60:お姉さんと僕だけの関係が知られる

 晴香ちゃんの言葉を聞きながら、僕は不思議な感覚を味わっていた。

 異性から好意を表明されるのは、美織さんに続いて二度目の経験だ。

 でも今回は、告白を受けてき上がる感情が、まるで前回とは違う。

 胸の奥では、高鳴る鼓動こどうより、じわりとにじむほろ苦さがまさっていた。



「たぶん先輩は二年以上前のことなんか、いちいち覚えていないかもしれませんけど」


 晴香ちゃんは、片手を自分の胸の上に重ねると、前へ半歩進み出た。


「バイトをはじめたばかりだった頃にあたし、先輩から仕事で助けてもらったんです」


 薄墨色の大きな瞳は相変わらず、こちらへ真っ直ぐな視線を注いでいる。

 だが僕の顔じゃなく、何か別の遠いものを見ているような目つきだった。


「それがきっかけで先輩を好きになって、それからも色々と優しくしてもらって……。なのに、自分の好きになった人が『普通じゃないから』って理由で、あたしを恋人にできないと思ってるんだとしたら。――そんなの、あたしは放っておけません」


 晴香ちゃんの言葉は、いっそう真剣さを増して、熱を帯びてくる。

 自分が信じる正しさを、懸命に証明しようとしているかに見えた。


「どうして先輩がフリーターになったのかは、あたしにはわからないですけど。先輩だったら、きっと自分を卑下ひげせずに済む生き方ができるようになります。迷惑じゃないなら、あたしは応援したいと思いますし、それまでずっと先輩を待ちます……」


 ひたすらいじらしく、晴香ちゃんは訴え掛けてきた。どこか憐憫れんびんを誘う気色けしきさえある。

 そうして、尚も説得を続けようとしていたけれど、しかし思惑通りにはならなかった。


 僕がさえぎって、申し出を断ったからだ。



「ごめんね晴香ちゃん。きっと僕は、君の期待に応えられないよ」


 晴香ちゃんが僕に対して、好意を持ってくれたことは嬉しい。

 でも僕には、すでに美織さんという誰より大切な恋人が居る。


 これはあくまで仮定の話だが、今少し付け加えて言えば――

 仮に晴香ちゃんと美織さんから同時に告白されていたとしても、僕は晴香ちゃんより美織さんを恋人として選んでいただろう。

 晴香ちゃんに魅力を感じないわけじゃないけれど、先に告白されたからというだけで美織さんを好きになったつもりでもない。



「僕は君が思うほど、見込みがある人間じゃないんだ。恋人にはなれない」


「いいえ、そんなことありません。先輩は『普通』になれますよ、絶対に」


 ところが断ろうとしても、晴香ちゃんにひるむ素振りはなかった。

 かなり断定的な態度だし、僕に対する人物評を疑う気配もない。


 それで多少面食らいつつも、気になって率直に問い掛けてみた。


「ねぇ晴香ちゃん。なぜ君は、僕が『普通』になれると思うの?」


 そう、この点がいまいちに落ちない。

「普通」という言葉が示す物事は、そもそも範囲が広くて端的に規定できないと思うけど。

 それをあえて考慮しないにしろ、晴香ちゃんがけ合おうとする根拠はわからなかった。


「僕が昔、君を仕事で助けたからかい。それじゃ、ちょっと短絡的な気がするけど」


「たしかに最初は、単純に先輩が優しくて真面目な人だから、そう考えていました」


 いささか厳しく指摘すると、晴香ちゃんは過去の浅はかさを認める。

 とはいえ、それだけじゃ決して主張を取り下げようとはしなかった。


「でも今は違います。ちゃんと理由があって、先輩なら大丈夫だって思っています」


 強い口調じゃないけれど、晴香ちゃんの声色には確信がもっている。

 どうにも真意をつかみ切れず、僕は幾分当惑を覚えずに居られなかった。



「実は少し前、舟木店長が事務所で話していたんです――」


 と、晴香ちゃんが続けて、不意にまったく思い掛けないことを口走る。


「先輩のことを『スーパーの正社員としてやといたい』って」


「……店長が僕のことを、スーパー『河丸』の正社員に?」


 女子高生から告白されたことには及ばないにしろ、再度驚かざるを得なかった。

 思わず目を白黒させていると、晴香ちゃんが「はい」と言って首肯してみせる。

 それから、やや早口で、だがよどみなく背景を語りはじめた。


「お店で働き続けて、先輩はもう三年以上経ってますよね。去年からは売り場に特売日の平台を作ったりしてますし、最近じゃ商品発注まで手伝っているじゃないですか。アルバイトでたまに新人さんが入ってきても、基本的な仕事なら指導できそうですし」


 晴香ちゃんは、いつになく凛々りりしい面持ちで話し続けている。

 相手を納得させるためには、ここが先途と判じたらしかった。


「店長は『もうこれなら、正規採用してもいいんじゃないか』って考えているみたいなんです。社員の皆さんは前々から言い続けてますけど、平伊戸店はずっと人手不足で。もう非正規従業員を増やすだけじゃ、仕事が回らなくなってる部門もあるので……」


