希望とは―――エッダを自由にしたいというのとは―――違ってしまったが、そのあたりの期待を「ずっとニタといていいって意味よね?」と解釈されて後ろめたさは霧散した。




「豚は嫌いだったのだっけ」

「ずっと《子豚ちゃん》って呼ばれてた。売女の子って。だから豚は嫌いだったわ」

「エッダは豚じゃない。それに豚はかわいい」

「ニタは、ほんとうに豚が好きなのね」


 少ししょげた顔を伏せるエッダに慌てる。これではエッダがかわいくないみたいではないか。


「いや」

 相変わらず、うまく話せない。

「エッダはその、きれいだ」


 事の発端となった左目尻の涙滴型の黒石。茫洋とした視線も、気怠げな唇もエッダを引き立てた。しかし年相応の無邪気さがのぞくとき、ニタの胸は高まる。笑顔がこぼれて、噛みしめる。


 エッダの驚きで見開かれた瞳に笑ってしまう。自分も笑えるのだと思った。エッダが隣にいる。もうひとりで布団の中で、悶々とうまくやれない後悔と怨唆を繰り返す必要がない。


 助けたいと思った。けれど、支え合えばいいのだと、ひとりでやる必要はないのだと、やっとわかった。


 一緒にいるということがどういうことか、自分たちはやっとわかったのだ。

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