麗しのソルティス姫


「またあなたに会えてなんて嬉しいのでしょう、ルキウス。こんな格好でごめんなさいね。起きられるようになってから、と周りは言うのだけれど、一日でも早くあなたに会って礼を言いたかったのです」

 ソルティス王女は寝台のとばりの中からルキウスに声をかけた。

 寝室の戸口で膝をついて頭を下げているルキウスに向かって、王女付きの侍女がとばりを持ちあげ、そばに近づくことを許す。

「兄の元に戻ってきてくれたこと、本当に心から、礼を言います。とても難しい決断だったことでしょうね……」

「もったいないお言葉でございます。王女殿下におかれましては、ご成長につれてご体調の好転いちじるしいとのこと聞きおよび、遠い地にて勝手ながら心の喜びを感じておりました。神国ディウィフィリウスの希望の光は、王女殿下の聡明で清らかなお知恵です」

 差しだされた手が、ルキウスを寝台の傍らに用意された椅子へいざなった。

 恭しく取った王女の手にルキウスは尊敬をこめた口づけを落とす。

「ええ、今日も熱があるわけではないのよ。ただ少し喉を痛めてしまって、大事をとって寝かされているだけなの。酷い声でごめんなさい」

 恥ずかしそうに喉元を押さえるソルティス王女にルキウスは首をふった。

 声がかすれているくらいは、むしろ彼女の至高の美しさに艶を添えていた――。

 神代以来の美少年アーレア王子の双子の妹だから、ソルティス王女もやはり凶器のような美少女に成長している。波うつ金髪に、深紅の瞳。そもそもアーレア王子の美しさも性別を超越したものであるから、兄と妹の容貌のあいだにさほど大きな性質の違いはない。ただし病弱な成長期を送ったソルティス王女は、体つきに無駄な柔らかみがなくすらりとしていて、ふわっと身を包むガウン越しにも肩や腕などの骨の節が目立ってみえた。

「もちろん誰よりもルキウスの帰りを願っていたのは兄です。帰って早々、昨日は兄の命を救ってくれたのですってね……」

「帰って早々、その件のせいで冷戦状態に陥っていますが」

「まあ」

 ソルティス王女は瞳をまるくしたあと、柔らかく微笑んだ。

「でも、わたくしたち三人の仲ですもの、すぐ簡単に仲直りできるでしょう」

「なし崩しとも言いますがね……」

「ルキウス。わたくしが代わりに謝れば、兄を許してくれるかしら?」

 はっとしてルキウスはソルティス王女を見つめた。

 昔からソルティス王女は、度を越して兄想いなところのある妹姫だった。

「それはおやめになられたほうがいいと思います。本当を言うと、アーレア王子が謝るべきことでもありませんから」

 神国ディウィフィリウスのアーレア王太子が七王国にとってつねに第一級の抹殺対象であって、日常的に暗殺の危険があることは、自明のことだ。

 薔薇色の瞳をもつ王太子がいつ〈破壊神の紅〉を輝かせる狂王として目覚めるかは、誰にも知りえないことだからだ。

 七王国としてはディウィフィリウスの神王家の血を絶やしたいに決まっている。

 幼少のみぎりにルキウスが〈おともだち〉として仕えていたころから、暗殺の二文字はアーレア王子の周りで強く意識されていた。ルキウスは父からよく言われた。『いざというときはお前の命を差し出して王子殿下のお命を死守するのだぞ。粉骨砕身! 七生報国! それこそがクラウディウス家の存在意義と誉れなり!』

 クラウディウス家では、勉学のために武芸の稽古の時間を削ることは絶対に許されなかった。

 武芸は戦陣の王に付き従うためのものだが、ルキウスが初めて人を斬ったのは十四のときだ。

 すでに心の中では〈知恵の水路の塔〉への入塔を決めていて、どうやって実行に移すか考えあぐねていたころだ。

 王宮庭園でほにゃほにゃと遊んでいた九歳のアーレア王子に、侵入した暗殺者が襲いかかった。

 間一髪、少年ルキウスが賊を斬り捨てられたのは大戦経験者である父から受けた訓練の賜物だったろう。

 あの場面には病みあがりのソルティス王女も一緒にいたことを思い出す。

「私が迂闊すぎたのです。アーレア王子に警戒感が皆無だったので、油断しました。王子の世界観に引きずられてはいけないのに」

 ゆうべ王城に帰り着いたあと険悪な雰囲気のままにアーレア王子から訊き出した話によると、パブリウス先生に連れられて街に繰り出すようになって、狙われ放題となったアーレア王子は毎回のように襲撃を受けてきたという。一日に何度も、ということさえあったという。アーレア王子とパブリウス先生はいつも丸腰で、近衛隊さえ連れていなかったが、パブリウス先生は〈不思議な逃げ足〉を持っており(〈不思議な逃げ足〉についての具体的な説明はまったく要領を得なかった)、いつも二人は難を逃れることができた。その際にたびたび、フードを深くかぶった例のスカラベ男が現れて敵に向かっていくことがあったが、パブリウス先生とスカラベ男のあいだには何も繋がりがないらしい。

