CASE.3-29
目覚めは最悪だった。目覚めた瞬間から腹部に痛みを感じたような気がしたのだ。あくまでもそれはそんな気がしたに過ぎない。
いつの間にか眠っていたらしい。
テレビの画面からは警察による謝罪報道が取り立たされていた。
智沙は大きなあくびをして、伸びを一つ。目覚めの瞬間は最悪だったかもしれないが、不思議と幸福感が湧き上がっていた。
冷蔵庫から冷えた牛乳を取り出しコップに注いで一飲み。
テレビに映る警察上層部の役人たちは必死に頭を下げていた。間違いを認めたのだ。
詳細を聞くことなくテレビを消して、さっそく支度を始めた。
「何処に行くんだっけ?」
独り言をつぶやいた。警察の仕事はつい数日前に辞表を提出したばかりだ。
誰かに会う予定だったが、何だっただろうか?
数時間前の記憶すら思い出せない。昨日はいつ家に帰ってきて、いつ寝たのか?それ以前に昨日は何か大きなことをやったような気がしていた。だが、はっきりと思い出せないのだ。
(そのうち思い出すだろう)
そう思い智沙は早速支度を済ませ、愛車ミニーに乗り込んだ。
「目的地は?」
試しにミニーに聞いてみた。
『蝶の森林記念病院です』
昨日の自分はデジタルデバイスに予定を残していた。デジタル社会の恩恵を改めて実感し、安全運転で病院に向かう。
「誰に会うんだっけ?」
『…記録にありません』
(誰に会うかわからないで病院に行く?出かけるのやめてしまおうかしら…)
そのような考えが頭によぎったが、どうせ家にいても暇だし、と言うことでとりあえず向かうことに決めた。
『本日のラインナップはマツダアキヒコのチャンピピオン防衛・サカキグループの潜水自動車発表会・27年前の冤罪をめぐる疑惑でお送りしました』
ラジオからはニュースが流れていたが、それらを気にせずチャンネルをを変えた。アップテンポの曲を口ずさみ目的地を目指す。
(さて、どうしたものか)
智沙は総合受付の椅子に座って辺りを見回した。
受付で見舞いに来たけど誰に会いに来たかわからないなんて冗談でも聞けない。大人しく職探しするべきだったかもな、と後悔を覚えながら辺りを見回した。
すると違和感を覚えた。何かが違う気がした。
何となく腕時計と壁にかかった大時計の時間のずれを確かめてみた。だが、変わった違いはない。秒針のずれ程度で気になるほどの違いはないのだ。
「班長、来ていたんですね」
ぎくりとして顔を上げると碓井が立っていた。
「よかった。さやも来てたんだ」
「またまた~。誘ったのは班長じゃないですか」
冗談だと受け取ったらしい。冗談でないことを願った智沙にとって無理に笑うことはできない。
「他のみんなは?」
「桑原さんと渕上さんはもう会場に行っているはずですけど」
「倉さんは?」
「何言っているのですか。これから会いに行くんじゃないですか」
「ああ、そうだった」と話を合わせることにした。どういう経緯で何が起こったのか全く状況を思い出せない。思い出そうとするも脳がズキズキと痛むのだ。
「二日酔いですか?」
「まさか、そんなになるほど飲まないわよ」
「お祝いなのに?」
何に対するお祝いだか覚えていないが、今朝から盛り上がっていた高揚感の正体はこれに違いない。
「それじゃあ、行きましょうか」
「病室わかんないけどね…」とわざと頭を抱えた。
「私、聞いてきます」と碓井は率先して受付に向かった。
(頼りにならない元上司でごめんなさい)と碓井の背中に向かって手を合わせて念じた。
病室の場所を聞いてきた碓井に先導されるようにして、智沙の胸はときめきが宿っていた。待ち受ける何かを心待ちにする気持ちが膨れ上がるのだ。
だが、個室の病室の前で心臓の音が高鳴った。
前にも一度同じ経験をした気がしてならない。同じ病室で絶望感に打ちひしがれたような、つらい出来事に直面したような。あれはいつのことだっただろうか。
