第八章:ここはどこ?
「ママ、起きて! 起きて!」
ハッと目を覚ました私の耳に聞き覚えのある自動放送の声が響く。
――ヨコハマ、ヨコハマ。
「帰ってきたんだ」
それとも今までのことは夢だったのだろうか。
周囲からは乗り降りする人々の雑踏が聞こえてくる。
ふと隣から立ち上がる気配がした。
薄桃色の地に白い牡丹模様が目に飛び込む。
「わあ、きれい」
感嘆する理可の声に相手は振り向いた。
「お姉ちゃん、お姫様みたい」
薄桃色の浴衣を纏った、高校生くらいかと思われる女の子は照れた風に笑った。
「どうもありがとう」
どこかで見たような子だ。隣に立つ同い年くらいの紺絣の甚平姿の背の高い男の子も、水色の甚平を着た中学生くらいの男の子も。
私の思いをよそに三人は出ていく。
「降りないとね」
理可の手を引く。
冷房の効いた車内にいたせいか、小さな手は乾いてひんやりしている。
*****
「今日、お祭りでもあったのかな?」
改札でPASMOもいつも通り使えた、横浜駅構内。
しかし、ごった返す人混みは見渡す限り、浴衣や甚平の人ばかりだ。
麦わら帽子にワンピースの私たち母娘を除いては。
エスカレーターも駅の表示もセメント臭い匂いもいつもの横浜駅そのものだ。
ただ、人の服装だけが違う。
ホームレスまでが垢じみた甚平に破れ草履を履いて横になっている。
ふとスマホを取り出してみた。
バッテリーは50%だが、通信可能な圏内にいる。
夫に連絡してみようか?
いや、しかし、何からどうやって切り出せばいいのだ。
「横浜駅に着いたけど、皆、浴衣を着ている。ここは別世界?」
こんな質問、された方が困るだろう。
というより、それによって相手からどんな答えが帰ってくるかの方が怖い。
「浴衣を着ているのは当たり前だろ」
そんな返信が来たら、一体、どうすればいいのだ。
眺める内に、バッテリーが49%に磨り減った。
突然、スマホの画面に夫の名前と浴衣姿の母娘の丸い写真が現れた。
“今日は遅くなるから夕飯はいい。先に寝てて”
お揃いの黒地に黄色い向日葵の模様が入った浴衣で笑う、私と理可。
そうだ、これは先月、幼稚園の七夕祭りで撮った写真を夫がLINEのアイコンにしたのだった。
“了解です”
私からの返信にはすぐ「既読」の表示が着く。
スマホのバッテリーが48%に減った。
「今日は食べて帰ろうか」
PASMOもスマホも使えるなら、手持ちの現金も大丈夫なはずだ。
色とりどりの浴衣や甚平の波に揉まれるようにして市街地に出る。
もう夕方だ。
ほんのりオレンジ色に染まった街並みに湿ったアスファルトの匂いが漂う。
「マックのハッピーセットがいい」
理可が私の手を引っ張って指し示した。
“McDonald's”
浴衣や甚平で歩く人影越しに現れた、見慣れたロゴに少し安堵する。
「お祖父ちゃん、何で駄目なの?」
不意に背後から涙混じりの叫び声がした。
「キンエンコウシュのお人形、欲しい!」
夕闇にも鮮やかな朱色の旗袍にお団子頭の女の子が真っ赤な布靴を履いた足で地団駄を踏む。
年の頃は理可と同じくらいだろうか。
「あれは別のお姫様の人形だよ」
灰色の辮髪の髪を抹茶色の長袍の背中に垂らしたお爺さんがオロオロと女の子の肩を押さえた。
行き交う和服の人々が一瞬、おやという眼差しを二人に向けつつ通り過ぎていく。
キャッチセールスらしい黒人男性たちも戸惑った風にデニム地の甚平の肩を竦めるだけで話し掛けようとはしない。
「プリキュア、とかさっき会った子たちも言ってたじゃないか」
お爺さんの説明にも女の子はイヤイヤする風に首を横に振る。
「パイランちゃんしか持ってないから、次はキンエンコウシュのお人形も買ってくれるって約束したのに」
「今度また、トウコウダイロのおもちゃ屋さんで買ってあげるから」
「あの、すみません」
私は息を飲んで理可の手を引くと、見知らぬ祖父と孫娘に近付いた。
「チュウカナマチからいらしたんですか?」(了)
ちゅうかなまち 吾妻栄子 @gaoqiao412
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