33:お姉さんと僕の大切な約束
何はともあれ、まずは美織さんに謝ろう。
「えっと……。ごめんね美織さん、今夜は帰りが遅くなって」
僕は、軽い緊張感を覚えつつ、美織さんに向き直った。
微妙に背筋を伸ばして、率直に謝罪の気持ちを伝える。
美織さんは、短く「……うん」とつぶやき、ソファへ腰掛けた。
それからメガネを外すと、テーブルの上に置いて溜め息を吐く。
いつになく重い空気が室内に
二人のあいだに何秒間か、
――あっ、ああ……。美織さんが怒ると、こういう感じなのかあ~……。
僕は、お姉さんが全身から発する異様な気配を察して、息を
枯葉色っぽい瞳は、リビングの何もない場所をじっと眼差している。
その面差しには、寂しさや悲しさ、不条理を
お姉さん、完全に待ちの姿勢で怒ってらっしゃる。
何も言わないし、目も合わせようとしないけれど……
明らかにちらっちらっと「なあに裕介くん、早く言い訳しないの? お姉さんが聞いてあげるから何か言ってみるといいよ。まあ怒ってるけど」みたいな雰囲気出しまくってる。
これはやばい。何もかも正直に事情を話さなけりゃ、納得してもらえそうにない。
「あー、あの。たしか、皐月さんから連絡は入ってたよね?」
とりあえず一応、帰宅時間の遅くなった原因が伝わっているかを確認しておく。
美織さんは、再度短く「来てたよ連絡」と、感情を抑えたような声色で答えた。
それにうなずいてみせてから、今夜の出来事を説明する。
「午後九時半過ぎに突然、皐月さんがバイト先に現れてさ……。今日は星澄市内をゲーム会社の仕事で訪れていたみたいなんだけど、僕に話があるからって立ち寄ったらしいんだよ」
できるだけ焦らないようにしゃべりながら、慎重に恋人の反応を窺う。
お姉さんは、握った両手を膝の上に置き、身動ぎもせずに座っている。
落ち着いて話に耳を傾けてくれているようだ。安堵して、僕は続けた。
「それでスーパーの閉店後、地下鉄平伊戸駅の近くにある居酒屋へ行ったんだ。でもってお酒を一緒に飲みながら、色々やり取りしてきた。まあ、何があったかと言えばそれだけさ」
ひとまず事実のみを、端的に伝える。慌ててはいけない。
美織さんは、まだ顔を背けたまま、尚も念押ししてきた。
「……本当にそれだけ?」
「うん、それだけだった」
「じゃあ夜遅くまで、どんなことを皐月ちゃんと話したの」
はっきり請け合うと、次いで具体的な内容を問い質してくる。
僕は、いっそ何もかも、洗い
黙っていたって、美織さんの機嫌を余計に損ねるだけだろう。
だいたい僕には、後ろ暗い部分なんか何もない。
「ほとんど、美織さんと僕の関係についての話題だったよ」
そこまで話したところで、やっと美織さんがこちらを向いてくれた。
枯葉色っぽい瞳が物寂しそうな光を湛えていて、とても綺麗だった。
「それで皐月さんは、美織さんがまだ本当に僕から好かれているかで自信を持てていない、って指摘していた。以前に美織さんが言っていたことを、すっかり察していたみたいだった」
「そんなことを皐月ちゃんが? ……もう、あの子ったら」
美織さんは、ちょっと苛々したような口振りで言った。
でも面持ちには、あべこべに僅かな安堵が覗いている。
やっぱり、僕のことで心配していたんだろうな。
浮気を疑われていたわけじゃないとは思うけど……
誘惑されそうになったりしたんじゃないのか、とか。
実情はともかく、あの皐月さんと二人で飲酒していたわけだし。
僕は、さらに詳しく居酒屋での話題を説明してみせた。
「だから皐月さんは、僕に美織さんを『もっとガンガン愛してあげなさい』って助言してくれたんだ。あと僕が美織さんの恋人に適役だって、請け合ってくれてさ。それからね――……」
