空前絶後の……

 逃げ腰のルキウスにぶらさがりながらアーレア王子は何やらひたすら能天気な旋律のでたらめな歌をハミングしていた。

「ルキウス! さいきん余は『聞かなかったフリ』というのを覚えたの! すごいだろう。今ね、それを使った! 今のが使うべきときだったよね?!」

 ルキウスは多少乱暴にアーレア王子をひきはがした。

 血管のブチ切れそうな頭を片手で抱えつつ、

「……その実用的なスキルの指導はパブリウス先生が?」

「そうそうそう」

 パブリウス先生の試行錯誤な教育が察せられる……。

「パブリウス先生の行方の手がかりはまだ何も?」

「ないねえ。せんせ、どこ行っちゃったんだろうねえー」

 王太子教育官パブリウス・マロ伯爵が失踪した――。

 父の手紙に書かれていた御国の一大事とはこのことだ。

 パブリウス・マロは、〈水路塔〉の在籍経験こそないが、大陸最古の大学である名門ディスケ大学で教鞭をとっていたこともある七学博士だ。

 彼はもともとはルキウスの師だった。

 パブリウス先生の伝授できるかぎりの学問を、齢七歳にして完璧におさめてしまった神童ルキウスには、五歳下の王太子の教育官となる将来が与えられようとしていた。伝統的にクラウディウス家の男子は直系王族の副官職に就き、その腹心となる未来が宿命づけられている。騎士道を進もうと、学問をきわめようと、結局のところルキウスにはアーレア王子から逃げられる道はないはずであった。

 〈水路塔〉からの特別な招聘状が神童ルキウスに届いたとき、快く教育官の代役を引き受けてくれたパブリウス先生は、ルキウスにとって命の恩人だ。彼ほどの学識者が代役を申し出なければルキウスの出奔は国王から許されなかっただろうし、アーレア王子を“教育”することができる人物は現実として、パブリウス・マロをおいて他にはいなかった。

「パブリウス先生さえも絶望させるような愚行をなさいましたか。いったい殿下は何をやらかしたのです?」

 パブリウス先生の器をもってしても、とうとう匙をブン投げるときがきた、ということなのだろう。

 ルキウスのような馬鹿アレルギーを患っていないからといって、学者の魂をもつ者が、アーレア王子の馬鹿三昧の日常にずっとながいあいだ耐えられるか?

 そんなにも完璧なひとがいるとしたら、神だ。

「うんにゃ、余には別の推理があるぞっ? ルキウスの姉さまもいなくなったって聞いたよ? どう考えても二人アヤシイくないぃ?!」

「どう考えても怪しくないですね。うちの姉は国外周遊旅行中にどこぞの大公国の中年大公に見染められただの、歴史がクソ古いだけの田舎臭い小国に宮仕えする家など継がずに海の見えるハイカラな国の大公妃に私はなる、だのと旅行先から一方的に言ってよこしただけです。先生は関係ない。……いや殿下、“聞かなかったフリの歌”をもう一曲歌わなくていいです。帰ってきたら姉は神王国侮辱罪で斬首がよろしいかと」

 するとアーレア王子がうろんげに瞳をほそくした。

 そんなふうに冷めた表情をしてさえ王子の美貌は雪の結晶の散り舞うさまを幻視してしまうまでに美しい。

「ルキウスー。余はおまえのそうゆうところがあんまし好きじゃない。ときどき舌に悪魔を宿すところが」

 脳みそに馬鹿を宿した誰かよりは俺はまともだ。

「嫌われているなら荷物を解かず回れ右して〈水路塔〉に帰らせていただく」

「待て待て待って。どうしてそうなるの?! いまのは愛情表現よ?!」

「では殿下は俺にここにいてほしいのですね?」

「もちろん、もちろんよルキウス。余はルキウスにずっと永遠に余のそばにいてほしいぞ!」

 それは叶わぬ願いです。何しろ俺はほかでもない殿下のせいでもうじき死ぬので。

「殿下の願いに添えるよう努力はします。栄光あるクラウディウスの家名に誓って、我が父と母の血に恥じぬ働きを殿下に捧げる所存です。だから殿下も、俺の言うことにはなるべく従ってほしい」

「おっ、おう。ルキウスの言うことを何でも聞けばいいのね……? えっと、ほら、それ、何だっけ、うーんと……そうだ、奴隷っ 余はルキウスの奴隷になればいいのね?! もちろん、なるぞっ、余はルキウスの奴隷に!」

