66:お姉さんはやっぱりこじらせてなくちゃ
お姉さんの話に耳を傾けながら、しかし僕は若干奇妙な印象を抱かざるを得なかった。
――なぜデートを勧めたりしてまで、晴香ちゃんの青春を肯定しようとするのだろう。
何しろ美織さんから見れば、晴香ちゃんは交際相手に横恋慕してきた女の子なのだ。
自らの心情を語って、僕の恋人としての立場を面談で得心させたところまではいい。
だが、この子が片想いしてきた二年間を、わざわざ「無駄じゃなかった」などと
ましてや美織さんは、元来かなり
何度も言うけれど、普段は僕がちょっと他の女の子と仲良くしただけでも
怒って不機嫌になったり、落ち込んでめそめそしたり、
果ては無駄に色気やお金をチラつかせてきたりするので、
にもかかわらず、どうして……?
幾分疑問を感じていると、お姉さんが付け足すように説明を続けた。
どうやら僕が意外そうにしている有様を、隣で見て取ったみたいだ。
「正直言えば不安なんです。――もし、このまま晴香さんが初恋を終わらせたとしたら」
美織さんは、提案を持ち掛けた動機を、端的に述べた。
「今後もずっと、裕介くんに対する未練を何かしら残してしまうんじゃないかな、って」
「……だから、片想いの清算であって、あたしに同情したからじゃないってことですか」
確認を求めるように訊いたのは、晴香ちゃんだった。
お姉さんは、何も言わずに微笑み、静かにうなずく。
「初恋に未練を残さないために必要な、片想いの清算」。
美織さんが要求しているのは、そのための思い出作りってことだろうね。
もし、このまま青春をこじらせて、過去を引き
晴香ちゃんは、ほとんど
結果として失恋後も尚、片想いの相手を忘れられず、面倒なことになるのではないか。
僕と晴香ちゃんにデートを勧めるのは、そうした懸念を事前に
「あたしと先輩にとって、最初で最後の思い出作り……」
晴香ちゃんは、いったん
それから薄墨色の瞳を再び開き、しんみりした面差しを覗かせた。
「初恋にさよならするための、『お別れデート』ですね」
まるで大昔のアイドルが歌っていた失恋ソングに出てきそうなフレーズだ、と僕は思った。
ただしデートを提案した人物は、片想いした相手の恋人。そんな歌詞があるかは知らない。
晴香ちゃんは、浅く呼気を吐くと、意を決したように居住まいを正す。
僕とお姉さんを等分に眺めながら、しっかりした口調で言葉を紡いだ。
「お話はわかりました、あたしからもお願いします――」
晴香ちゃんは、ゆっくりと頭を下げる。
「先輩と二人で、最後に一度だけデートさせてください」
〇 〇 〇
美織さんが提案し、晴香ちゃんが合意したなら、僕もそれに応じるのは
自分の恋人と、自分の失恋させてしまった後輩が、双方話し合いの上で望んだことだ。
かくも少なくない好意を寄せてくれる二人に乞われれば、そうそう薄情にはなれない。
こうして、最初で最後の「お別れデート」が計画されることになった。
僕と晴香ちゃんが場所や日時を相談し、美織さんがそれを傍で見守る――
明らかに「普通じゃない」状況だ。いや最初から奇妙な状況だったけれど。
きっと居合わせた三者は、三様に違和感を覚えていたんじゃないかと思う。
でもとにかく、デートについてのやり取りを続けた結果。
行き先は、星澄市郊外にある「ぎんの森レジャーランド」に決まった。
周辺地域じゃ定番の行楽スポットで、老若男女問わず人気の遊園地だ。
日取りは、八月三一日。高校生にとっては、夏期休暇の最終日に当たる。
バイトのシフトでは、次に僕と晴香ちゃんが二人共休みになる日だった。
僕と晴香ちゃんは、夕方シフトのバイトがあるので、これから平伊戸へ向かわねばならない。
そのため、美織さんは一人で雛番まで引き返すことにして、道端で手近なタクシーを拾った。
お姉さんとの別れ際、晴香ちゃんは「今日はお世話になりました」と神妙に頭を下げた。
美織さんは、軽く手を挙げながら微笑んで応じると、おもむろに後部座席へ乗り込んだ。
走り去るタクシーを見送ってから、僕と晴香ちゃんは地下鉄駅へ続く階段を下った。
星澄駅は、JRと地下鉄が構内で地下街を挟んで、一箇所に連結しているんだよね。
喫茶店での面談が済んでも尚、不思議な状況が続いているな、と僕は思った。
交際相手と別行動して、自分が失恋させた女の子と二人で一緒に居るなんて。
それに「お別れデート」とはまた、随分と妙なことになった。
何より、晴香ちゃんが提案を受け入れた事実に驚いてしまう。
失恋相手と今更遊びに出掛けることに対して、抵抗感みたいなものはないんだろうか。
楽しく一日デートしたあと、かえって辛くなってしまうような心配はしていないのか……
とも推量してみたけれど、それは根本的に思い違いだろうなと考え直した。
もし不安に感じていたら、今日もお姉さんと面会していなかったはずだし。
そんなことを考えながら、改札を潜った先で地下鉄の到着を待つ。
やや中途半端な時間帯だからか、ホームに立つ人影は