いったん口篭もったものの、あくまで誤魔化さずに続ける。
「過去になぜ、美織さんがエアロスタイルを辞めたのかも教えてくれて――おかげでその当時に色々経験して、辛い立場だったのもわかって。美織さんをありのまま受け止めるためには、僕が頑張らなきゃ駄目だって気付かされた。そういうことを、皐月さんは伝えたかったみたい」
ひと通り僕の話を聞き終えたあとも、美織さんはたっぷり一〇秒近く口を噤み続けていた。
枯葉色っぽい瞳を半ば伏せ、視線を床の上へ落とす。何事か沈思するような仕草に見えた。
「……エアロ在籍時代に過ごした毎日は、今振り返ると不思議な時間だったなって思うよ」
やがて美織さんは、ゆっくりと言葉を紡ぎはじめた。
普段より幾分低い声音で、うつむいたまま回顧する。
「当時のことを思い出してみると、まるで長くて悪い夢だったような気がするんだよね。職場の誰もが何かしら目標を持っていて、努力していない人なんか居なかった。にもかかわらず、些細なボタンの掛け違えから、すっかり何もかも上手くいかなくなったの」
次はしばらく、僕が静かに話を聞く番だった。
美織さんは、かぶりを振りつつ、先を続ける。
「きっと、巡り合わせの運もなかったんじゃないかなと思う。色々なものが思い掛けなく、一気に良くない方向へ傾いちゃったというか。皆が理屈で納得できるような問題ばかりじゃなかったし、どうにもならなかったんだ。私も疲れて耐えられなくなった……」
僕は、未来に見込みの薄いフリーターで、お姉さんに甘えながら暮らしている。
だから自分が取るに足りない凡庸な人間でしかないことを、よく知っているつもりだった。
そしてまた、哲学者じゃないから、事物の正しい在り方については明確な答えを持たない。
ましてや「特別な才能を持つ人でさえ挫折する」という現実に接し、多くを語る術もない。
ただ漠然とわかるのは、世界はままならないことで溢れているらしい、ということだけだ。
「あの頃から、ときどき怖くなるの。――人間の心は、いつ突然変わるかわからないって」
美織さんは、どこか恐る恐るといった所作で、顔を上げた。
ほんの少しだけど、唇が感情的に震えているように見えた。
「エアロ入社一年目、優しく私に仕事を教えてくれた先輩が……ある日を境にして、急に冷淡な態度を取るようになったんだよ。びっくりしたし、悲しかった。誰かに肯定され続けることは、なんて難しいんだろうって思った。そんなの当たり前かもしれないけど、やっぱり辛かったの。それから身近に一人ぐらいは、必ず味方してくれる人が居て欲しいって思いはじめた……」
「たとえ何があっても、僕は美織さんを裏切らないよ。ずっと好きで居るって、約束する」
僕は、美織さんのすぐ傍まで歩み寄ると、ソファの隣へ座った。
自分の手を、お姉さんの手の上へ重ね、そっと包むように握る。
間近で二人の目が合って、互いの存在を離れ難いものに感じた。
と、美織さんがこちらにしな垂れ掛かってきた。
それを受け止め、空いた側の手で華奢な肩ごと引き寄せる。
愛しいお姉さんは、頬擦りするように僕の胸へ顔を埋めた。
ふわふわした栗色の髪が波打って、怯えの感情を発露している。
かつて年上の恋人が、こんなにも弱々しく見えたことはなかった。
「僕は、ずっと美織さんのことを、好きであり続けたい」
僕は、美織さんの髪を撫でると、少ししわがれた声で繰り返した。
「僕は美織さんのものだよ。美織さんだけの恋人なんだ」
「――そ、そんな。裕介くんが、私のものだなんて」
美織さんは、僕の腕に身を委ねながら、ちいさくつぶやく。
あたかも、初めて神秘的なものに触れたような反応だった。
