彼女

                ◇ ◇ ◇



 ふたりは互いの瞳しかみていなかった。何も喋らなかった。ただの一言も語られず、何事も問われず、答えは発せられなかった。言葉はなかった。ふたりは互いの瞳しかみていなかった。踊りながらずっと。この小さな世界を廻りながらずっと。

 ふたりは互いの瞳しか欲していなかった。いつも真実がそこにあることを知りながら、それに辿り着くことは決してできなかった。言葉が邪魔をし、理性が押しとどめ、世界が偽りを強要した。けれど今は音楽の鳴りやまぬあいだ言葉を追いやることが許されたので、ふたりは思うままに真実をむさぼりあっているだけだった。

 あまりにも濃く親密な視線が交わされつづけ、 ふたりの魂以外は何者も立ち入りできない次元がそこには生じていたので、観衆から小さくざわめきが起きたほどだった。

 けれどもふたりにとって世界の動揺などは取るに足らないことだった。

 真実の光を通しても、薔薇色の瞳の中には彼の知らない不穏があった。それは虚無に似た闇。闇に似た虚無。何かを手放したあとにぽっかりと穿たれた空白のような場所だった。温度のない冷えきったその亀裂はやがていつか彼女のすべてに拡がり、彼女の魂を凍らせてしまうだろう――。



                ◇ ◇ ◇



 楽団の奏でる音楽が帝国の舞踏曲に変化した。

 薄紅色の蝶は黄金の皇帝の誘いに攫われてゆく。

「――」

 ルキウスは彼女の指先が彼の腕をすべり離れてゆく瞬間に、抗うように強くその手を握りしめた。

 背中を震わせながら、彼女はごくわずかにだけ振り返った。

 小さく可憐な唇が、ささやきを残した。

「ルキウス。君は塔へもどって、〈解析機械〉を完成させて」

 瞠目するルキウスをおきざりに、彼女は二度と振り返らずに去った。


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