14−2

 北の境界。現在は北部戦線と呼ばれる場所にやってきたアマーリエが一番驚いたのは、少し移動するだけで、こんなにも雪が深くなるのかということだった。

 王宮のあるシャドでは、晴天が続くと雪が緩むけれど、ここではそれは固く凍り、溶けることがなさそうに思えた。空は暗く、風が強くて頻繁に雪が降っては止むことを繰り返している。しんしんと雪の降るかすかな音が聞こえてきて、音を吸収するのはこういうことかと思った。

 そしていま、アマーリエは暖かい天幕に満ちた静けさの中で、一人ひそかに焦りながら、すぐそこで向かい合っている兄妹の様子を窺っていた。

 護衛を引き連れて北にやってきたアマーリエとキヨツグを迎えたのは、指揮官であるリオンだった。彼女は満面の笑みを浮かべてアマーリエたちを天幕に案内し、彼女の部下が飲み物を出した後は、それを飲むばかりで何も言わない。

(リオン殿……やっぱり怒ってる、よね……?)

 停戦中とはいえ、族長夫妻が戦線にやってくるなど、と思っているのだろう。軽率なことをしている自覚はあるから、アマーリエは何も言うことができない。

(キヨツグ様は……)

 何故かキヨツグまでも口を開かず、数分が経過してしまったけれど、なんとも思っていない顔をしている、ように見える。

 アマーリエがはらはらしているのは、この兄妹に距離があることを知っているからだ。リオンがキヨツグを気に食わないと思っていることは本人から聞いていたし、キヨツグは血の繋がらない妹に興味を抱いていない様子が感じられた。リオンの一時帰還について意見を述べることもなく、各所からの報告のように、ただ、そうか、と言っただけだった。だからアマーリエも、彼がリオンをどう思っているのかは聞けずにいた。

 どちらも恨みは持っていないだろうけれど、義理の兄妹で、血筋を重んじる風潮といった複雑な事情が気軽さを許さないのだ。でも出来れば険悪でいてほしくない。せっかくの兄妹なのだから。

 ついに茶が飲み干され、数秒経った。

 そうして最初に口を開いたのは、リオンだった。

「しばらく。兄上」

 短い挨拶に、キヨツグは鷹揚に頷いた。

「お前も壮健で何より」

 なんということはない、しかし緊張感に満ちた挨拶が終わって、アマーリエもようやく息をつくことができた。その様子に気付いたリオンが笑いかけてくる。

「あなたも元気そうで何よりだ、アマーリエ」

「はい。ご無沙汰しています、リオン殿」

 キヨツグに対するよりも言葉や表情が柔らかい気がするのは、こちらに気を使ってくれているのか、それともあからさまに差別しているのか、勘ぐってしまってどきどきする。

 しかし、久しぶりに顔を合わせたリオンは、以前とはまた異なった凛々しさと雄々しさを備えているように見えた。気温のせいか肌は透き通るように白く、同時に、ほのかな陰があり、やつれているように感じる。しかしその瞳は油断なく鋭く、彼女が身につける装備のように鈍い光を放っている。出発前にアマーリエが着せられた新品の防具など、空々しい舞台衣装か飾りのように思えるくらいだ。

「さて、一服したことですし、早速ですが現場を確認していただきましょう。案内します。こちらへどうぞ」

 馬を引け、とリオンが告げて、汗を拭いて水を与えられた馬たちが連れられてくる。それに再び騎乗し、アマーリエは小隊に守られて、北の境界を目指した。

 リリスの地から西にある、南北に伸びる謎の巨大な壁が境界だが、北部には明確なそれがないと聞いていた。

「あの岩の辺りが境界ですよ」

 そうリオンに教えられなければ、うっかりモルグ族の領地に足を踏み入れてしまいそうな一面の雪原だった。目印らしい目印がなくとも、彼女にはその境界の線がはっきり見えているらしく、うっかり近付けば攻撃されても仕方がないと笑った。

 境界であったものの名残である巨岩がちらほら見える風景は、どこか絵画のような、不思議な幻想感と静けさがある。

 しかしその静寂を歪にするのは、彼方の空に伸びる黒煙の存在だった。

 森の中から、何かを燃やしているような煙が上がっている。これが、リオンが早馬で知らせた『異変』だ。

 煙は、否応なしに胸を騒がせた。火事や何らかの災害を予期させるからだ。それも黒煙となれば、敵対している種族のことであっても警戒してしまうだろう。

「そろそろ一ヶ月になります。森を焼いているわけでも、焼き畑をしようというのでもない。だが、毎日何かを燃している様子です」

「確認は」

「斥候を放ちましたが、収穫はなく」

 そこでリオンはちらりとアマーリエを見て、こちらが聞き耳を立てていることを知って苦笑を漏らすと、何かを決意したように続きを口にした。

「モルグ族の領地には不可思議な術がかかっている。呪術師の言う、結界です。結界の張られた場所に足を踏み入れると、その者は気が触れ、数日間幻覚や幻聴に見舞われて使い物にならなくなります」