「本気さ。全部、美織さんにあげたいぐらい好きだ」
一語一句にちからを込めて、僕はお姉さんに言い聞かせた。
この気持ちが嘘じゃないことを、信用させてあげたかった。
――美織さんにとって、何があろうと自分が味方であり続けなきゃ。
そうした使命感が、庇護欲と混ざり合って、強い昂りを生んでいる。
痺れるほどの興奮は、ほとんど性交渉時のそれと遜色ない気がした。
そのせいなのか、熱に浮かされたような頭の中で、例の特別な欲求が増していた……
つまり、僕は「もっと美織さんに尽くしたい」という、甘い衝動に駆られていたんだ。
ただし、これまでとは違って、その欲求を曖昧な感覚だけじゃ終わらせなかった。
なぜなら、ほんの僅かでも具体化できる方法を、今はちゃんと知っていたからだ。
それも特別な手段じゃなく、ごくありふれた行動に訴えることで。
「ねぇ美織さん。近々二人の都合が合えばなんだけどさ」
僕は、奇妙な気恥ずかしさを覚えながら持ち掛けた。
正直言えば、ベッドに誘うよりも切り出し難かった。
「どこかへ一緒にデートしに行こうか」
「……デート? 二人で外出するの?」
美織さんは、ちょっと訝るように訊き返してきた。
まるっきり想像もしていなかった言葉を耳にして、戸惑っているようでもあった。
まあ会話の流れからすると、突拍子のない提案だと思われても仕方ないよね……。
「実はこれも、皐月さんから助言されたことなんだけど」
僕は、一瞬迷ってから、やっぱり正直に打ち明けた。
「二人の関係のためにも、たまには出歩いた方がいいって……」
本当だったら、こういう提案は僕が自発的に誘い掛けるべきことなんだと思う。
「第三者の関与がなければ思い至らなかった」という事実は、たぶん寂しい話だ。
でも下手なことを言って取り繕うのは、恋人に対する誠実さに欠ける気がした。
無理に格好付けようとして、不自然な態度を勘繰られると、殊更居心地が悪い。
「――そっか。皐月ちゃんってば、思ったよりもお節介だなあ」
美織さんは、経緯を把握すると、得心したようにうなずく。
意外に憮然とした様子は窺えない。ちょっぴり苦笑を浮かべたぐらいだ。
どういうわけかと不可解に感じたけれど、すぐに理由は明らかになった。
「本当に居酒屋でそんな話ばかりしていたんだとしたら、むしろ私としては安心だよ」
美織さんは、僅かに正面から目を逸らして言った。
「皐月ちゃんが裕介くんを誘惑したりしなかったって話は、嘘じゃないみたいだから」
……どうやらつまり、僕の話が不格好なぶん、真実味があるってことらしい。
どこまで好かれていることに自信がないの美織さん。こじらせすぎですって。
「そこまで不安だったなら、なんで僕に直接メッセージで連絡取ろうとしなかったの」
「だってぇ……。それでもし浮気されていたら、立ち直れなくなると思ったんだもん」
微妙に
そんなふうに
お姉さんを心配させているのは、まだ僕が恋人として未熟なせいでもあるし。
それに落ち込むほど僕を好きで居てくれている点は、正直言って凄く嬉しい。
「それじゃ美織さんが仕事を休んでも差し支えない日を選んで、遊びに出掛けようか」
「あはは。私の仕事は融通が利くから、〆切前日とかじゃなければ大抵は大丈夫だよ」
改めて誘ってみると、美織さんはやっと笑顔を覗かせた。
どうやら機嫌を直してくれたみたいだった。ほっとした。
思った通り、何もかも隠さず話して正解だったみたいだ。
でも思いのほか、あっさりデートを承知してくれちゃったな。
いつも忙しそうにしているから、予定を空けるのも大変かもしれないと思ったんだけど。
しかしそういうことなら、僕がバイトでシフトの入っていない日を調べた方がいいのか。
