13−6
待合室の椅子に腰掛けたキヨツグは、なんとはなしにその場所を眺めた。アマーリエから義母は医院を経営していると聞いていたが、壁や床などの材質は違えど、リリスの医療施設にも共通した雰囲気が感じ取れる。
奥に消えたアンナは、しばらくして湯気の立つコーヒーを持って戻ってきた。花模様の磁器を低い机に置き、どうぞ、と言われたので、礼儀として一度口をつけた。
「アマーリエが元気そうで本当によかったわ。……なんて言う資格、私にはないんだけれどね」
ひとりごちたと思ったら、彼女は懐から箱を取り出した。
「煙草、吸わせていただいていいかしら?」
「どうぞ」
小さなその箱から細い巻物を取り出すと、口にくわえ、小型の火打ちで火をつけた。そのようなもので火を起こせるのかと、いつも感心してしまう。
アンナは煙を細く、長く吐き出した。
「……結婚して仕事を辞めて、アマーリエを産んで育てたけれど、私は、本当はまだ仕事をしていたかったの。その姿勢が原因で夫と不仲になって、あの子が六歳のときに離婚したのよ。そうしてそのまま仕事を再開して、この病院を持ったのよ。あの子が大人になるまで待てなかった。手を離すまでの時間を、奪われることが嫌だと思ってしまったのよ。あの子は賢くて手がかからなかったけれど、私は、私の思う通りに生きたいと思ってしまった」
それは母親として評価するなら傲慢なのかもしれない。彼女自身もそれを知っていて、皮肉げに唇を歪めた。
「リリスにはない価値観かしら?」
キヨツグは反応しなかった。彼女を糾弾したいわけではなかったし、慰撫するつもりもなかった。アマーリエに対して非情でなければそれでいいからだ。
益体もない話をした自覚があるらしいアンナは、気に留めていない様子で話題を変えた。
「そちらでは女性はどういう仕事をするの?」
「農業畜産、紡績や縫製業、鉄鋼業、幼少の頃から商家に奉公に出る者や、徒弟となっていずれ商人や職人になる者。医師や医師、兵役につく者も、政治に関わる者もいますが、都市部には住まわず遊牧の民として生活を営む者もいます」
「なんだかファンタジーの世界みたいね」
でもそこにあるのよね、とアンナは遠いところに思いを馳せた様子で呟いている。
この女性は、自分の見たもの聞いたものでしか自身の世界を構成できないのだろう。世界が狭いという意味ではなく、情報の取捨選択を行い、思い込みや妄想で価値観を固めないという、堅実に現代社会を生きていくための知恵と強さを備えている。
その娘であるアマーリエには、そのしたたかさがない。少しずつ改善されてはいるが、いつもどこか、自分より周囲を重んじるべきだと思い込んでいる節がある。
たとえば、自身か世界かどちらかを選べと言われたら。
父親から、市長から、都市から。命じられたもののために政略結婚を選んだアマーリエならどれを選ぶか――容易に想像がつく。
「お尋ねしたいのですが、義母上」
「あら。はい、なんでしょう?」
「エリカ……アマーリエが、都市に対して恐れを抱く理由に、心当たりはありますか」
くすぐったそうに笑うアンナは、キヨツグの問いにすっと表情を消した。黙り込んだまま懐から取り出した袋の中で煙草を揉み消している。
「今日こうして都市にいるのは、私に指示によるところが大きいのです。ここに一人で来ることを恐れていた様子でした。この都市のものに怯えている素振りは以前からあったのですか」
アマーリエがかすかに見せる、怯え、疑惑、不信。故郷に抱くには少しばかり暗いその感情の理由を、キヨツグは未だ聞き出せないでいた。それを追求するには、アマーリエはまだその恐怖の対象から逃れきっていない、という推測のせいもあったが、状況が変わるにつれて少しずつ見えてきたものから、もしや、と思うこともあった。
感情を隠すように目を伏せていたアンナだったが、やがて、逃れられないと悟ったのだろう、重たげに口を開いた。
「……あの子をずっと近くで見ていたわけではないから、こうであると断言はできないわ。私と元夫のことは、何かしらの悪影響をもたらしただろうとは思ってきたけれど。……でも、そうね、あなたには打ち明けてもいいかもしれない」