 晴香ちゃんが耳に挟んだところによれば――

 舟木店長は、この件で近く僕と話し合いの機会を設ける予定なのだという。

 現状で就職活動していないこととか、入社の意思などを詳しく確認するつもりらしい。

 そこで合意が得られれば本部に連絡して、採用試験を受ける手筈を整えてくれるとか。


 ただし将来的に他店舗へ転勤になる可能性もあるため、正規採用されるには運転免許の取得が必要だったりとか、今後条件面で解決しなきゃいけない要素もあるみたいだけれど……。

 いずれにしろ折り合いが付けば、来年度から正社員になれるかもしれないわけだ。


 僕は、きょかれ、たじろがずに居られなかった。

 いや、たしかにそういう展開の可能性を、これまでに想像してみたことは皆無じゃない。

 この店に非正規従業員の待遇昇格に関する規定が存在することも、もちろん知っている。

 でも現実に「自分が正規採用されるかもしれない」とわかってみると、妙な気分だった。



「このまま真面目に働き続ければ、先輩は普通に就職できるんです」


 もう何度目かわからないけれど、晴香ちゃんは保証するように言った。

 半ばは状況を確認し直し、自らに言い聞かせるような様子でもあった。


「ベーカリー主任の松田さんだって、高卒採用で入社五年目の二三歳じゃないですか。まだ先輩は二一歳ですし、大学中退でも来年入社すれば大差ないと思います。それなら充分『普通』の内だと思いませんか? それにもし、この件を断るとしても、先輩を正規雇用したいと考える会社があるって事実は変わりません。絶対に大丈夫です、先輩だったら」


 だから二人が恋人になることには、障害なんて何もありません、と……

 晴香ちゃんが言外に訴えているのが、こちらにはっきりと伝わってくる。

 熱っぽい言葉は、徐々に祈るような声色に染まってきた。


「ちゃんと『普通』になれます。あたしを信じてください、先輩――……」



 僕は、正面から視線を外して、暗い夜空をおもむろにあおいだ。

 平伊戸を覆う闇は濃く、雲間に覗く月の他には星が見えない。

 狭い路地から眺めていると、逃げ場を閉ざされた心地がした。


「やっぱり無理だよ晴香ちゃん。どうしたって、僕は君の恋人になれない」


 僕はもう一度、晴香ちゃんからの告白を断った。


「仮に就職できるとしても、晴香ちゃんとは付き合えないんだ。それは、その……」


「――それはやっぱり、もう先輩にはあたし以外に好きな女性が居るからですか?」


 どうやって事実を伝えようか迷っていると、先んじて問いただされた。

 またしても驚かされ、僕は夜空へ向けていた目を地上に引き下ろす。

 目の前に立つ年下の女の子は、かすかに陰を帯びた面持ちだったものの、平静そうだった。

 それでようやく、この子がこちらの事情を最初から察していたんじゃないかと思い至った。


「ひょっとして、気が付いていたの?」


「はい。確証はありませんでしたけど」


 念のために訊くと、晴香ちゃんは緩い所作でうなずく。

 そうして、口元に自嘲的な微笑をうっすらと浮かべた。


「以前にマリナから、聞いたことがあったんです――」


 晴香ちゃんは、淡々とした口振りで続ける。


「先月下旬の日曜日、新冬原の水族館で『若い男性が大人の女性を連れているのを見た』って。その日は丁度、先輩がバイトを休んだのと同じ日だから、ずっと気になっていたんです」


 さらに後日、スーパーで不用品の廃棄作業に従事した際のこと……

 晴香ちゃんは、僕が汗を拭くために持ち込んだタオルを、目の当たりにした。

 それは他ならぬ、星澄ルーセント水族館の売店で購入したスポーツタオルだ。

 マリンブルーの表面には、白く文字やイラストがい込まれている。


 そのデザインを見て、晴香ちゃんは僕がバイトを欠勤した日、新冬原まで出掛けていた事実に気付いてしまったわけだ。

 とすれば、同時に僕と南野さんの接点も把握していたことになる。

 かつて想像した可能性は、単なる思い過ごしじゃなかったんだな。


「それからは一人で随分ずいぶん悩んだんですけど、ちゃんと真相を知りたくなって」


 晴香ちゃんは、寂しげな目になって、ちいさく溜め息を吐いた。


「結局マリナに協力してもらって、事実かどうか判断しようと思ったんです」


「じゃあ僕と南野さんを店で先日引き合わせたのは、それが目的だったの?}


 たしかめるように訊くと、晴香ちゃんは「そうです」と答えた。


 ……あの日の光景が、ふっと脳裏によみがえる。

 僕と南野さんが互いを見知っていると判明し、晴香ちゃんは相当に動揺していた。

 顔から血の気が引き、唇を震えさせていた有様は、到底記憶から消せそうもない。


 ただし、あの時点では僕に親密な女性が居る可能性について、まだ半信半疑だったらしい。

 新冬原の路上で遭遇したとき、南野さんは美織さんの存在を視認していたものの、それが単に「かたわらを通り掛かっただけの人物だったかもしれない」という考えがあったせいだ。