あるいは舟木店長に頼んで、出勤日を調整してもらおうかな。むむむ……。
なーんて、今後の方針に幾分迷っていると。
美織さんから具体的な計画を問い質された。
「ところで、どんな場所までデートに行こっか?」
「……あ、うん。それも決めなきゃいけないよね」
冷静になってみると、これから色々と考えなきゃいけないことが多い。
皐月さんからの指示通り、外出を持ち掛けたところまでは良かったものの――
実は僕って、女性と遊興するような行動自体、ほとんど初心者状態なんだよね。
交際前も美織さんとのデートでは、駅前をぶらつくことぐらいしか経験がない。
居酒屋で交わした会話から、本当にマズい部分が次々と判明しちゃったなあ。
そういう実情を踏まえると、自分が抱えた懸案に気後れを感じてしまう。
こんな経験不足で、美織さんを外出先で楽しませてあげられるだろうか。
とても難度が高い気がする。何かしら失敗して、恋人を困らせる予感しかしない。
……これはやっぱり見栄を張ったりせず、あらかじめ相談しておいた方がいいか。
「あのね美織さん。デートの計画全般に関わる話なんだけど」
僕は、内心
情けないと思われても仕方ない、と覚悟していた。
「できれば二人で話し合って決めたいんだ。サプライズみたいな要素はなくなるから、そのぶん当日の楽しみがいくらか欠けちゃうかもしれないけどさ……」
「えっ、どうしたの。私は別にかまわないけれど」
美織さんは、軽い驚きを示し、枯葉色っぽい瞳を見開く。
やや上目遣いで、こちらを気遣うように覗き込んできた。
「裕介くんの好きな場所を選んでくれていいのに」
「いやまあ、自分一人で考えるのは難しそうだなと思っちゃって」
どうにも気まずいけど、苦笑で応じるしかない。
羞恥心を堪えつつ、素直に意図を伝えてしまう。
「僕ってさ、美織さんが初めての恋人だってことは教えたよね?」
「うん? たしかに以前、聞いた記憶はあるけど」
「それでその、実は女の人と外出する経験自体が今まで少なくて」
「あ、ああっ。なるほど、そっか。そうなんだ?」
「これまでには、美織さんと駅前で会ったりするぐらいしかない」
「――え、えっと。そうすると、もしかして……」
「きちんとしたデートを計画するのも、今回が初めてなんだよね」
順を追って話すと、ようやく美織さんも事態を察してくれたらしい。
ほんの少し言葉を失って、二、三度、おもむろに口唇を開閉させた。
僕は、いっぺん深呼吸してから、居住まいを正してお願いする。
「だから、このデートで思い出作りするのを、美織さんも一緒に手伝ってください」
……直後にまたしても、若干の沈黙が生じた。
さすがに美織さんも、僕の不甲斐なさを悟って落胆してしまっただろうか?
そんな懸念を抱いて怖くなったけど、それはすぐに思い違いだとわかった。
美織さんは、低く
左右の瞳の奥には、何やら異様に熱っぽくて、鮮やかな輝きが宿りつつある。
どういうわけなのか急に呼気が乱れはじめ、強い興奮が声色に滲んでいた。
いましがたの不機嫌そうな雰囲気からの変貌っぷりが凄い。何ですかこれ。
「そ、そっか。うん、わかったよ。――お、お姉さんも手伝ってあげる……。はっ、はあはあ、ゆっ裕介くんの、初めてのちゃんとしたデート……ま、まさかと思ったけど――」
こちらの申し出を承諾すると、美織さんは身を乗り出すように言った。
「は、初めてを……初体験だけじゃなく……初デートも、わ、私が――……!!」
僕は、提案が受け入れられたことを喜びつつも、急にちょっと怖くなってきた。
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