「入らないんですか?」と碓井は先に戸口を開いて中に入っていった。
智沙は脈打つ鼓動を感じながら慎重に戸を開く。
横たわる倉本の顔は安らかに眠って、花瓶の花だけがやけに彩を放っていたはずだ。
「お!来てくれたか!」
声の主は倉本だった。ベッドの奥で椅子に座って手を振っていた。
そして智沙の目に想像もしなかった空間が広がっていた。
「わざわざすみませんね」
「こんにちは」
「悪いな。犬ちゃんにまで来てもらって。こんな姿見せたくなかったんだが…」
それぞれに第一声は違うものだった。だが、彼らのだれもが智沙を歓迎してくれていた。
「私ったら、花の一つも準備してなかったわ」
「いいんだって、そんな気遣い。犬ちゃんのほうがめでたいんだから」とベッドに横になっている老人が親し気にかばってくれた。
「リュウ、大好きな犬ちゃんが来てくれたんだ、何かお話したらどうだ」
「うるせえな」
リュウと呼ばれた高校生ぐらいの青年が顔を赤らめていた。
「お話ししようか?」と智沙は彼に訊いてみた。
リュウはコクリと首を縦に振った。耳たぶが赤く染まっていて、何とも可愛らしく思えてしまう。
おかしな話だが、この空間の中で顔と名前がすぐに思い出せなかったのは彼だけなのだ。しかし、智沙の記憶の中には彼の幼少期の思い出がある。彼が小学生の時も会った記憶があるのだ。
「あら、来ていらしたのね」とさらに別の女性が病室にはいるや否や智沙に向かって会釈をした。手には花瓶いっぱいに花が生けられていた。
「お義父さん、俺らもそろそろ行くよ」と倉本がベッドの老人にそう言った。
普通の光景だ。奥さんの父親をお義父さんと呼ぶことは当事者に抵抗がなければ当然の風景だろう。
しかし、智沙は違和感を覚えずにはいられなかった。
ベッドの男性は一時俊久。警察OBで自分をかわいがってくれているではないか?
後から来た女性は彼の奥さん、一時凛子だ。夫婦仲睦まじくお相手してくれて、とても素敵な老夫婦ではないか?
それに倉本一輝。犬養班の頼れる仲間。自分が先に昇級したことを誰よりも嬉しがり、いつも班を支えてくれている。
そんな倉本とともにお互いを支え合ってきた妻は倉本萌絵だ。よく班に手作りのお菓子を差し入れしてくれる優しい奥さんだとみんなが周知しているではないか?
それに一人息子の倉本竜輝。父親と違ってスラっとしたやせ型でいて、なかなかのイケメンに育った。おじいさんへの口の利き方はよくないようだが、本当は素直でいい子だと知っているではないか?
家族全体とても幸せそうで何よりだが、どうもおかしい。
疑問を抱き、記憶を探ろうとすると頭痛がひどくなる。
「大丈夫ですか、班長。どうせならここで見てもらった方が」
心配する碓井に智沙は「平気だから」と気張って見せた。
「碓井。我らが犬養様はもう班長ではない」
椅子から立ち上がって支度を整えながら倉本はそう指摘した。
(そうよ、今の私は無職)と切り返したかったが、頭痛が思っている以上にひどかった。
「本当に大丈夫ですか?」
「ちょっとしたら治まると思う」
現に痛みはほんの10秒ほどで治まった。
「今日は長くなるかもしれないから体調が悪いのなら早くいってくれよ」と倉本は智沙の背中を撫でた。
「私たちも後で伺いますので」と萌絵は智沙に頭を下げて見送った。
(良妻とはまさに彼女のことだ)とすぐ隣の倉本を見てほほ笑んだ。
「じゃあ、行こうか」と倉本が照れ臭そうに智沙の背中を押して移動を促す。
「でも、その姿でいいのですか?せっかくの晴れの日なのに」
碓井は智沙を上から下まで眺め見た。いつのも動きやすい服装が拙いと言いたいのだ。
TPOをわきまえない愚かな真似だけはしたくない。
