第五章 文芸部と小熊のミーシャ 前編

序章 とある小熊の早朝

 忘れていたハズだった。

 思い出さないようしていたハズだった。咽返るような血と汗と何が交ざっているのか分からない匂い。

 あの獣の臭いが鮮明に思い出された。あの凄惨な情景を、何故か懐かしく、胸が温かくなるのは何でなのか?

 それは自分が人間ではないから……



「違っ……! 僕は食べてない」



 ミーシャは汗だくでベットから起きる。

 時間は午前三時半。水を飲みに、一階のキッチンに下りると、がさごそとした音に飛び上がりそうになった。

 新聞配達。

 ミーシャははじめて朝刊が差し込まれる瞬間を見た。彼らもまさか壁一枚先でミーシャが驚いているとは思わないだろう。

 もう二度寝ができるようなテンションでもないので、ミーシャは散らかり、薄汚れたミーシャしか暮らしていないこの家が妙に気持ち悪く思えた。



「掃除しよっ」



 家を出るのは8時頃、4時間以上掃除をする時間が取れる。今の気持ちを洗い流すように、この穢れた家を綺麗にする。



「そういえば、お母さん。掃除がすきな人だったな」



 今や、この家に戻ってくる事はありえないだろうが、あらゆる掃除道具や洗剤を買い込んでくれていた事は感謝した。



「よし、お風呂掃除して、久しぶりに家のお風呂入ろう」



 いつも銭湯でお風呂を借りていたミーシャ。家風呂が使えたら、少しは節約になるかとそんな事を考えていた。

 まずはリビングから掃除機と拭き掃除、そしてこの家に帰って来る者は姉くらいなので、父親と母親の物だったガラクタは全部捨てる事にした。

 ゴミ袋に乱暴にぽいぽいと入れていく、なんだか一つゴミ袋に入れると、ミーシャは楽しくなってきた。今までミーシャはいろいろな事を我慢してきた。それを捨てるという行為でストレスを解消していく。


 ミーシャは掃除をして物を捨てる事がなんだか気持ちいい。ピカピカになった部屋を見て感動。そしてそれはキッチン、お風呂と進んでいく。

 そして、ふと今まで掃除をしていた自分が何だか汚く思えてきた。時計を見るとまだ時間は6時半、お湯を入れてお風呂を沸かすとミーシャは一刻も早く体を清めたい気持ちになっていた。


 それが強迫性の作用である事、ストレスを掃除で昇華しようとしている事とはミーシャは知らない。

 お風呂で疲れを癒すと、なんだか次は料理がしたくなった。

 が、普段まともな物を家で食べていないのでミーシャの家の冷蔵庫には調理をする程食材は入っていなかった。



「朝ごはんはいつも通りコンビニかな」



 わしゃわしゃと髪を乾かし、普段よりも1時間も早くミーシャは学校に登校した。当然、部室には誰もおらず……いた。



「先生」



 顧問の桐ヶ谷、少し驚いた顔をして手を振って部室から出て行った。一体何をしていたのかと思うミーシャ。

 桐ヶ谷がいた辺りをを見ると、なにやら工具のような物が落ちていた。



「なんだろこれ……」



 それは大きなハンマー、今まで部室でそんな物を見た事がない。ミーシャはこのハンマーはきっと桐ヶ谷が何かで使用して忘れて行ったのだと、ハンマーを持って部室を出た。



「先生! 桐ヶ谷先生」



 随分走ったところで桐ヶ谷はくるりとミーシャに振り返った。



「大熊、どうしたんだ? うわっ! なんだその巨大なハンマーは、まさか文芸部は刀鍛冶にでもなったのか?」



 これは桐ヶ谷の物でもなかった。だが笑って桐ヶ谷はそれを受け取った。



「とりあえず、危ないからこれは先生が預かっておくよ。何処かの業者の人かもしれないし、満月や茜ヶ埼の私物かもしれんしな」



 普通に考えればありえない……とは言えないのがあの二人の困った事だった。それも分かっていて桐ヶ谷はハンマーを受け取ってくれる。渡すとずっしりと重いハンマーに桐ヶ谷は笑った。



「なんだよこのハンマー、何に使うんだろうな?」



 そうしてハンマーを持って桐ヶ谷は職員室の方へと進んで行く。朝練の学生達が学校にいる程度で教師も殆どまだいないそんな学校。

 ミーシャが……というより、この学園の関係者で桐ヶ谷を最後に見たのはミーシャのこの瞬間であった。

 これ以降、桐ヶ谷が神隠しにでもあったように姿を消す事をミーシャはまだ知らない。

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