ファクタ・ノーン・ウェルバ

 アーレア王子が狂気と正気を行き来したあの晩、狂王の支度部屋にて〈神々の涙〉に満たされていた杯に大きな変化が起きた。

 三角錐だった杯のかたちは真円の球となり、涙の色は二色に分かれた。

 真紅と青。

 揺らぎ、うねりながら混ざり合うことのない二色の流体は、愛と知恵との均衡を表しているように思われる。

 呪いは期待に変わったのかもしれない。

 仮説だが。



 神国ディウィフィリウスの王が狂王となることはもうないのかもしれない。

 けれど、歴史は重くのしかかる。

 神々の血をひく事実も。

「〈聖徒教団〉という潜在的軍勢を抱えている以上、周辺国からしてみれば神国ディウィフィリウスの脅威にたいして変わりはないんです」

 楽屋の扉をしめて鍵をかけ、ふりかえると、狭い部屋の中心でアーレア王子が頼りなく鏡台の鏡の中の自身を見つめていた。

「あなたを立派な王にするために、俺がずっとそばにいます」

 その肩をつかまえてふりむかせた。

 ルキウスはもう腹を決めた。一生を、この王子の教育に捧げて、神々の血をひくものとしてふさわしい〈平和の王〉としてみせると。

 でも、そのためには、ちゃんと伝えておかなければならないことがある。

 当座の死因となりそうな障りを取り除くために。

 余すところなく本当の心を伝えることも、密通になるのだろうか――。

「殿下の誤解を解いておきたいことが、一つだけあります」

 奔放なアーレア王子が動かないように、その細い首すじに手を這わせてルキウスは言った。

「七年前、俺が〈水路塔〉へ行ったのは、学問がしたかったからじゃありません。あなたから逃げるためでした」

「だーかーらーそれは嘘八百」

 ルキウスはきっぱりと首を振る。

「あなたの個性が手に負えないせいにしたけど、手に負えないのは自分の心だったんです。あなたにとっての特別な〈おともだち〉でいつづけたいという俺の欲望は、あのままずっとそばにいたら将来的にもっと酷いことになると思った。だから俺はあらかじめ殿下のもとを去りました」

 みひらかれた薔薇色の瞳が、みるみるうちに潤んで揺れる。

 けれどすぐに、特別な〈おともだち〉がもっとその先へと進んでいくことの何がいけないのかわからない、という批難の色に変わる。

「余が王子だと思っていたから?」

「いいえ。男とか女とか、それは関係ありません。あなたは世継ぎの王太子で、俺はただの臣下だからです。王女ならば他国に嫁ぐし、王子ならば他国から姫を娶ります。どのみち、あなたは俺のものにはならない」

 神国ディウィフィリウスにとって王族の婚姻はもっとも重要な外交手段だ。

「俺はそんな未来には耐えられないと思いました」

 ルキウスの手の中で、アーレア王子が落ち着かなげにむずむずしはじめた。

「でもルキウス、七年前ってゆったら余はたったの九歳よ」

「ええ」

「ええええそんな昔から余のことを真剣にっ?? それちょっときもちわるいーーーーー! おえええええ」

 ルキウスは真顔で頷く。

「自分でも気持ち悪くて、悩みました。ちょうど思春期真っ只中でしたし」

「ごめんルキウス。いまの嘘。嘘八百だから」

 アーレア王子はひとまとめに編まれた髪をほどいて自由にし、頭をふった。

 もともと性別を超越した神代の美貌だから男装だろうが女装だろうが誤差の範囲でしかないのだが、アーレア王子の一挙手一投足が、ルキウスの心をどうしようもなく震わせる。

「余はなんにも隠しているつもりなかったのに、ルキウスったらぜんぜん気づこうとしないから、〈水路塔〉の学問ってかんじんなことには何の役にもたたないのねって思って、勉強する気なくした」

