67:お姉さんを離さないって約束するからね

 それにしたってお姉さん、今回はこじらせ方がアクロバティック極まりない。

 恋人に横恋慕してきた相手に対して、自ら塩を送るような真似をしたくせに。

 まさか、それをあとから盛大に悔やんで、一人で身悶みもだえているなんてね……。


「あのねぇ美織さん。今更後悔するぐらいなら、僕と晴香ちゃんにデートしろだなんて、なんでわざわざ喫茶店で提案したりしたの?」


「そっ、それはあのときも言った通りだよ。晴香さんには、裕介くんを好きになったことに未練を残してもらいたくなかったんだもん」


 改めて問いただすと、美織さんは居心地悪そうに身動みじろぎした。


「晴香さんが失恋したことについては、本当に同情心めいたものはないの。たぶん晴香さんも、私には同情されたくないはずだと思う」


 喫茶店でのやり取りでも、たしかにお姉さんはそうした持論を唱えていた。

 正直言うと「片想いを清算するために思い出作りする」という着想については、妥当性がある試みかどうかわからない。

 でも晴香ちゃんが僕とのデートで決まりを付けて、初恋をきっぱりあきらめられるのなら。

 これ以上は横恋慕されずに済むわけで、かえって美織さんも安心できるはずだろうね。


 ただし晴香ちゃんにとって、失恋相手の恋人からの提案が同情心から出たものだとするなら、自分があわれみを掛けられているように感じられるかもしれない。

 それで、初恋を断念させるための提案である以上、お姉さんは「同情じゃない」という部分に確認を求められた際にも、はっきり首肯してみせたんだろうな。



「――でもね。これはあのとき、晴香さんの前では故意に言わなかったことなんだけど」


 美織さんは、深い溜め息をくと、物憂ものうげな表情を浮かべる。


「彼女が『青春をこじらせた』と感じていることには、ちょっぴり同情しちゃったんだ」


 それを聞いて、また僕は面談した際のやり取りを振り返った。


 ――もしかしたら初恋にこだわりすぎて、青春をこじらせちゃったのかもしれません。


 そう言えば、あの発言に続くやり取りの中で――

 晴香ちゃんに向かって、お姉さんは「初恋を後悔しているか」と問い掛けたんだよね。

 それから「後悔していない」という返事を聞いたあと、デートの件を持ち出したんだ。

 美織さんが思い出作りの必要性を説きはじめたのは、あれ以後のことだった。


 優しいお姉さんも、恋人に横恋慕してきた相手に同情するほどには、お人好しじゃない。

 でも、このままだと青春をこじらせかねない女の子に対しては、心が動いたってことか。

 何しろ美織さん自身も、失われた青春に痛痒つうようを抱き続けているのだろうから。



 うーん。デートを勧めるにあたって、いかなるお姉さんの思惑が働いたかは把握できたけど。

 しかし晴香ちゃんの気持ちに寄り添うにしろ、他にも穏当な手段はあったんじゃないかなあ。


「だからって、どうして唐突に僕と晴香ちゃんをデートさせよう、って発想になったの」


「……だって思い出作りの方法を考えてみたら、裕介くんの言葉を思い出したんだもん」


 殊更に追及してみたところ、まるっきり予期していない答えが返ってきた。


「僕の言葉? なんか以前に言ったっけ」


「言ったよ、私を初デートに誘ったとき」


 ぽかんとして問い重ねたら、美織さんは不平そうに少し口をとがらせた。

 でもって僕が過去に告げた言葉を、朗々とした調子でそらんじてみせる。


「――『このデートで思い出作りするのを、美織さんも一緒に手伝ってください』って」


 ……そういやたしかに言ったかもしれないなあ、そんなこと……。

 初デートの承諾を得た日のことを思い返し、ちょっと言葉に詰まってしまう。

 お姉さんは、僕の顔を半眼で覗き込みつつ、人差し指を立てて左右に振った。


「だから思い出作りするのなら、真っ先にデートすることだって考えたの。わかった?」


 えー、ということはひょっとして。

 美織さんが「思い出作り」と「デート」を結び付けて考えてしまったのは、僕のせいなの? 