 晴香ちゃんが「僕には親しいお姉さんが居る」という事実に関して、決定的な蓋然性がいぜんせいの高さを把握したのは、どうやら先週の出来事みたいだった。


「こないだマリナから、水族館でイルカショーを見物していた話を持ち出されませんでしたか」


 問い掛けられて、僕は南野さんとのやり取りを思い出した。


 ――だってェイルカ見てたじゃんかァ、水族館で楽しそうに。


 平台の物陰に隠れながら、たしかに南野さんがそんなことを話し掛けてきた。

 イルカショーを観覧したのは事実だったから、僕も否定しなかったんだけど……

 それを伝え聞いて、晴香ちゃんは「僕が新冬原へ出掛けた日、お姉さんと一緒に水族館の屋上に居た」ということに裏取りを得てしまったわけだ! 

 南野さんはあの日、ただ単に松田さんを眺めていただけじゃなかったのか。


「あの子が言うには新冬原の路上のみじゃなく、水族館のアトラクションが上演されていたときにも、先輩の隣には『ずっと大人の女性が連れ添っていた』って。それがもし本当なら、マリナの見間違いなんかじゃなく、先輩にはデートへ一緒に出掛ける相手が居るんだろうなって……」


 晴香ちゃんは、弱々しく言ってうつむく。



 ……おおよそ、一〇秒余り沈黙が流れた。


 実際のところ、僕は恋愛経験が多くない。

 お姉さんが初めての交際相手で、過去に他の女性は知らない。

 それゆえ、こんなときにどう対応すべきかもわからなかった。


 ただ告白を断わるに際して、晴香ちゃんを極力傷付けたくない、と思っている。

 晴香ちゃんには、できることなら自分と美織さんを比較して欲しくもなかった。

 なので可能な限り、恋人の存在を伏せていたんだけど――

 そんなことはどだい、無理な目論見だったのかもしれない。


 そもそも僕の浅はかな考えなんて、晴香ちゃんには余計な小細工でしかなかったんだと思う。

 この子は、好きになった相手に恋人が居ることを承知で、思いの丈をぶつけてきたのだから。


 いや、それとも美織さんについて知られまいとしていたのは、僕自身の保身のためだろうか。

「晴香ちゃんが傷付くところを見たくない」という、身勝手な願望が働いた点は否定できない。



「――あの、どんな女性なんですか。先輩が好きになった人って」


 会話を先に再開しようとしたのは、晴香ちゃんの方だった。


「マリナが見た印象だと、年上みたいだったって聞きましたけど」


 当然なのかもしれないけれど、美織さんのことが気になるらしい。

 僕は、ちょっとだけ考え込んだものの、正直に答えることにした。

 今更隠し立てしたところで、晴香ちゃんを傷付けてしまうのは避けられない。

 そうした現実から目を背け続けるのは、もう僕の自己満足でしかないだろう。


「うん。たしかに僕よりお姉さんだよ」


「普段は何をしている人なんですか?」


「……えっと、イラストレイターかな」


 次の質問には、再度一瞬考えてから答えた。

 かつて僕も美織さんの職業を詳しく知らなかった頃、当初はデザイナーだと聞いていたことを思い出したからだ。たしかお姉さんがイラストレイターを自称していないのは、無駄にあれこれ仕事内容を詮索せんさくされるのを嫌っていたからだったはずだけど……

 まあ晴香ちゃんになら、信用して話してしまってもいいだろう。


「もっとも漫画を描くこともあるし、デザインの依頼も引き受けたりするみたい。フリーランスで、たぶん絵を描くこと全般が仕事になっているんだと思う」


「……そ、そうなんですか。お仕事はイラストレイター……」


 晴香ちゃんは、はっと顔を上げて、当惑したようにつぶやく。

 もしかすると、お姉さんの仕事が予想外だったせいだろうか。

 あまり日常的に知り合う機会は多くないかもしれないからな、イラストレイターって。

 もっとも美織さんは、以前に「ネットでSNSを閲覧してみればわかるんじゃないかな、実際は世の中に沢山同業者が居る職業だよ~」って言っていたことがあったけどね……。



「ええと、その。それで改めてというか、今更なんですけど」


 晴香ちゃんは、気を取り直すように言うと、僅かに背筋を伸ばす。

 澄んだ声音が微妙に震え、頬の辺りに緊張した様子が見て取れた。


「その人と先輩はもう、お付き合いしてるんですよね……?」


 たしかに今更だけど、この子にとっては確認しないわけにはいかない問題だろう。


 僕は「……うん」と答え、首肯してみせる。

 その上で、晴香ちゃんにはっきりと伝えた。


「約三ヶ月前から、正式にお付き合いさせてもらっているよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る