 だからそれは殿下たち双子の性別不明な美貌のせいです、といくら言ってもいまさら無様な言い訳にしかならないだろう。

「そういえば、訊き忘れていた疑問がありますね。ソルティス殿下がカタラクタ帝国に嫁ぐことをあなたは受け入れていたが、本当は男のソルティス殿下が向こうでどうやって帝国妃をやれると思っていたんです?」

「ん? それってまずいの? ソルティスなら頭がいいんだから、多少の問題は何とかできるでしょう。そう思ってたけど、違うの?」

「どうでしょうね……」

 純粋な疑問の目をぶつけられてルキウスは天井を仰いだ。

「試しに殿下も姫を娶ってみますか?」

「余はかわゆいものはまんべんなく好きだぞよ……」

「俺のことよりもですか」

「遠くのルキウスよりも近くのルッキーとウッスーのほうがあったかいぞよ!」

 喋るたびに柔らかな前髪が跳ねる。

 かすかに見えかくれする狂王予定者の痣にルキウスは指先で触れた。

「嘘つきは覇王にはなれても良い王にはなれません」

 それはちょっとした衝動だったのだが、思いがけなく青白い光が生じる。

 意識の中で小さく歯車が回って、最後で最初の暗号が弾けた。


――ファクタ・ノーン・ウェルバ


「だ、だいたいルキウスだって大嘘つきよ。余と一緒にいると死ぬ死ぬって……」

「あれは本当のことです。人間は極度に強い心理的負荷を抱えつづけると二ヶ月ももたずに突然死ぬことがある。これは医学論文でも証明されている事実です」

 ルキウスは目を伏せてうつむいた。

「殿下のそばにいて心を偽りつづけることは耐えがたい心理的負荷だ。実際どんどん心臓も痛くなる。だから俺は絶対に二ヶ月もたないと思った。死んだほうがましだとさえ……」

 とにもかくにも、これで何も偽る必要はなくなったため、ルキウスは死なずにすむ。

 しかし。

 どちらがどちらを追いつめているのか追いつめられているのかわからない距離感で向き合っていると、相変わらす心臓が軋む。

「ルキウス。それシンリテキナントカじゃなくて、ただの恋煩いじゃない?」

 どこか据わったような目でアーレア王子が言った。

「……」

「うん?」

「……」

「うん。ルキウス大丈夫? どうしよう息してない。ご臨終? とうとうご臨終なの?!」

「……なるほど。そうだったのか」

 呆然と呟くルキウスの胸に頭をうずめてアーレア王子が大笑いした。

「ルキウスって馬鹿ね」

「俺が馬鹿になるのは殿下のせいです」

「わーい。余のおかげでルキウスが馬鹿になったぞよ。めでたいめでたいおめでた~い」

「殿下が俺を狂わせるんだ」

 際限なく狂っていくついでにルキウスは、胸の中の神代の美貌を両手でつつんでむりやり仰向かせた。

「あなたが好きです」

 とたんにアーレア王子は視線をそらしてデタラメな歌をうたいだす。

「……何故いまのいま〈聞かなかったフリの歌〉を」

 真正面に戻ってきた薔薇色の瞳は、〈おやつまみれ〉の時間よりもずっと嬉しげに輝いていた。

「あのね、一回じゃ足りない。いまのぜんぶ最初から何回も聞きたい……」

「いいですよ。何回でも言います。いちど出た正しい答えはもう変わりようがありませんから」

 ……でも。

 しかし。

 あるいは。

「もっと優しく簡単に伝えることもできますけどね、おそらく」

 ――ファクタ・ノーン・ウェルバ

 〈言葉よりも、行為が大切〉

「じゃ、そっち……」

「神に急かされずとも、より合理的な正解を求めるのが俺の性分なので」

 神々の与え給う真理を求めて。

 彼は彼女の薔薇色の瞳に、研究の第一歩の口づけをした――。




〈おわり〉


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天才教授のストゥルトゥス! ~イツワリ姫は解けない暗号~ 石川へるま @herma

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