父危篤

 神々のむくろ山脈から流れる〈神文光脈〉の黄金色に光るみなもが、ゴンドラ漕ぎの櫂の動きにきらきらとさざなんでいた。

「水路外周の正門まで行ってくれ」

 講義塔の水路玄関に横づけされたゴンドラに飛び乗り、ルキウス・クラウディウスは旅行鞄を置いた。

 ゆっくりと玄関をはなれたゴンドラが、なめらかな光脈の水を割ってすべりだす。

 船のふちの向こうから、水路の底に堆積した神文石のかけらが太陽の光を反射してルキウスの瞳を灼いた。

「っ」

 色素の薄い瞳はつよい光によわい。

 けれど、この眺めも見納めだとおもえば。

「先生、どこかのお国へとご出張で?」

 舟歌をうたう口笛のあいまに尋ねてくる船頭に、ルキウスは「いや」と首をふった。

故郷くにに帰るんだ。実家からの命令でね」

 ルキウスは教授用のローブの首ひもをほどいて、もはや無用なそれを体から剥ぎとった。「こんなもの、公爵家の者にいまさら見せるような姿じゃないからな」正門には実家からの迎えの馬車が着いている手筈だ。苦々しい気持ちでローブをみなもに投げ捨てようとしたら、ひっくりかえったポケットから〈予備〉のクルミがいくつも船底に落ちて転がった。

 それを追いかけるようにひらひらと、しわくちゃの薄紙が舞い落ちた。


『チチキトク、アネガカケオチ、シキュウカエレ。ウチテシヤマン、ホシガリマセンカツマデハ、オマエガワガヤノアトツギダ』

 

 拾ったクルミがルキウスの手の中でぐしゃりと砕けた。

「何が父危篤だバカ親父……」

 古い戦争時代のスローガンをムダに織りまぜてくるセンスの持ち主は父以外にありえず、したがってこの急報の伝える事実は、姉が駆け落ちしたという部分だけだ。

 クラウディウス公爵家の娘が駆け落ち?!

「にわかには信じられないことだが、まあそれはどうでもいい。姉上がどこの馬の骨と結婚しようとそれは俺にとってどうでもいい。しかし、どうして駆け落ちなんだ。婿をとって公爵家を継いでくれる約束だったじゃないか。あのとき姉上に求められるまま跪いて靴を舐めて三回まわってコケコッコーと鳴いて感謝した俺の立場はいったい」

 ゴンドラがアーチ橋をくぐる。橋の欄干から、小鳩たちが砕けたクルミの香にさそわれて羽ばたき降りてきた。

「先生、おいらに喋ってくれてます? それとも鳥たちにですかい?」

「いや自問自答だ、すまない」

 船頭は気を利かせて憂愁の響きにみちた舟歌を選曲した。

 ゴンドラの辿る複雑にいりくんだ水路の道のひとつひとつが、ルキウスがここで過ごした七年間の通勤路であり生活用路だった。

 次第に遠ざかってゆく講義塔、そして研究塔、寮塔――。

 この地はもともと神文発掘場として建設された。神々のむくろ山脈から採取される〈神知石〉と呼ばれる黄金色の石には、神代から残された神々の知恵が刻まれている。〈神知石〉は砕けると水のようにさらさらと流れる流体となり、山脈のあちらこちらで川や湖を生んでいる。山脈には黄金色に光る水がたえまなく噴きあがる〈光脈〉がいくつも存在していた。大規模な土木工事によって山から光脈を引き、光脈に含まれる大小の〈神知石〉を濾し取って採取する場として水路は造られた。

 〈神知石〉に刻まれた神々の知恵は神々の言葉で書かれているため、解読には学者の頭脳が必要だ。古くは各国の宮廷に抱えられた学者たちが王のために解読と研究を行なっていたが、いつしか学者たちは水路の上に棟をたて、独立した集団を形成し、世界に比類のない学問の塔をうちたてた。

 それが〈知恵の水路の塔〉。

 神々の言葉は複雑怪奇にして多元的な大系をもっていて、いまを生きる人間たちにとってはほとんど暗号のようなものだ。

 〈水路塔〉は神々の言語の解読に血道をあげる歴史のなかで言語学と数理学を発達させ、さらに、解読した神々の知恵を研究する学問として物理学、科学、医学、詩学、音楽学、天文学と広がっていった。水路がのびるたびにあたらしい塔が立ち、塔が増えるたびに水路がめぐらされ、神々の言葉の複雑怪奇さに似た迷路のような街ができあがった。陸にかこまれた水路の街だ。

 黄金色に輝く水路の街を、ルキウスは去ろうとしている。 

 急報のあとに遅れて届いた正式な手紙には、クラウディウス家の私的な事情よりももっと深刻な緊急事態の勃発が記されていた。

 ルキウスが呼びもどされる理由は、その国難のほうにこそあったのだ。


『クラウディウス公爵家の使命は神国ディウィフィリウスと神王家に身命を賭してお仕えすることにある。御国がこのような危機に陥っているからには、クラウディウス公爵家の跡取りたるお前の全力を神王家に捧げなければならん。このさいルキウスよ、お前の命などにかまっていられないのだ。愛する息子よ、この父の悲壮な決意を汲んでくれ……愛国心と家族愛にひきさかれて、先の大戦で負った膝の矢傷から血涙を流す老父の想いをな……』


 その手紙は怒りのあまり、すぐ暖炉に投げ捨ててしまった。

「膝の痛みは低気圧のせいだ胸を痛めろ……!」

 思い出して唸ったルキウスに、また口笛をとめて船頭が声をかける。

「でもお家のごたごたが片付きなすったら、またちょっとくらいは戻ってらっしゃれるでしょう?」

「いや、戻ってはこられない。俺の命はおそらくあと一ヶ月もたない。持病で死んでしまうと思う」

「ええっ! 先生、そんなおんもい持病がおありなんで?」

 名残惜しく逆光の塔の輪郭を眺めながら、ルキウスは深いあきらめから発する微笑みとともに告白した。

「重くて深刻な病だ。これはけして冗談などではないんだ。俺は馬鹿と一緒にいると心臓にパニックが起きて死ぬ。重度のバカ恐怖症なのだ」

 ルキウス・クラウディウスは、現代医学では手の施しようのない重篤な馬鹿アレルギーである。


 そして彼がこれから帰るところ……神国ディウィフィリウスの懐かしからぬ王都には、彼の天敵が待っている。

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