「どうしたらいいのかな?」
「それはもう、ビシッと決めるべきですよ。制服姿のほうが決まると思うんですけど…、倉本さんも言ってくださいよ」
「あ?いや…俺よりも本人のほうが知っているだろう。俺なんかはずっと昔だからなぁ」と頭を掻いて悩んでいた。
「ダメ、もう限界!」
ついに智沙の口から白旗が飛び出した。
「やっぱり頭痛がひどいんですか?それなら急いで見てもらいましょうよ」
「違うのよ。ホントのこと言うと何も覚えていません!」
智沙の腕ならわからないままに、それとなくやり過ごすことはできただろう。だが、忍耐が持たなかった。
「やっぱり。昨日飲み過ぎたんですよ」と碓井の反応は思いのほか寛容だった。
「飲んだ記憶だってないわ。それ以上に昨日のことも一切覚えていない」
「記憶喪失ってやつか。そういえば渕上も同じこと言っていたな。二人そろって遅くまで飲み明かしていたんだろうねえ」
まさかと思って智沙は携帯電話を探した。しかし、こんな時に限ってバッグの中の何処にもない。自宅に忘れてきたのだ。
頭を抱える智沙に倉本は驚くべきことを言った。
「前途多難だな。主任昇進直後からこれだもの」
式は13時から厳かに行われた。智沙を含めた数名が式の主役だった。時期的になぜこのタイミングなのかと、智沙の頭によぎったが、職員の増員に伴い前もって役職を与える運びとなったのだ。
こんな大層なことを忘れていた自分が情けないと、制服、制帽に着替えた智沙は直立しながらも自らの頭を疑っていた。
主任と言うのも名ばかりで今までの班長とはそれほど変わりがない。ただ率いる人数が班よりも多くなるのだ。その分の責任は重くなるだろうが、より動きやすくなる利点は十分に期待できる。
式を終え、晴れて主任となった智沙のもとにある女性が声をかけてきた。
「初めまして、あなたの上司になる予定の霧山徹子と言います」
差し伸べた手に智沙は快く応じた。
「初めまして、犬養智沙と言います」
「あなたのような優秀な方が主任に選ばれて本当にうれしいわ。頼みにしますね」
「ありがとうございます」と礼を言った智沙の頭にふとある疑問が浮かんだ。
「ところで豊坂さんはどちらへ」
「あれ?聞いていませんか?お辞めになられたのを」
ハッキリ言って初耳だが、言われてみればそんな気がしないでもない。だんだんと記憶が採掘されていくかのようにくっきりとした輪郭をもち、やがてそうであるとしか思えなくなってくる。
「正直に申しますと数日間の記憶があやふやでして…」
霧山の反応は思いがけないものだった。
「そのようね。だって変だったもの。私たち初めての関係じゃないのに、あなたったら素直に初めましてだなんて。私のことも忘れていたんでしょう?」
「これは失礼しました」と真っ先に頭を下げた。
上司に対して無礼にもほどがある。内心冷や汗ものだ。
「いいのよ。何回かしか会っていないのだから。それに記憶があやふやなも倉本さんから聞いていたのよ」
霧山は智沙の反応を楽しんでいるようだった。幾分か失礼な気もするが、当事者たる智沙はなぜか救われた気がした。
「失礼ですが、倉本とはどういう関係ですか?」
「それも覚えていないわよけね…彼の妻とは親友なのよ」
「え?そう…でしたか」
(倉本萌絵の親友か…)なぜか感慨深い気持ちを抱いてしまった。上司が部下の奥さんの友達と言うのはそれだけですごいことだが、それ以上に何か複雑怪奇かつ思いもよらない奇跡のような感慨深さだ。
「行かないと」と霧山は軽い会釈を残しどこかへと消えた。
智沙は一息をついて仲間たちのところへ向かった。朝起きてから居心地の悪い思いがずっと続いている。ここにいるのに場違いなような、知っていた情報に裏切られる連続と自らの所在に至るまで何かがちぐはぐだ。
