32:お姉さんが待つ部屋へ真夜中に帰る

「……美織さんとデート、ですか?」


 ちょっと虚をかれて、反射的にき返した。

 皐月さんのやり取りは、しばしば要点が予想外の方向へ飛躍する。

 その都度、咄嗟とっさに意図がみ込めないので、確認せねばならない。


「そう、デートよ。二人で出歩くの」


 皐月さんは、注文した春巻きが届くと、早速ばしで挟んでかじりはじめた。


「ねぇ裕介くん。同棲するようになって以後は、美織さんと何回ぐらいデートしたのかしら」


「えっ……。ど、同棲するようになって以後のデートですか。それはですね、ええっと――」


 しどろもどろになって、鸚鵡おうむ返しの言葉を発してしまった。

 質問に回答すべく、美織さんと外出した記憶を探ってみる。

 しかし該当する事例は、ちっとも思い浮かばない。やばい。


 皐月さんは、にわかに険のある目つきになって、こちらをのぞき込んできた。


「まさか炊事洗濯やバイト以外は、毎日えっちなことしかしてないわけじゃないでしょうね」


 ……ふっと遠い目になり、黙り込んでしまう。

 完全にそのまさかだった。今、気付きました。



 ――美織さんと同棲しはじめてから、ちっとも二人で遊びに出掛けたりしていない。


 いつも愛してるって言って、毎日キスして混浴して、頻繁に性行為セックスもしているけど。


 いや、決して日常的にイチャイチャできるからって、現状に満足していたわけじゃないんだ。

 でも同棲開始して以降、炊事洗濯も二人分になったし、引っ越しもしなきゃいけなかったし。

 美織さんの仕事もフリーランスだから、いつ休日なのかよくわからなくて、どのタイミングで遊びに誘ったりすればいいのか迷っちゃうしさ――……

 というのは、単なる言い訳ですねハイわかってます。



 もはやデートしていないことを否定もできず、ウーロンハイをすするしかない。

 すると、皐月さんは僕の反応を見て、すっかり事情を見抜いたみたいだった。


「うっわ。本当に家の中でえっちしてばっかで、まともにデートしていないとはね……」


「すみません。自分で自分が圧倒的に駄目すぎることを、ようやく明確に理解しました」


 項垂うなだれざるを得ない。自然と声の調子も沈んでしまう。

 皐月さんは、そこへ追い打ちするように質問を続けた。


「ちなみに同棲をはじめるようになる前って、二人でどんなデートしていたのかしら」


「どんなと訊かれても。喫茶店で会って話したり、駅前の店をぶらぶら見て回ったり」


「他には何か、記憶に残るような場所へ出掛けたりしなかったの?」


「き、記憶に残るようなデートですか。えっと、それはそのぅ……」


 居心地悪さがどんどん増して、身の縮む思いがする。

 皐月さんは、ジョッキをテーブルの上へ置くと、額に手を当てた。

 不出来な生徒に接する教師の如く、「はあぁ~……」と嘆息する。


「いえ、まあいいわ。君と美織さんの恋愛が特殊な過程をたどっていることそのものは、何度も言うけど他人が口出しすることじゃないから。当人たちが納得していれば問題ないし」


 皐月さんは、半ば自分自身の思考を整理するように言った。

 それから、すべてを把握したと言いたげな面持ちで続ける。


「でも現状の君たちは、関係性の土台を構築するより先に、互いが一緒に居ることの恩恵ばかり分かち合っているわけね。――それで特に美織さんは、恋愛に自信が持てていないと」



 見事に急所を突かれたような気がした。


 僕は美織さんと暮らすことで、住居に関して恩恵を得ている。

 美織さんは僕と暮らすことで、家事に関して恩恵を得ている。

 あとは愛をささやき合ったり、性交渉に及んだりはしているけど……

 実際的に見れば、まだ互恵関係以上の間柄には到達していないのかもしれない。

 つまり、どちらも「都合がいいから一緒に居る」という関係性に留まっている。



「互恵的なだけの恋人だと、美織さんの立場なら色々と不安になっても仕方ないわね」


 皐月さんは、テーブルの表面を人差し指の先で、とんとんとリズムを刻むように叩く。


「裕介くんに対して、自分じゃ持ち得ない恩恵を提示する女の子が他に現れるかもしれないし」


「悪い冗談は止してください。美織さん以外の女性を恋人にするなんて、考えられもしません」


「だとしたって、そもそも二人のあいだで互恵関係自体が永遠に維持できるとは限らないもの」


 真剣に抗弁しても、皐月さんは眉根を寄せて取り合おうとしなかった。


「ましてや男の子って、いったん恋愛が上手くいくと『釣った魚にえさはやらない』ような状態になりやすいんだから。同棲生活だって時間が経てば、だんだん当たり前の日常になってくるわ。そうすると、美織さんの気掛かりの種を知らないうちに放置し続けかねない」