 それじゃ、皐月さんが僕に勧めたのと同じようにして、美織さんも晴香ちゃんにデートを提案したってわけですか。なんてまた因果な巡り合わせなんだ。



「とにかく、そういうわけだから――」


 美織さんは、わざとらしく咳払いして、きりっとした顔付きになった。


「晴香さんに浮気しちゃ嫌だからね? 肉体関係までしか許さないから」


「いやだから、美織さん以外の女性と特別な関係になったりしないって」


「それじゃあ思い出作りはしても子作りはしないって、ちゃんと約束してくれる?」


「約束以前の問題なんだけど!? なんか上手いこと言ったつもりなのそれは!?」


「はあぁ……。お金を払えば裕介くんを諦めてくれるのなら、相応の額を用意するのに……」


「手切れ金で恋愛関係を解消させようとする人、サスペンスドラマ以外で初めて見たよ……」


 お姉さんの不穏な発言には、毎度のことながら呆れてしまう。

 いちいちツッコミを入れ続けるのも、少し疲れてきちゃったよ。

 どこまで冗談なのか、たまにわからないのが困るんだよねこれ……。



 などと眉根を寄せつつ、益体やくたいもない会話を交わしていたんだけれど。

 にわかにソファの上で、美織さんがこちら側へすすっと身体を寄せてきた。

 次いで僕の頬に手で触れると、自分の方へ振り向かせ、口唇を重ねてくる。

 そのまま、ちゅっ、ちゅっ……と、音を立てつつ、何度もキスを交わした。


「ねぇ裕介くん。本当に晴香さんに浮気しちゃ嫌なんだからね」


 美織さんは、おもむろに顔を離すと、耳元でちいさく囁いた。

 か細い指先が、頬や下顎したあごで、さらに喉元や首回りをまさぐる。

 シャツのボタンを外してしまうと、あらわになった胸板に頬擦りした。

 白い手のひらは、腰回りのベルトを解いて、愛おしげに腹部をさする。


「裕介くんにこんなことしていいのは、私だけなんだから……」


「絶対しないよ浮気なんて。僕が好きなのは、美織さんだけさ」


 僕は、お姉さんの栗色の髪を撫でつつ、ほんの少しかすれた声で返事した。

 それから、恋人の身体を優しくソファへ押し倒し、その上におおかぶさる。


 美織さんは、甘えるような目つきで、こちらを見詰めてきた。

 やがて自らも着衣をはだけると、率先して僕を導こうとする。

 あとはうながされるまま、ひとつに交わり溶け合った。




     〇  〇  〇




 その夜のお姉さんは、いつにも増して僕を熱心に求めてきた。

 リビングで強請ねだって、汚れを洗うために入浴しても欲しがり……

 寝室へ場を移してからは、どれだけ愛しても離してくれなかった。

 次の日は気怠けだるくて、ベッドを抜け出すのが昼頃になってしまった。


 まあ一昨日の夜更けには、僕も美織さんが欲しくて堪らなかったし、これでお相子あいこかな。

 あのときは晴香ちゃんの告白を断ったあとで、自分の気持ちを確認したくてならなかった。

 美織さんも、僕が他の子とデートすることになって、愛し合わなきゃ心細かったんだろう。

 僕もお姉さんも、互いの心を試される都度、いっそう相手を求めてしまうものらしい。


「ねぇ裕介くん。晴香さんとのデートが済んだら――」


 美織さんは、ダイニングカウンターに腰掛け、朝昼兼用の食事をりながら言った。


「また私とも、デートに出掛けるの。いいでしょう?」


「うん、もちろんさ。どこへでも二人だけで、きっと」


 隣の席でコーヒーカップの縁に口を付けながら、僕は笑って請け合った。

 頼まれなくても、ちゃんと今回の件に関する埋め合わせはするつもりだ。

 まあ元をたどれば、晴香ちゃんから好かれてしまったのは僕の意思じゃないんだし、負い目を感じる必要もないんだろうけどね。

 でも、いちいち子供みたいに催促さいそくするお姉さんは、可愛らしいと思う。

 自分が年上の女性から必要とされている、ということも単純に嬉しい。


 もっとも美織さんの場合は、ちょっと極端な部分もあるんだけど。

 初恋がアラサーだけあって、色々とこじらせちゃってるからなあ。


「お願いだから私のことを、絶対に離さないでね」


 美織さんは、やや上目遣いにこちらを覗き込んで言った。


「君のことは、ずっと私が扶養するんだから……」


 ……取り分け象徴的なのは、こういうところだよねうん。



 個人的には、恋人や夫婦の形態に多様性があるのは悪いことじゃないと思う。

 男性が家事に専念し、女性だけが収入を得て生活するカップルがあってもいいはずだ。

 とはいえ、それを世間の多数派がどう見て、どう考えるかは、コントロールできない。


 どうしても社会の偏見というのは根強いし、また少なからず理不尽でもある。

 何だかんだと、未就労の男性が家政のみに従事している状況に対しては、否定的な印象を抱く人々が存在するんじゃないだろうか。

 自分で自分の生き方を肯定できることと、第三者がそれを受け入れることは別問題だ。


 否定的な価値観の人から見れば、僕がこんなことを主張しても、単なるポジショントークだと感じるだろうし、身勝手な自己正当化にすぎないと嘲笑されるかもしれない。



 今の僕に言えるのは、差し当たり「美織さんと晴香ちゃんの面談で『扶養』の話が出たとき、やっぱり何とか誤魔化せてよかったんだろうなあ」ということぐらいだった。




     〇  〇  〇




 その日も夕方からは、アルバイトのシフトが入っていた。

 所定の時刻通りにスーパー「河丸」へ出勤し、売り場の品出し作業に取り掛かる。

 そうして休憩時間を挟んだあと、袋詰めのスナック菓子を棚に並べていると――

 不意にどこからか、聞き覚えのある声音が聞こえてきた。


「ちょっとォ、そこのバイトパイセン」


 びっくりして、反射的に周囲をあちこち見回す。

 ほどなく、売り場の端にある支柱の物陰から、こちらをめ付ける視線に気付いた。

 現在は平台が撤去されているものの、以前に特売コーナーを設置した場所の近くだ。

 そこに立っていたのは、高校生ぐらいの女の子だった。ちょっと目つきがキツいけど、面立ちはなかなか可愛らしい。髪の毛も、多少のくせはあるが、黒くて長く、綺麗で目を引く……