無職の自分はどこに行ってしまったのだろう?無職が恋しかったわけではない。どうして仕事をやめたと思い込んでいたのかが謎なのだ。
「主任昇進、見事だね」
嫌味にも聞こえる感想は紛れもなく渕上のものだった。
まさかと思った智沙は渕上を捕まえた。
「何のつもり?今朝から記憶がおかしいのよ!」
「昨日、飲み過ぎたんじゃないか?念願の昇進だもの前日祝いにワインを飲みほしたとか、そんなところじゃなくて?」
「そんなんじゃないわ!」と渕上を突き飛ばした。
「あなたも記憶がないって聞いたから、能力で何かしたんじゃないかって疑っただけよ」
「ってことは、君もなのか?」
渕上の答えは鳥肌が立つ思いだった。それが最も言ってほしい言葉であった。
智沙はうなずいて周囲を見回した。式を終えたばかりで、関係者が多く作業を続けていた。
「ここじゃ拙いわね」と智沙は気を配った。
「班ちょ…主任。どこ行くんですか?」と逃げるように会場を後にする智沙に碓井が声をかけてきた。
「ちょっと打ち合わせに喫茶店でもって」
「じゃあ、私も」
碓井は相変わらず智沙にべったりしたいのか、付いてくる気満々だった。
「いいの。これからの展望をちょっとね、こいつをゆっくり説教してやろうと思ったのよ」
「え~?遠慮するよ」
ことさらに嫌な風を装った渕上は智沙から逃げようと必死にもがいてみせたが、それを智沙はがっちりと放そうとしない。
「私も遠慮しようかな~会場の準備もあるし…」
「会場?まだ何かあるの?」
「記憶ないんですものね…昇進を祝って宴会を開こうってことになっていたんですよ。それも覚えていないですか…」
「それが…まったくもって、不思議と…ごめんなさい。でも絶対に行くから」
「絶対ですよ。主役不在で開催なんてしませんから」
そう言って碓井はメモ帳からスケジュールを確認した。
「住所は今送りましたから、19時には絶対にいてくださいよ」
「もちろん。さあ、さっさと済ませましょうか」と渕上の体を強く押した。
「僕も行くから~」
ふざけて振る渕上の手を奪い取って区警本部を後にした。
「つまり、過去が変わって今が変わったということなの?」
「もうちょっと声を抑えてよ。僕ら馬鹿みたいに思われるじゃないか」
渕上は手にした長いスプーンを向けて注意した。目の前には口を付けた大きなパフェが佇んでいた。
「今日だけで十分馬鹿を見た気がする。だって記憶がないのよ。過去が変わって現在が変わったというのにどうして記憶ごとどっかに行っちゃったわけ?」
「多分だけど、変わる前と変わった今の整合性を脳が調整しようとしたんだろうね」
「だったらどうして私たちだけ?ほかの人たちは普通に生活しているようだけど」
「それは不思議だ」とコーヒーを飲みほした。
「ところでなぜこうなったのか覚えている?過去が変わったというのならあなたの能力が関係している気がするけど」
「何となくなら。でも僕は何もしていない。何かをして変わってしまったのならもう少ししっかりとした記憶があってもいいのだけど」
『27年前の女児誘拐殺人をめぐる警察の誤認逮捕について昨日夕方に記者会見が行われました』
かすかに聞こえるアナウンサーの声に智沙は耳をそばだてた。お店に備え付けられたテレビ画面には頭を下げた数名の男性の姿が映し出されていた。
「あの事件は覚えている?」と智沙はそれとなく渕上に聞いた。
「もちろん。君が退職覚悟でリークした事件だろ」と頬杖をついて画面を眺めていた。
「そうよ…そう!あれは本当だったんだ。だから仕事を辞めた気でいたのよ」とつい声に力が宿る。
「だから、声をもっと抑えてよ」と大して慌てることなく頬杖をついた姿勢のまま注意を促した。
「ごめん、ごめん。でもそうなると、不思議よ。辞職するどころか昇進よ。いったいどうしてこの事実が表に出てきたのかしら」