「美織さん、あたしが想像していた通りの素敵な女性でした」
不意に
「やっぱり先輩の恋人になるだけあって、凄く大人だなって」
「……僕みたいな男には、本当にもったいないお姉さんだよ」
晴香ちゃんに返事しつつ、また僕は微妙に考え込んだ。
そうとも、美織さんは間違いなく、素晴らしいお姉さんだ。
「普通」ならば、僕がお付き合いしてもらえる相手じゃない。
ただ所々ポンコツな部分があって、ちょっとおかしな恋人でもある。
ゲーム会社勤務時代に特殊な経験をしたぶんは、たしかに大人かもしれない。
でも時折、やけに言動が子供っぽかったり、色々と怪しげだったりとかする。
喫茶店での面談でも、いいことを言うなあと感じた部分もあれば、ツッコミどころ満載の振る舞いも見て取れた。たぶん、心の純粋さを失っていないからだと思う。
ただそんなお姉さんに対して、思えば晴香ちゃんもかなり好意的に接してくれていた。
でなきゃ「扶養」に関する発言も、あんなに大らかに理解してくれなかった気がする。
「先輩と美織さんは、とてもお似合いのカップルだと思います」
晴香ちゃんは、ホームの正面を眼差しながら言った。
まるで、美術絵画の感想を述べるような口調だった。
「あたしが入り込む隙間なんかないな、って痛感しましたから」
その言葉には、どう応じればいいか、咄嗟にわからなかった。
なので思わず口を
と、数秒挟んだのち、晴香ちゃんがこちらを振り返った。
バイト中によく見掛ける、
「えへへ。何だかドラマでよくある、失恋した女の子の台詞みたいでしたよね今の」
たしかにそうかもしれない。何しろ、晴香ちゃんは事実失恋した女の子だから。
それにしてもアイドルソングの歌詞みたいな「お別れデート」といい、どこかで聞いたことのありそうな文句が、幾度となく会話に混ざり込んでくる。
過去に数多の恋愛で、普遍的に消費されてきた感傷だからだろうか。
世の中のどこにでもある、ごく「普通」の失恋……? わからない。
「お別れデート」だなんて、たぶん「普通じゃない」と思うんだけど。
いったいどこまでが「普通」で、どこからは「普通じゃない」のか。
だが仮に「普通」にしろ、誰だって失恋をありがたがるはずはない。
だから僕は、やっぱり返事が思い付かず、黙っているしかなかった。
もっとも晴香ちゃんも別段、気の利いた答えを期待していなかったらしい。
前方へ向き直ると、どこを見るわけでもなく瞳を細め、ぼそりとつぶやく。
「素敵な先輩と、素敵なお姉さん……。本当にただのドラマだったら良かったのに」
ほどなくホームにアナウンスが流れ、地下鉄の車両が目の前に滑り込んできた。
僕と晴香ちゃんは、足早に車内へ乗り込むと、平伊戸駅までしばらく揺られた。
〇 〇 〇
スーパー「河丸」に到着したのは、普段の夕方シフトで出勤する時刻と同じ頃合だった。
いつも通り制服に着替え、控え室で多少時間を
休憩時間に入ると、惣菜コーナーで弁当を買って夕飯に食べた。
その際にすぐ隣の席では、晴香ちゃんが菓子パンを
互いに他愛のないことを、取り留めもなくしゃべった気がする。
二人で
やがて午後九時半が過ぎると、晴香ちゃんがバイトを終えて退勤した。
この日は閉店後の仕事がなく、僕も午後一〇時五〇分頃には店を出た。
「ロイヤルハイム雛番」に戻り、お姉さんが待つ部屋へ帰る。
リビングへ踏み入ると、そこで僕は思いも寄らないものを目撃してしまった。
ぐったりとちからなく、ソファの上で仰向けに寝転がっている女性の姿――
それは紛れもなく、僕の恋人である美織さんだった。
しかしながら面差しは、まるで精気が感じられず、死人みたいに青白い。
枯葉色っぽい瞳は、頭上の何もない空間に
ソファからはみ出た手足は、だらしなく下へ垂れ、床に指が触れている。
外出したときと同じ服装のままで、着替えていないみたいだった。
室内が明るいのは、帰宅後に照明を点けてすぐ倒れたからだろう。
「――い、いったいどうしたの美織さんッ!?」
びっくりして、僕は慌ててソファの傍まで駆け寄った。
片膝付いて身を屈めると、お姉さんの身体を抱き起す。
すると、枯葉色っぽい瞳の焦点が合って、僕の顔が内側に映った。
まだ
「……う、ぅああっ……。ゆ、裕介くん……?」
「ああそう、僕だよ美織さん。しっかりしてよ」
改めて名前を呼ぶと、美織さんの顔がくしゃっと
みるみる両目を潤ませて、僕の首に両腕を回してきた。
「ふ、ふええぇぇ~……。どっ、どどどうしよう~!?」
「どうしようって、どうしたの。落ち着いてよ美織さん」
僕は、いきなり泣き付いてきたお姉さんを、優しく抱き締め返す。
子供をあやすようにして、背中を軽く二、三度叩き、落ち着かせようとした。
それから、互いの身体をゆっくり離すと、ソファに二人で並んで腰掛け直す。
美織さんは、すんと
「だだ、だって、裕介くんが月末に他の女の子とデートしちゃううぅ~!!」
…………。
……はい?