 アマーリエはびくりとして青ざめ、森を見やったが、その後すぐに見たキヨツグの顔には驚きも何も浮かんではいなかった。彼はすでに、モルグ族がそうした異能を用いることを知っていて、リオンはアマーリエに説明するつもりでわざわざそれを口にしたのだろう。斥候を出して収穫がなかったということは、その斥候はいま正気でなくなってしまっているのだ。

「それ以外に動きはあるか?」

「いいえ。それが一層不気味だと評判です。恐怖を抱かせるのが目的であるならば大成功と言えるでしょう。……どのような手段を用いれば、精神に作用することができるのか」

 士気が下がっているとリオンは言う。面倒なことを、と言わんばかりだが、強い眼差しで煙を見つめている彼女は、内心では危機感を覚えているようだった。万が一攻め込まれたときのことを考えているのだろう。

 同じことをキヨツグも考えたらしい。直接的に尋ねた。

「合図という可能性はあるか? 狼煙で、遠方の仲間に何事かを知らせているとすれば」

「あの煙に、暗号らしき規則性は見出せませんでした。長期間、毎日煙を上げて誰に何を知らせるのか、見当がつきません。周辺の氏族たちに、不審なものや気になるものを見なかったのか、聞き取りを行わせましたが、それらしい報告は上がっていません」

 そう答えて、リオンは黙った。打つべき手はすべて打った、お手上げだ、と言いたげな獰猛な微笑みで、キヨツグが口を開くのを待っている。

 キヨツグは周囲に視線を巡らせ、リオンの部下たちに意見を求めた。だが彼らもまた、見当もつかないと首を振るばかりだった。アマーリエもまた、何か気付いたことはないかと問われたが、まったく思いつかない。

「……オウギ、どう思う?」

 はっとして振り返ると、雪に溶けるような白と相反する黒をまとった護衛官が立っていた。まったく気配を感じさせなかったため、武士たちは気色ばんだが、リオンが手を挙げて落ち着かせようとする。

(いつの間に、というか、同行していたのにまったく気付かなかった……)

 注目を集めたオウギは、人形めいた無表情で首を振った。

「不用意なことは言えん。だが、情報がないということは、煙の理由は、彼らの領地で完結している事柄である、と推測する」

「ならば、モルグ族に直接働きかけるか」

 キヨツグは呟き、リオンに告げた。

「しばらくこの地で様子を見る。必要ならば使者を立て、話し合いの場を設けたい」

「あの者たちは誰の命令も聞きません。応じるとは思えませんが、ご命令ならば」

 リオンが応えて、物見はそれで終わりとなった。馬を反転させて、野営地に戻るべく準備を始めながら、アマーリエはなんとなく、もう一度煙を見つめた。

 何かを燃やしているとして、あれだけはっきりとした煙が上がるなら、ただ単に暖をとっているなどという理由ではないだろう。ここは北の戦場、モルグ族も自らの居場所を知らせるようなことは絶対に避けるはずだ。だとすれば、何かを燃やさなければならない理由があったと考えられる。彼らがそうしなければ生きていけない理由が。

 アマーリエは眉を寄せた。何かが引っかかった。

(『そうしなければ生きていけない』……?)

「真様」

 その瞬間、ユメに呼びかけられて、アマーリエはそれを掴み損ねてしまった。

「ごめんなさい、考え事をしていて」

「お気を付けください。いかに静穏であろうと、ここは境界でございますゆえ」

 出発の号令がかかり、注意を促してくれたユメに謝罪する。周辺の様子を見たい、とキヨツグが言ったので、帰路は緩やかに、かつ遠回りとなった。

 キヨツグとリオンは歩かせながら意見を交わしている。声をはっきりと聞き取ってしまったのは、その話題が自らに関わる事柄だったからに違いない。

「解せぬのは、何故ヒト族がこれを好機と見なしてモルグ族を急襲しないのかということで……」

「真夫人」

 ぼそりと、けれど二人の耳に届くようにオウギが呼び、二人は言葉を止めた。

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