パブリウス先生の秘密の発酵床

「パブちゃんはね、あたしによく歌をくれたの。曲と歌詞をいっしょにね」

 ゆがみのない大きな鏡の前で歌姫は蜂蜜湯を舐めながら言った。

 調味料の甕が壁際にならぶ小さな楽屋には、衣装箪笥から溢れたドレスが散乱し、足の踏み場もない。

「今日の曲目はぜんぶパブちゃん作の歌にしたわ。彼の失踪の謎をとく何かのヒントになるんじゃないかと思って」

「安っぽい恋歌ばかりでヒントも何もあるわけがないな。出てくる言葉といえば〈愛〉がぜんぶ合わせて三六回。〈恋〉が二七回。〈夢〉、〈永遠〉、〈温もり〉が一六回。〈会いたくて〉、〈会えなくて〉、〈切なくて震える〉、〈眠れない夜を数える〉、〈寂しいとウサギは死ぬ〉、〈あの女ばかり見ないで〉、〈裏切ったら殺してやる〉というフレーズがそれぞれ六回ずつ使い回されていた。……もう少し多様性というものはないのか」

 厨房との境の入口で所在なく立ちどまったルキウスはにべもなく答えながら、彼に先んじて楽屋に突進しドレスの海にダイブしたアーレア王子に顔をしかめた。

「星の座標にふしをつけて歌っていたほうがまだロマンがある」

「ずいぶん細かく聴き込んでくださったみたいじゃない?」

「歌姫の歌に暗号を紛れ込ませるケースはよくある。去年にはシルウァ王国で酒場の歌姫がスパイの協力者になっていたかどで摘発されている。我が王都にもスパイの汚染がないかどうか、試しに分析してみたが……」

 歌姫カンティは呆れた顔で言い返す。

「そんなことを考えながらあたしの歌を聴いていたわけ? でもパブちゃんがもしスパイだったら、突然の失踪にも理由がつくわね」

 ルキウスは首をふった。

「馬鹿げてる」

 パブリウス先生にかぎって、国を裏切る汚れ仕事に関わるなどありえない。その必要もないはずだ。

「王都の治安が悪化しているというようなことはないのだろうか。パブリウス先生が事件に巻き込まれるとすれば、追い剥ぎや、変質者との遭遇のほうがよほど蓋然性が高い」

 王都警備隊にも自警団にもめぼしい情報は入っていないというのがアーレア王子の話だが、アーレア王子の情報収集力が当てになるとも思えないので、ルキウスがあらためて照会するべきだろう。

「王都はいたって平和よ。でも確かに変質者に襲われた説はありそうね。飛びぬけて美しい男だもの。あたしが変質者だったら放っておかないわ。パブちゃんとアーレアちゃんが二人で並ぶとまるで神の国が出現するみたいだったわね」

 鉱物のきらめきを織りまぜたような銀髪と、星をまぶした夜空色の瞳をもつ、万年美青年な師の姿を思い浮かべて、ルキウスは頷いた。その人間像に食い違いはない。

「パブリウス先生と君は……恋歌に描かれているような関係だったのか?」

 その問いに、歌姫カンティは青い瞳をきらめかせる。

 その真っ赤なくちびるには侮蔑的な笑みが刷かれた。

「?」

「野暮な子ね」

「あっ、はあん、うっ、うううっ、はわわ気持ちいいいうううんっ」

 あられもない声におののいて壁際をみると、アーレア王子が甕のひとつにかぶりつき、丸い口から手を突っ込んでのたうちまわっている。

「つめったい~ひゃっこい~にゅるる~んんっ、うひゃっ」

「何をやっているんです、殿下」

 顔をひきつらせて聞いたルキウスに、恍惚としてどこかへとイッてしまった目つきでアーレア王子が返事をした。

「これね、パンとビールを混ぜて寝かせた発酵床よ。キャベツとかキュウリとか、中に埋め込んでおくと味がついてすんごく美味しいの。せんせ、これが好きだったなーって。だからお墓に供えてあげようと思って」

 まだ死亡したと決まったわけでもないんだが。

「その様子は、とにかく手を突っ込んでみたかっただけですね」

「そうともゆうよね~」

「その甕、パブちゃんの専用なの」

 鏡台に気だるげに肘をついて、カンティが口をひらく。

「彼が持ち込んで、自分で世話していたのよ。伯爵のお屋敷では使用人にも高いプライドがあるからそんな庶民的な食べ物は厨房に置いてもらえないんですって。楽屋を使わせてもらう代わりにと言って、あたしに歌をくれたの」

 つまり、美しい歌姫との粋なロマンスを目的にしていたわけではなくて。

 なじみの酒屋に発酵床をキープし、いそいそと床をかきまぜに通っていたというのか。

 ルキウスはまだ今日が終わっていないのに早くも二日酔いめいてきた頭痛を抱えてその場にしゃがみこんだ。

 ……ものすごい勢いで恩師のイメージが壊れていく。

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