きゅっと目元に力を込めてこちらを見つめる表情は、どこか縋るようだった。
「もしアマーリエが怯えるとしたら、その相手は私の元夫。あの子の父親が、あの子を見ていないということよ」
やはり、と思った。
ジョージ・フィル・コレット市長。穏やかな物腰と甘い声の持ち主で、政治家らしい知性と覇気の持ち主だという印象があったが、彼の動きには不審な点が多い。
だがそう感じていることは表に出さず、静かに告げる。
「コレット市長は敏腕な方に見えました」
「だからっていい父親とは限らない。私がいい母親ではなかったように」
アンナはそう言い切って、再び煙草を取り出して火をつけた。
考え込む仕草として煙を吸い込み、吐き出している。押し隠されているのは苛立ちや焦燥だろう。つまり彼女は、元夫と娘の間にある歪みに気付きながら、手を打てずにいるのだ。
(……そう、長らく不思議だった。何故市長は、一人娘を異種族との政略結婚に差し出せたのか)
都市側は何らかの企みを持っているかもしれない、とは思っていた。何故なら、アマーリエが都市からリリスに移動する際に一度襲撃に遭っているからだ。
キヨツグはしばらくの間、それは都市側がモルグ族の仕業に見せかけたものではないかと疑っていた。その後それらしい動きが見られなかったため、思い違いかもしれないと疑惑のまま保留にしたのだ。
だが、ここに来て更にコレット市長個人の思惑が絡んでいる可能性が出てきた。もしそうだとしたら、一人娘を差し出してもいい、と思えるものが彼にはあるのか。
「……関係はないかもしれないけれど」
アンナはそう口火を切った。
「ジョージにはお姉様がいたの。その人は十九歳のときに一度失踪して、一年間行方不明だった。彼らの実家はいわゆる名家なんだけれど、噂じゃ、どこかの男と逃げたんだとか。結婚を反対された末のことだったんですって。美しく、賢く、心優しく、何をやらせても完璧な女性だったから、コレット家のとんでもない醜聞として広まったらしいわ」
それはさぞ家人の怒りを買ったことだろう。だがそれを置いてなお、人生をかけていい恋だったのかもしれない。
だが、残念なことに、アンナの語るその結末は幸せなものではなかった。
「見つかったお姉様は実家に連れ戻されて家に閉じ込められて、その数ヶ月後、自室のベランダから身を投げた」
アンナは瞑目した。
「――お腹に父親のわからない子どもを宿したまま」
穏当ならぬ話を聞いたキヨツグは、束の間目を伏せて、その女性と子どもの死を悼む。
そのとき、その顔も知らぬ女性とアマーリエの姿が重なったように思えた。
「……エリカは、その身代わりですか」
「どう、かしらね。私は、元夫が執拗に亡くなった姉のことを語ることに常々疑問に感じていたこともあって別れることになったから、被害妄想もあるだろうし、思い込みかもしれない。けれど」
どこか投げやりに、しかし怒りを込めて彼女は言う。
「彼は言うのよ。自分の娘に、亡くなった姉に似ている、似てきたって。幼い頃からそうやって、まるでその形に当てはめようとするみたいに。それを呪いと言わずに何と言うの」
そうやって育てられた娘はどうなるだろう、と考える。
心優しい子どもならば、きっと期待に応えようとするだろう。父親の思惑から逸脱しない、彼の望む娘になろうとするはずだ。
これまでのアマーリエはそうだった。だが、いまは違う。父の命令で嫁ぎはしたが、その結婚によって彼女は父親の所有物ではなくなったのだ。
(……怯えの理由はそれか。父が理想とする己ではなくなったと自覚していて、それを糾弾されることを恐れている)
アマーリエの理由はわかった。未だ明らかでないのはコレット市長の考えだ。
呪いによって縛り付けていた娘が他人のものになったとき、父親は何を思い、どのような行動に出るだろう。どう考えてもコレット市長の動きは矛盾している。
それほど執着する娘を手放したのは何故だ?
内的な問題なのか、それとも外圧か。市長という立場を思えば、他都市の市長の手前、娘を差し出すしかなかったという状況が考えられる。だがそうであった場合、彼が手を打たないはずがない。
(……何か仕掛けてくるか?)