「……だから、僕は美織さんをデートへ誘ってみるべきだってことですか?」


 改めて問いただし、確認を求める。

 皐月さんは「その通り」と、ビールをあおりつつ答えた。

 ここまで来て、やっと前後の話がひとつにつながった。


 美織さんの過去と、僕を好きになってくれた要因、二人が同棲に至った経緯まで……

 何もかも、ありふれているとは思えないことだらけ。とことん僕らは普通じゃない。

 その点は皐月さんも言う通り、きちんと受け止めなきゃいけないんだろう。


 ……だがしかし例外なき「普通」なんて、そもそも本当に世の中にはあるのだろうか。

 アリストテレスが語る中庸ちゅうようには至らずとも、誰しも該当する生き方のようなものが。



「必ずしもデートである必要はないけど、何かしら気をつかってあげるべきだってこと。見返りを求めたりは抜きで、美織さんが純粋に好きなんだって気持ちをわからせてあげなきゃ」


 皐月さんは、こちらへ今一度向き直り、叱咤しったするように言った。


「ずっと仲良くしていたいんでしょう? ……だったら、もうちょっと頑張りなさい」


 直後にまたしても、空のジョッキがテーブルの上に置かれる。

 だが皐月さんの面差しからは、やはり酔った気配がうかがえない。

 これがマジモンのってやつですか……。




     ○  ○  ○




 尚も皐月さんはお酒を飲み続け、席を立つ頃には深夜一時半を過ぎていた。


 ただし、その後に交わした話題の内容は、基本的に他愛ないものばかりだ。

 取り分け「仕事で人気の男性声優に会った」と繰り返し自慢されたけれど、出演作をひとつもきちんと視聴したことがなかったせいで、皐月さんには幾分興醒きょうざめされてしまった。


 居酒屋「じゅんじ」を出ると、皐月さんは地下鉄駅のそばでタクシーを拾った。

 そうして「雛番まで送ってあげるから、裕介くんも同乗しなさい」と勧めてくる。

 皐月さん自身は、星澄駅前のホテルで一泊したのち、翌朝都内へ戻る予定だとか。

 もう他の交通機関も動いていない時間帯なので、うながされるまま従うしかない。



「皐月さんはなぜ、僕に美織さんのことを助言してくれたんですか」


 僕は、タクシーの後部座席へ乗り込むと、どうしても気になって訊いてみた。

 今夜の出来事を振り返っても、まだ結局根本的な謎が解き明かされていない。


 皐月さんは、隣の座席から一瞬、こちらをちらりと横目で眼差した。

 だが、かすかに微笑を覗かせただけで、車窓の側へすぐ視線を移す。

 それから後ろへ流れる街並みを、見るともなく見ている様子だった。


「……理由は、主に二つあるわ」


 ほんのわずかに間をはさんでから、皐月さんは穏やかな声音で言った。


「ひとつはね、わたしって今まで美織さんに凄くお世話になってきたのよ。今の会社に入れたのだって、美大の先輩後輩だったおかげだし。だから、こういう機会に少しは恩返ししておきたいと思ったし、古い友人として純粋に幸せになってもらいたいからね」


 随分殊勝しゅしょうな理由なので、少し驚いた……

 と言ったら、さすがに失礼だろうか。

 お姉さん二人のあいだには、本当に強い友情めいたものが存在するようだ。

 学生時代を過ぎても親交を保ち続けている相手同士だけはあるな、と思う。


 さらに続けて、皐月さんは次なる理由に言及した。


「もうひとつは、裕介くんの立場が自分に似ていると感じたからよ」


「僕と皐月さんの立場がですか? それはどんなところがでしょう」


 殊更ことさら予期せぬ話だったせいで、思わず重ねて問い掛けてしまった。

 皐月さんは、やや物憂ものうげに目を細め、こちらには顔を背けて続ける。

 運転席からは聞き取れないような、ぼそぼそともった小声だった。


「わたしの交際している男性が、一九歳年上なのは知ってるわよね」


「ええ、同じ会社の上司さんでしたっけ。たしか西村さんっていう」


「よく彼もね、わたしから好かれ続けられる自信がないっていうの」


 皐月さんの言葉には、そこはかとない自嘲がただよっている。


「実は『年上の恋人を居たたまれない気分にさせることがある』っていう点では、君とわたしは同類なのよ。だから君に伝えた話は、年長気取りの説教のようで、半分はみっともない自戒ってわけ。――見方によっては、わたしの愚痴に君を付き合わせただけかもしれないわ。さもなきゃ自分以外の恋愛を肯定することで、間接的に自分自身の恋愛も肯定したかったのかも……」


 ほとんどかすれ掛かったつぶやきは、途中から半ば自問するような口調になっていた。

 こうして聞くまで、夢想だにし得ない話だった。まさか自分と僕を重ねていたとは。


 皐月さんは、先日「単に好きになった人が部署の上司だっただけ」だと言っていた。

 あれは実のところ本心で、元々は恋人を出世に利用するつもりなんてなかったんじゃないか。

 それ以前も派手な恋愛を繰り返してきたらしいけど、そのすべてが遊びでしかなかったという証拠はどこにもないわけだし。


 もちろん、同時に複数の相手と交際するのは、決して誠実な態度じゃないと思う。

 けれどもし、真相は「皐月さんがあまりに社交的な美人なので、いつも何人かの異性から言い寄られていた」だけだったとしたら? 