 根本から奴隷の何たるかを勘違いしたガッツポーズでアーレア王子は謎の気合を入れた。

「奴隷は違法だから駄目です」

「肉体的なのは違法だけど精神的なのは違法じゃないよねよし決まった! 皆んな~聞いたか~余はこれからルキウスの精神的奴隷に生まれ変わるんだって~!」

 大声で叫んだアーレア王子の尊き口元をルキウスの手ががしっと掴まえた。

「ほよっ」

「残念ですね殿下。自分で人払いをかけておいたのを忘れましたか」

「むごむご」

「精神的奴隷。ある意味ではそのとおりです。殿下の教育官たる者の使命は、殿下の暴走に枷をはめること。ふたたび狂王の時代が訪れぬように、殿下の中の神の血の意思はかいしょうどうを矯正すること。てっとりばやく言えばそれは殿下を俺の支配下におくことに変わりありませんよ」

「もぐもぐ」

「指を食べるな」

「でー、ルキウスはー、余にぃー、どんなことをしてほしいのかな?」

 あざとい上目遣いもやめろ。

「〈知恵の水路の塔〉を破壊しないでほしい」

 ルキウスはアーレア王子の深紅の瞳をまっすぐ見下ろして言った。

 人ならざる深紅の瞳。

 神々の血を証しするその色。

 今はまだ深い影に沈んだ薔薇色でしかないその瞳も、いつか、〈破壊神の紅〉と呼ばれる血潮色の輝きに濡れるときがくる。

 五十年前、〈破壊神の紅〉の瞳を輝かせた戦神のごとき青年が、大陸中を狂気の軍隊を率いて蹂躙した。美しき軍神の進む先にあったものは、〈知恵の水路の塔〉。

 神の血は大陸に〈神知石〉の恩恵が蔓延するのを許さない。それは神々から盗まれたも同然の盗品だ。もっとも罪深きものは、神々の知恵の解読に頭脳と人生を捧げる者のあつまる〈知恵の水路の塔〉にほかならない。

 神国ディウィフィリウスの破壊神は、〈知恵の水路の塔〉を粉々に破壊し、大陸中にあふれる盗品の痕跡を根絶やしにするまで進軍をやめない。

「余だってそんなことは全然したくない。でも父上だって、神の血が沸騰するまではとてもとても平和が大好きな人だったらしい。今となってはどうしてあんなに〈知恵の水路の塔〉をぶっつぶしたくなったのか全然わからへんねん、とおっしゃっているぞ」

 神国ディウィフィリウスの建国以来、平和に倦む暇もなくこの国の王たちは大戦の衝動に駆り立てられてきた。

 幾人もの王が、破壊神となった。

 アーレア王子の柔らかな金色の前髪の陰には、ごく小さな鎖型の痣が隠されている。生まれ落ちたときは真紅の光に輝いていたというその痣こそは、狂王予定者の証。この時代には、ただひとりアーレア王子だけがその痣を白皙の額に戴いている。

 生まれながら額に鎖型の小さな痣を烙印され、薔薇色の瞳をもって王座についた者はみな、その使命から逃れられない――。

「正気のときだろうが狂気のときだろうが、俺の教育には従ってもらう。〈知恵の水路の塔〉は滅ぼさせない」

 それは神国ディウィフィリウスにとっても、切実な願いだ。

 破壊神は破壊しかしない。大陸統一のビジョンも意志もないので、破壊し尽くしたあとは残存勢力に追われるだけだ。各国が対・破壊神に結集して向かってくるのだから、意志のない軍隊はひとたまりもない。ゆえに神国ディウィフィリウスは建国以来、おちつくひまもなく国のサイズの拡大と縮小をくりかえしてきた……。

 いま神国ディウィフィリウスは、周囲を七つの王国にとりかこまれ、面積はほぼ建国の都であるディーウィとその周辺が残されているだけの小国である。もちろん、五十年前の無謀な大戦の結果としてこうなったのだ。破壊神の名をほしいままにした青年――アーレアの父である国王陛下が敵に捕まらずに王都ディーウィへ逃げ戻り、最低限度の防衛ラインを守りきったことで神国ディウィフィリウスはからくも滅亡だけは免れた。

 しかし今でも、七つの王国は破壊神を封じ込めるための警戒を怠ってはいない。

「あーっ、そういえば、せんせーが、覚醒を封じる方法わかっちゃったかも、とかなんとかゆってたっけ」

「何だって?」

 ルキウスは愕然とした。

「ゆってたー、気がする?」

 心もとない様子で首をかしげつつ、アーレア王子は両手で丁寧に顔面から剥がしたルキウスの手を犬のようにぺろぺろと舐めている。やっぱしあたまよさそうな味するねー、などと言いながら。