「〈水路塔〉でも鍛錬をつづけていたのですか」

 ソルティス王女は少なからず複雑そうな表情で言った。

 あなたは学者の道を選んで〈水路塔〉へ行ったのに、なぜまだ重い剣を振るうことができるのか。ソルティス王女の瞳はそう訊いている。

「鍛錬というほどのものではないのですが、研究に没頭する日々の気分転換として素振りの習慣はちょうどいいのです」

 ついでに、ルキウスの剣の腕は〈水路塔〉にも貢献した。〈水路塔〉には研究成果である最新技術を盗もうとして侵入する輩が絶えない。〈水路塔〉で解読される神々の知恵の中には軍用技術として使えるものも多く、各国の支配者がそれを欲しがっている。

 首席教授ルキウス・クラウディウスは、最高機密区画の警備責任役を割り当てられ、防犯機構をすりぬけた手練れの賊によって稀に鳴らされる警報音に対応していた。〈水路塔〉は研究の独立を保つために、自給自足をつらぬく組織なのだ。

「素振りは何回なさっているの?」

 ルキウスはソルティス王女の質問に意表をつかれた。

「素振りですか? 朝晩あわせて五百回くらいですかね……考えごとをしているうちにだいぶ超えていることもありますが」

 するとソルティス王女はさらに身を乗り出すように、

「他には何かなさっている? 走りこみとか?」

 妙に切迫したような表情で問いつめられて、ルキウスはとまどった。

「いや……、〈神知石〉を水路の底からさらう作業をたまに手伝ったり、あとは水路の補修もけっこうな重労働でしたが、それくらいですかね……」

 しかし、肉体を酷使する話などが、病がちの虚弱な王女にとって意味をなすだろうか。

「そう……」

 なにやらがっかりと不満げにソルティス王女は目をそらし、布団の上で固く両手を組んだ。

「王女殿下?」

「それは真似できない……」

「真似……?」

 ソルティス王女は薔薇色の両瞳でルキウスをじろりとみて、首をふった。

「何でもありません。……ねえ、ルキウス。わたくし何度か〈水路塔〉のあなたに手紙を書いたけれど、返事はいつも素っ気ないものでしたね」

「そ、そうでした、か?」

「そうよ。わたくしが便箋二十枚書いてもあなたは一枚のしかも半分も埋めないで五行きり、だとか。そんなことばかりでは甲斐がなくてわたくしもやめてしまったわ」

 詰るような薔薇色の瞳から今度はルキウスが目をそらす。

 便箋にみっちりと二十枚。ソルティス王女が書き送ってきたのは――度を越して兄想いの妹姫が書き送ってきたのはアーレア王子の近況・日常・言動の数々。アーレア王子の現在すべてを彼方に去った友に伝えるべく、幼少から聡明だったソルティス王女は豊富な語彙を尽くしてその驚異的な日々を描きあげていた。

 驚異的なバカ王子の生態を。

「きっと知りたいでしょうと思ったのに」

 知りたくなかった。

 置いてきたもののことなんて、もう何も。――いまさら。……そう、思っていた。

「お美しい文字を堪能させていただきました」

 話題をそらそうとして、ルキウスは天蓋を見上げながら言った。

 濃紺のラシャの天蓋には、金糸銀糸で刺繍された星座がすみずみまで煌めいている。

「わたくしはね、文字も剣と同じように使えたらと思うの」

 未来の破壊神アーレア・ディウィフィリウスの双子の妹姫ソルティス・ディウィフィリウスは、比類なき美貌をもつ神々の末裔でありながら儚く弱い人の体にとらわれ寝室の奥からめったに姿をあらわさない、という伝聞の神秘性によって、兄アーレア王子とはまた違った意味で人々の想像力をかきたてる存在となった。

 各国王室でもソルティス姫への関心は高い。実際に姫と会えた人間はほとんどいないが、それでも見舞いの訪問や贈り物は絶えない。ソルティス王女はそうした〈ご厚情〉に対して、ていねいな手紙を書いて返礼し、これという相手とはそのまま手紙のやりとりをつづける。そのうちソルティス王女との交友のありなしは、王室間社会での一種のステイタスとなった。

 ついた渾名が〈文通姫〉――。

「剣は争いを生むけれど、文字は平和を生むでしょう。わたくしは文字の力で、兄の支えになりたいのです」

 薔薇色の瞳を熱っぽく輝かせて、ソルティス王女は言った。

 また熱が出てきたのではないかとルキウスは心配になった。

「ルキウス。時が来たら、協力してくれますね?」

 七年の空白を飛び超えて親密さをたしかめるように、ソルティス王女はルキウスの頬にふれた。

 時が、いつのことを意味するのか、協力の内容が何を指すのか、今このときのルキウスにはわからなかったが、ソルティス王女の考えることならば神国ディウィフィリウスにとって間違いはないだろう。

 『ルキウスは昔からソルティスのことが好きよね』

 そのとおり。

 姿かたち顔立ちにほとんど違いはないのに、ソルティス王女はルキウスに恐怖を与えない。ソルティス王女の理知的な言動はルキウスの生命を脅かさない。ソルティス王女の微笑みはルキウスの足元を揺るがさない。

 ソルティス王女の前ではルキウスは自分を失うことがなかった。

 だからルキウスはソルティス王女がアーレア王子よりも好きだ。彼女のすべてを信頼している。

「もちろんです、殿下」

 わずかなザラつきを残して、骨ばった手が頬をはなれてゆき、ルキウスの視線を導いて彼女がその手のひらを優雅にひらめかせた。

「ペンだこがこんなに沢山できてしまっているの。すごいでしょ」

 と、ソルティス王女は微笑った。

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