 ――何が幸せなのかなんて、当人たちにしかわからない……


 ついさっき聞いた言葉がまた、ぼんやりと思い出された。

 的確な助言の裏側にあったのは、鋭い洞察じゃなく、共感だったのかもしれない。

 それゆえ皐月さんが僕を気に掛けてくれたとすれば、今夜の出来事も納得がいく。



「皐月さんが男性にモテるわけが、色々お話して何となくわかった気がします」


 僕は、暗いタクシーの中で、皐月さんの横顔を見詰めながら言った。

 車窓から射し込む街の灯りで、整った目鼻の輪郭が照らされている。


「とても美人だし――こんなにいじらしいお姉さんだなんて思いませんでした」


「……あのね裕介くん。たしか君は以前にも、わたしを喜ばせるようなことを言ってたけど」


 皐月さんは、なぜか微妙に怒ったような面持ちになって、こちらを振り向いた。


「恋人持ちの男の子は、あまり本当は他の女性にそういうこと言うの止した方がいいからね」




 やがて、タクシーが「ロイヤルハイム雛番」の前に到着した。


 僕は、お礼を言って頭を下げると、車を降りる。

 そのとき、皐月さんに車内から声を掛けられた。

 何か大切なことを言い忘れていたみたいだ。


「最後にもうひとつだけ。――バイト先で君と仲良くしていた女子高生だけどね」


 声も表情も、皐月さんは至極真面目だった。


「あの子と親しくするなら、気を付けておいた方がいいわ。わたしの直感だけど」


「ええっと……。気を付けておくって、いったい何をですか」


「もう今夜の会話でヒントは出したわよ。自分で考えなさい」


 それから「じゃあね」と短く告げると、皐月さんは運転手さんに発車をうながす。

 走り出したタクシーが夜闇に溶ける有様を、呆気に取られて見送るしかなかった。

 僕は、その場に一人で取り残され、数秒余りたたずんでしまった。


 バイト先で仲良くしていた女子高生――

 つまり、晴香ちゃんのことだよね? 

 あの子の何がいけないんだろう。



 まあいいや。それより、今はもっと重大な懸案がある。

 これから、美織さんが待つ部屋に帰らなきゃいけない。


 僕は、マンションのエントランスへ入ると、壁際の端末にスマートフォンをかざした。

 正式に同棲しはじめて以来、認証アプリには管理会社を通じて登録を済ませている。

 エレベーターに乗り込み、行き先に九階を指定した。


 狭い空間が上昇を開始し、二階、三階、四階……と、各階を通過していく。

 僕は、九〇一号室が近付くにつれ、少しずつ気落ちの度合いが増してきた。

 さっきまで飲酒していた経緯を、美織さんに説明するのは大変そうだというのもあるし――

 皐月さんから指摘された問題に関して、自分自身に失望している感情もあったからだ。


 ここ最近「どうしたら、美織さんに報いることができるだろう」なんて考えていたけど。

 翻ってみれば、えっちなことしてばかりで、普通に二人で出歩いてさえいなかったとは。

 じかに言われてみるまで、素で気が付いていなかったなあ。我ながら情けない。


 とにかく美織さんとは、お互いにちゃんと向き合って話そう。

 などと密かに決意するうち、九階の部屋の前にたどり着いた。

 合鍵で出入り口のドアを開き、そこから室内をのぞいてみる。


 廊下の先で、リビングからは光が漏れていた。

 まだ美織さんは、しっかり起きているらしい。



 僕は、いったん深呼吸してから、室内へ踏み込んだ。

 リビングに入って、真っ直ぐソファの付近まで進む。


 そこへ美織さんが仕事部屋から出てきたので、互いに顔を見合わせた。


「……お帰りなさい、裕介くん」


 美織さんは、いつもの部屋着姿でメガネを掛けていた。

 ずっと隣室に篭もって、イラストを描いていたようだ。

 お姉さんが作業に集中して、深夜まで机に向かっていること自体は珍しくないけど……

 僕が皐月さんと飲酒しているあいだも絵を描いていたのかと思うと、ちょっと気まずい。

 しかも現在時刻は、午前二時過ぎ。平時より二時間半余り、帰宅が遅くなってしまった。

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