僕は一瞬、何か聞き間違えたんじゃないかと、自分の聴覚を疑った。
ソファの隣に向き直って、恋人の様子をもういっぺん
美織さんは、相変わらず目元に涙を溜め、情けない顔付きになっていた。
どうやら、本当に僕が晴香ちゃんとデートする件を
だが思い返すまでもなく、それを最初に提案したのは、他ならぬお姉さん自身である。
なのであまりにも意味不明だった。これはいったい、どういうことなんですかね……。
仕方なく、率直に不可解な点を問い
「あ、あのぅ美織さん? 晴香ちゃんに思い出作りを勧めたのって、美織さんだよね?」
「それはその通りなんだけどぉ! あのときはこう、つい流れで言っちゃったというか」
美織さんは、頭を抱えながら
「部屋に帰ってきてから、裕介くんと晴香さんがデートする光景を想像してみたら――」
「急に不安になってきて、リビングのソファに寝転がって落ち込んでいた、ってわけ?」
あとを引き取ってたしかめると、お姉さんはしょんぼりして首肯する。
けっこう色々と駄目な感じだった。いやまあ、そんなことだろうと思いましたけどね……。
晴香ちゃんに「素敵なお姉さん」と言わしめた、年上女性らしい余裕はもう見当たらない。
今目の前に居るのは、遅い初恋に自信が持てない、いつものこじらせアラサー女子だった。
もっとも、このうじうじしている有様を見ていると、密かにちょっぴり安心してしまう。
やっぱり美織さんには、適度に面倒臭いところがないと違和感を覚えちゃうんだよねー。
なんてことを考えている時点で、僕もよっぽど恋人に毒されているのかもしれないけど。
「ねぇ裕介くんっ。晴香さんと二人っきりで遊びに出掛けても、浮気は絶対しないでね?」
美織さんは、僕の腕に
「相手は可愛い女子高生だから、アラサーおばさんから乗り換えたくなるのはわかるけど」
「落ち着いてよ美織さん、浮気なんか考えたこともないよ。ましてや乗り換えるだなんて」
僕は、努めて穏やかに
しかしお姉さんは、
「それじゃ約束してくれる? 晴香さんとデートはしても浮気はしないって」
「お安い御用だよ、絶対浮気しないって約束する。心配性だなあ美織さんは」
「ちなみに身体の関係は許せるけど、相手に心を開いちゃったらアウトだからね?」
「いやそれ案外浮気にならないハードル低くない!? 身体の関係はいいんだ!?」
「相手は可愛い女子高生だから、アラサーおばさんから乗り換えたくなる気持ちはわかるもん」
「変な物分かりの良さを発揮しないでよ!! 女子高生を泥沼の愛憎劇に巻き込まないで!!」
「じゃあ約束してくれる? 女子高生とデートしても淫行で逮捕されないって」
「約束しなきゃ逮捕されると思われていたの僕は!? 妄想激しすぎない!?」
やり取りしていて、無限にツッコミが止まらない気配を感じた。
美織さんは「万が一女子高生相手の淫行で逮捕されても、出所するまで待っているから……」と、せつなそうな面持ちで謎の純愛を誓っている。意味不明すぎる上に重い。
ていうか僕のこと、以前に信頼しているって言ってくれていたよね? 大丈夫?
ちなみに晴香ちゃんは女子高生ではあるものの、すでに現在一八歳。
おそらく、青少年保護育成条例の適用対象外じゃないかと思います。
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