 と、三秒余り観察した末、僕は変な声を発してしまった。


「もしかして君、南野さんか……!?」


 再度びっくり。いやもはや驚愕きょうがくと言った方がいいだろう。

 僕は、不躾ぶしつけとは思いつつも、南野さんの容姿を二度見せずには居られなかった。

 だって先日までは、誰がどう見たってギャル以外のなにものでもなかったはず。

 にもかかわらず、目の前に居る女の子はあまりにも印象が違った。別人すぎる。


 顔にメイクはほどこされているものの、以前のように派手な雰囲気じゃない。

 髪色が黒くなったのに合わせて、所謂いわゆる「キレイめ」系の化粧に変えたみたいだ。

 やたらと大きかった瞳も、今は本来の形状に近いらしく、不自然さを感じない。

 ちょっとツリ目気味だけど、こういう目元が好きな男性はわりと居るだろうな。


「ねェパイセン、何こっちジロジロ見てんの? キモいんだけどォ」


 呆気に取られていたら、南野さんが眉をひそめて嫌悪感を表した。

 どうやらうっかり注視しすぎて、不快にさせてしまったようだ。


「い、いやごめん。前に会ったときと、随分ずいぶん雰囲気が違ってるから」


「何それ。髪色変えたのが似合わないからって、バカにしてんの?」


 素直に詫びたつもりなんだけど、南野さんは悪意があると受け取ったらしい。

 僕は、慌てて誤解を否定しつつ、具体的な説明を付け足さざるを得なかった。


「そうじゃないって。急に可愛くなったから、びっくりしたんだよ」


「……は? いきなり何言ってんの。パイセン、マジでキモい……」


 微妙な間を挟んでから、南野さんはますます不愉快そうに言った。

 汚物を視界に入れまいとする如く、まなじりの上がった目を横へ逸らす。

 かすかに顔が赤くなっていたけれど、怒らせてしまっただろうか。



 僕は、手元の台車を探って、売り物の菓子類を取り出した。

 商品棚に向き直ると、陳列場所を確認しながら並べていく。


「いったい今日は、うちの店にどうして来たの」


 品出し業務を続行しつつ、支柱の物陰に隠れる女子高生へ声を掛けた。


「相変わらず松田さんに会いたかったからかい」


「それもあるけどォ。面接だったし、バイトの」


 商品を補充する際に振り返ると、南野さんは髪の毛先を指でいじっていた。

 まだ自分の黒くなった髪が馴染まず、若干違和感を覚えているみたいだ。


 でもそうか、スーパー「河丸」のアルバイトに応募するって言っていたもんなこの子。

 ようやく採用条件通りに髪色を黒く染めたから、事務所で面接にのぞんできたんだろう。

 好意を持った異性に接近するためとはいえ、そこまでする意思の強さは大したものだ。


「それで面接の手応えはどうだった? もう合否は出たの」


「いやわかんないし。採用か不採用かは後日連絡するって」


 試しに訊いてみると、南野さんは少し渋い表情を浮かべて答えた。


「なんか『仕事の割り当てが希望通りになるかはわからない。そこは承知しておいてくれ』――って、あの舟木とかいうオジサンに言われちゃったしさァ」


 うーん、なるほど……。

 まあアルバイト自体は採用になるだろうな。

 髪色も黒く戻したんだし、面接時によっぽど酷い態度でも取ってない限りは。

 晴香ちゃんから聞いた話に従えば、この平伊戸店は人手不足みたいだからね。


 ただベーカリーコーナーの業務を担当できるかは、けっこう怪しそうだ。

 スーパー側としては、レジ打ちや品出しの人員を増やしたいんだろうし。


 ところで舟木さん、ただのオジサンじゃなくて店長だからね? 

 一応この店で一番偉い人なんだけど、ちゃんとわかってる?? 



 などと、面接の話を聞きながら、内心あれこれ考えていたところ。

 にわかに南野さんは、また険のある口調に戻って問い掛けてきた。


「いやそれよりさァ、マジで何考えてんのパイセン」


「何考えてるって、いったい何のことについてさ?」


 話題を転じられたものの、質問が端折はしょられすぎて意味不明だった。

 要領を得ないので、仕方なく意思の疎通を図ろうとして訊き返す。


「そんなの決まってんでしょーがァ、ハルカのことじゃん!」


 南野さんは、いきり立った様子で言った。


「アンタとあの子で、近々デートするって正気なわけェ!?」

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