神王国のヌルヌル王子
ルキウスはしきりに咳払いをし、強張って固まりそうな首をまわした。
十四歳いらい七年ぶりに着こんだ宮廷服の長上着には、最高級のビーズと絹糸による繊細華麗な刺繍がみっちりとほどこされており、それが重くて窮屈で嫌になる。
古風でおかしな出仕カツラの習慣だけはとうとうなくなってくれたようで喜ばしい。
壇上に現れるべき待ち人はいっこうに来ない。
まあこれは時間通りに登城した自分が悪いのだとはわかっている。相手を考えろ。相手はアレだ。もしかするとこのまま五時間も六時間もここに突っ立ったまま待たされる可能性もある。
むしろ、このまますっぽかしてくれたほうが……。
ルキウスは片腕をかかげて眼を細めた。袖の模様を眺めているだけで時間をつぶせるくらい芸術的で精緻な刺繍だ。名門中の名門・クラウディウス公爵家の家格と財力をおもえば、豪邸ひとつぶんの金額が宮廷服の一着につぎこまれていてもおかしくない。
しかしルキウスが見ているものは、贅沢な意匠のうつくしさではなく、一定の法則性であった。
職業病というのだろう。日々を〈神知石〉の暗号解読に捧げてきたルキウスには、くりかえしのパターンを持つ模様はすべて、その裏側に何らかの情報を隠しているような気がしてしまう。
隠された言葉は、見いだされなければならない――。
ルキウスは頭をふった。
解読できたのは、跡継ぎ息子のために衣装を誂えておいてくれた母の愛と、喪服めいた黒の色調にうかがえる趣味のよさ、そしてごくわずかに自分の手が震えているという事実だけだ。
ルキウスは二度、三度と頭をふった。
正直なところ緊張している。
許されるものならば今すぐ回れ右して帰りたかった。
何を考えていても落ち着かない。
どうかすると、気が狂いそうだった。
死の恐怖。
取り違えようもなくそれは、間近にせまる死への恐怖だった。
「ルキウスーっ!」
ばあんッ、と両手で観音開きの扉をあけて、〈彼〉が謁見広間に飛び込んできた。
「わ、わ、わーっ! ほんとだ、ほんとにルキウスだーっ! マジか、マジ帰ってきてくれたの、余のために?! わっきゃきゃーっ めでたいめでたいおめでたーいっ」
しゅたたたたったったっ、とまっすぐルキウスめがけて両腕を広げて走ってきた〈彼〉が、
「ルキウス、おかえりとただいまの抱擁だっ。さあおいでちゃんと受け止めるから余の胸――」
あと十歩のところでズルっと足を滑らせて派手にすっころんだ。
「ギュワッ」
潰れたカエルのような声をあげた王子の背中を、しばらく冷然とルキウスは見下ろしていた。
「ギュワッ ギュワッ」
たぶん俺に助けてほしいんだろうな、――と思いつつルキウスは左右前後を見回して衛兵あるいは副官の姿をさがす。
謁見広間にはルキウスと王子のほかには誰もいなかった。
どうして人払いなんかしてあるんだ、面倒な……。
「ギュワッ ギュワッ ギュワッ」
うつ伏せのまま奇妙にじたばたともがいている王子に近付いて、ルキウスはしぶしぶ手をさしだした。
「顔から転んで鼻骨でも折りましたか。殿下におかせられましては鼻のひとつやふたつ、陥没していてくれたほうが、この大陸の多くの者が喜ぶのではないでしょうか」
「しどい……。うんにゃ、人の不幸を喜ぶひとなんてそんなにいっぱいいるわけないっ。いるなら連れてきてっ。余がおいしいお菓子でその悲しい心を溶かしてみせるからっ」
「俺は甘いものは嫌いです」
「おまえかっ!」
がばりと起こした顔と目を合わせないようにしてルキウスはその腕を引っ張りあげた。王子はなぜかつるつると手足を滑らせながらまるで産まれたての小鹿のように立ちあがった。
「何かぬるぬるしてますね」
掴んだ腕の感触にぞわっとしてルキウスは手を離す。
王子の全身が、……髪の毛から衣装の膝までが、全体的にぬるぬるてらてらと光り輝いている。
妙に美味しそうな香りがした。
「オリーブオイル。さっき余があらかじめオリーブオイルを撒いておいたの。ルキウスをすっ転ばそうと思って」
「人の不幸を画策してたの殿下じゃないですか」
「でも変ねー。ちゃんと予行練習して位置と範囲を決めておいたのに。ほらそこ余が立ちどまってルキウスを待ちうけるべきところにチョークで印付けてあるでしょう? 水よりもオリーブオイルならもっと上手くいくとおもったのに」
「油は表面張力が弱いから水より広がりやすい。そんなことも知らないのかこの馬鹿は」
油で汚れた手をどうしたものかと神経質に宙に浮かせて見つめながらルキウスは言い足した。
「後半は独り言です。ご承知おきください」
「っていうか何でルキウスはヌルヌルを踏んでも滑らないの?! ヌルヌルに愛されたヌルヌルの達人なの?!」
「いえ、体重の違いですね」
王子のその華奢な身体では摩擦係数が――と、解説するために王子をまともに見てしまってルキウスは動揺した。王子はすでに至近距離に迫っており、ルキウスの浮かせた手を両手ではっしと包みこもうとするところだった。
神国ディウィフィリウスの第一王子すなわち王太子であるアーレア・プルクラ・ディウィフィリウス王子は、神の血をひく半神半人の美少年だ。
美というものは数量的な評価ができない。
だが神国ディウィフィリウスの王族を前にすれば百人のうち百人が、神代の美貌にうちのめされてひれ伏したくなるという意味でその美しさは絶対的だ。
それは性別という概念をかるがると超越した神の領域の美であった。
「背が伸びたのねえルキウスは。なんだか別人みたいよ? むかしは余のほうがおっきかったのにーっ」
「殿下はあまりお変わりになっておられませんね。今でも偏食で牛乳嫌いのままなんですか」
まだ声変わりもしていないのか……。
呆れた内心を隠せずにルキウスはまなざしの温度を下げて相手の観察につとめた。そうだこれは観察だ。動揺する必要はない。
「牛乳はおなかこわすからなっ」
高く結いあげて垂らした天然の波うつ金髪にも、可憐な白磁のほおにも、なめらかな瞼のはしに整然としなやかに揃うまつげにも、艶かしくオイルの虹が輝いて、ただでさえ神がかった王子の美貌にタガの外れた魔性を加えていた。
「おなかこわすのきらいーっ」
世界に比類のない超絶精度の美少年が、きらきらした瞳で真下からルキウスを見上げていた。
「ところで何でルキウスの手は震えているの? 寒い? 具合わるい? 死んじゃうの? 待って待って待って。ルキウスが死んじゃったら誰が余を教育してくれるのよ。パブリウスせんせーもいなくなっちゃったっていうのにっ。だめだめだめ。死んじゃだめルキウスぅー。戻ってこーいっ、戻ってこいルキウーッスッ!!」
それはまだ早い。
「残念ながらまだ無事です。むしろいっそ早めに死にたい。この地獄が一ヶ月もつづくくらいならば」
顔をそむけて懸命に距離をとりながらルキウスは言った。
心の講義準備ノートに第一回講義のタイトルが書き込まれる音がする。
【馬鹿は距離感が無駄に近い】
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