 ルキウスは驚愕の状態から我に返り、犬の餌になりかけた手をとりかえした。

「殿下、失礼を承知で申し上げますが、それを真っ先に言え馬鹿」

 悪びれもしない能天気な顔でアーレア王子は答えた。

「んー、でも先に言っても後に言ってもどうせ変わりないじゃん。そのせんせーがいないんだもの」

 能天気な顔で頑是ないこどものように嘯いているときでさえ神がかった美貌が損なわれることがないから始末が悪い。

 ルキウスは無意識に心臓を押さえながら、天敵の王子を険しい眼で見据えた。

 しだいに早鐘を打ちはじめる心臓の鼓動によって、そろそろ限界が近いことがわかる。

「その方法がどういうものだか、ざっくりとくらいは聞いてあるんでしょうね?」

「ないない」

 アーレア王子は神代の美貌の前で両手を交差させ、バッテンにした。

「ご自分の生き死にに関わることでしょうが……?」

「ルキウスはそれが知りたいの? んもう、知りたがりさんだなあ」

「全世界が喉から十二指腸が飛び出そうなほどに知りたがっているんですが」

「わかった。じゃー、探しにいこっか。よし、いこー!」

 とつぜん決定を下したアーレア王子が突進してきてルキウスの腕に腕をからめた。そのまま後ろにひっぱってずんずんと歩いてゆく。

「ちょっと待て、どこへ……」

「せんせーがゆってたことなんだから先ずはせんせーを探せばいいじゃんか。急にいなくなっちゃうなんて心配だから余はひとりでも探しに出るつもりだったけど、ちょうどよくルキウスが来てくれたからなっ。ルキウスがいてくれればどんな謎でも解けるでしょう? めでたいめでたいおめでたーい」

「今これから?!」


【馬鹿は思いついたらすぐ行動にうつる】


 今からこのまま城下に出ていくつもりか。しかしアーレア王子はただいま絶賛オリーブオイルまみれのぬるぬるてらてら状態だ。そうじゃなくても、どこに行ってもアーレア王子の凄まじい美貌は目立つ。そして浮く。絶対に大騒ぎになる。街に出るならそれ相応の準備が必要だ。

 まずは着替えるのが先ではないのか。

「あっそうだその前に」

 急に足をとめたアーレア王子のうしろでルキウスは頷いた。そうそう。その前にやることがありますよね。

「おやつの時間だ~」

 ルキウスは握りこぶしの中で手のひらに思いっきり爪をくいこませた。

 たとえこめかみの血管がキレそうなときでも、感情を顔に出してはいけない。それは子供のころに親から叩き込まれた宮廷心得だ。しかし、幼いみぎりのアーレア王子の〈おともだち〉役を仰せつかった少年ルキウスは、宮廷心得もふっとぶ血管の危機にさらされつづけた。馬鹿幼児の〈おともだち役〉は、神国ディウィフィリウスの至宝と呼ばれた神童ルキウスにとって地獄のようなお勤めだった。神童ルキウスは御国のためにその頭脳を血管爆発の危機から守る必要があった。頭に血を昇らせてはいけない。

 〈顔で笑ってこぶしを握れ〉

 頭の血管を死守した代償に、あのころ少年ルキウスの手のひらは毎日のように鮮血に染まっていた。

 類まれな頭脳をもって生まれた少年の繊細な心にいつまでも忘れられない傷と恐怖感を植えつけたあの日々――。

 遠い目をして立ち尽くしていたら、組んだままの腕にアーレア王子がぶつかるように飛びついてきた。

 アーレア王子はつま先立ちしてルキウスと視線をあわせた。

「行こう? おやつ、おやつ! 最近は塩味のしょっぱいクッキーが流行りだから甘いものが嫌いでも大丈夫ぞよ、ルキウス」

 輝かんばかりに麗しい笑みを向けられると、爆速で鼓動を打ちつづけるルキウスの心臓がきゅるりと軋んだ。

 ああ、もうだめだ。

 初日からすでに、心臓が瀕死の悲鳴をあげている。




 神国ディウィフィリウスの王太子アーレア・プルクラ・ディウィフィリウスは、前代未聞の美少年であり、そして空前絶後のバカである。

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