この一年、何事もなかった。だが準備期間だったとすれば、じきに何かが起きる。
「政治家って似た顔をするものね」
アンナの呟きにキヨツグは顔を上げた。彼女は苦笑している。
「さっきのあなた、元夫と同じ表情をしていたわ」
非情が垣間見えたのだろう。それを悟らせるほど表情を動かしたつもりはないから、この女性がそういったことに聡いのだと思われた。
顔に浮かぶ呆れと哀れみとからかいをすぐさま拭い取って、アンナは静かに煙草を揉み消し、吸い殻を小袋に入れる。どこか疲れたような様子は、過去を思い出しているからだろうか。
「あなたは、コレット市長を恨んでいるのですか?」
アンナは弾かれたように顔を上げ、くすっと笑った。
「いいえ。私たちは現代にありがちに、お互いのためを思って離婚して、自分の人生を生きる選択をしただけよ。アマーリエには、恨まれても仕方がないと思っているけれど」
二階を見上げて、アンナは目を細める。
「アマーリエは裕福な父親に引き取られて、自立した娘に成長した。でも、多くの人が与えられるような、存分な愛情を受けたとは言い難い。どんなに贅沢な生活をしていても、満たされないものはあるわ。あの子は多分、私たちのために、それを見て見ぬ振りをしているのよ」
キヨツグにも心当たりがある。そして、それを自覚させ、癒すのが自らの役目だと思っていた。
「ねえ。こんなことを聞くのは失礼かもしれないけれど、いいかしら?」
「何でしょう」
「あなたはあの子を愛してくれている?」
一度瞬きをする。
まるで先ほどの話などなかったかのように、今度のアンナは母親の顔をして微笑んでいた。彼女はずっと、別の話をしながら、キヨツグが娘の伴侶たりうるか推し量っていたのだとそれで知れた。
「ご存知のように思えます」
「あなたの口から聞きたいの」
「愛しています」
常に抱いている思いであっても、言葉にすればなんと軽々しいのだろうと思う。言葉ではとても足りない。この、生きることを祝福されているような幸福は。
「彼女を愛しています。彼女は私だけの、唯一の
キヨツグがそれを告げたとき、アンナは何故か大きく目を見開いて息を飲んでいた。何か響くものがあったのか、感情を隠すように目を細めて泣き笑いのような表情をする。
「……あなたがあの子をエリカと呼ぶのは何故?」
「少しでもリリスに慣れて欲しかったからです。エリカという音はリリスにも馴染みのあるものですから」
アマーリエという都市風の名を呼ぶ度に、リリスという国で自らが異分子であることを思い知らされるようなら、いっそ異なる名で呼ぼうと思ったのだ。そうすれば、周囲の者は、彼女がリリスの一員となるつもりでここにいるように感じられる。アマーリエのもう一つの名に、リリスの音に共鳴するものがあったのは幸いだった。
それに、とキヨツグは思う。
(……族長の妻は等しく真と呼ばれる。ならば、伴侶だけが呼べる名があっても良いではないか)
来るべくして来たのならば、出会うべくして出会ったのならば、慈しもうと思っていた。彼女という花が永遠に咲き続けられるように。エリカ。
大きく吸い込んだ息を吐いて、アンナはキヨツグを見つめた。その瞳にあるのは、キヨツグには心当たりのない感謝の色だった。
「……アマーリエは元夫がつけた名だけれど、エリカという名は私がつけたの。どんな荒地にも咲く力強い花で、色褪せた世界を彩る美しいもの、という意味の古い言葉の由来になった説があると、何かの本で読んだわ」
この小大陸で、その花は古くから根付いていた種であった、とキヨツグも聞いたことがある。古い種であるならヒト族の書物に記されていてもおかしくはない。
リリスではいまもなお春に咲くありふれた花であっても、アンナにとっては特別なものであったようだ。
「私は決していい母親ではないわ。でも、娘に贈った名前をあなたが大事にしてくれて、とても嬉しい。――本当にありがとうございます。これからも娘をよろしくお願いいたします」
深く頭を下げられる。
キヨツグは立ち上がり、こちらこそ、と言った。
「彼女と出会い、共に歩む幸いを得ました。彼女が幸福で安らかな日々を送れるよう、これからも努めます」
そう言いながら、この女性は何もかもを諦めた態度でいながらも、心の中ではずっと娘を思い続けていた愛情深い母親なのだな、と考えていた。己に出来ることと出来ないことの区別がつくからこそ、冷たい態度を取らざるを得ない、だが何度も歯がゆい思いを抱いたことがあるのだろう。
アマーリエはそんな母親の弱い部分を知っているのだろうか。話してやりたい、と思う。
上階で扉が開く音を聞いて、二人でそちらに目をやるとアンナは「最後に一つだけ」と言った。
「子どもの名前は考えているのかしら?」
キヨツグは答えた。
「どちらの音をつけてもいいと思っています」
具体的な話は出来ていないが、どの音をつけようともそれは可愛い我が子だ。その子にふさわしい、祈りと願いを込めた名であればいい。
悪戯っぽく笑っていた義母は答えを聞いて、自らの子を名付けるかのような幸せな笑みを見せた。
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