『小学二年生女児を殺害した容疑で逮捕起訴された緒形秀昭容疑者はこのように話しました』
やつれた顔のおじさんが堂々とカメラの前に立って話し始めた。
『失った27年間を返してほしい。時は金以上に大切なものだ。だが償うとしたら大金を見繕ってもらわんと割に合わない。同じ警官だった自分にとってこれほどの屈辱はない。それに真犯人を心から憎んでいる。頬の一発でも殴ってやりたいが、すでに死んだと聞いてやり切れない思いでいっぱいだ』
「私の知っている過去と違う」
「本当にいろいろ変わったみたいだね」
智沙は頭を抱えてテーブルに突っ伏した。再び頭痛が襲ったのだ。
「ダメ、気持ちが悪い」と一言残すと気を失ったように眠ってしまった。
渕上の運転するミニーに揺られながら、智沙の頭の中では脳内神経が気持ちが悪いほどに動きざわめいている感覚が支配する。
ラジオから流れるニュースが耳から脳へと介入し、さらなる混沌を作り上げていた。
渕上に介抱されながら自宅のベッドに横たわった。
(今日の宴会中止かもな)と夢うつつに思ってしまう。
目が覚めたのは夕方6時前だった。起き上がりリビングを覗くと渕上がテーブルに突っ伏して眠っていた。
毛布でも掛けてあげようかと押し入れを漁り薄手のブランケットを肩にかけてあげようとした。するとあることに気が付いた。
渕上は泣いていたのだ。
「どうしたの?」
不安に思い智沙は優しく声をかけた。
「どうして彼らは生きているのに僕の家族は死んだんだ」と確かにそうつぶやいた。
「彼らって?」
「さっきラジオを聞いて気になったもんだから調べてみたんだ。そしたらすべて思い出した」と手元の通信端末を前にちょんと押し出した。
智沙は恐る恐るそれを覗き見た。
そこにはネット上のある記事が表示されていた。
『元プロボクサーを支えた妻阿部汐里に聞いてみた』と題字で銘打たれていた。
なんてことのない主婦層に向けた記事だったが、智沙の目にも衝撃的なものとして映った。
すぐさま『阿部力男』について調べてみた。
阿部力男は2000年大会、翌2004年大会を続けて金メダルを獲得。すぐ後に電撃引退。幼馴染だった汐里と結婚し娘が2人いる。現在はプロスポーツ選手育成のための支援活動に尽力しているというのが彼の経歴だった。
そして『敷島洋次』についてのリンクに飛んでみた。
阿部力男を山野誠とともにオリンピックに導いた後、阿部とともに引退。自叙伝にて阿部を自らの隠し子であることを明言した。脱税の容疑で逮捕された後、現在は隠居生活を送っているというものだった。
ちなみにラジオで報道されたというのは阿部汐里の父親山野誠が経営するボクシングジムの選手、松田が世界チャンピオンに輝いたというものであった。
「そろそろ会場に向かうべきだ」と渕上は目をこすって肩のブランケットをたたみ始めた。
「そうだけど…これでよかったのかしら?」
「仕方ないよ。これが現実なんだから」
「元の世界はどうなったの?」
「ない。世界は一つしかないんだ。どこをどう探したって戻ってくるのはこの世界。僕にとって孤独な世界はこいつにとって幸せな世界になったんだ」とスーツ姿で撮影に応じる阿部を指して言った。
「それってすごいことじゃない。私たちかはわからないけど、世界を少しでもいい方向に向けられたのだから」
「そうかもね。事件は起きなかった。マイナスの出来事がゼロになったんだ。喜ぶべきことかもしれない」
「そうよ」と智沙は端末の画面を消して時計を確認した。すでに目覚めてから20分が経過していた。
「ところで宴会へは行くのでしょう?」
「もちろん。君のお祝いだし、あとで碓井ちゃんに怒られる」
そう言うことならと智沙は急いで支度を整えた。手っ取り早く済ませていつもの歩きやすい靴を履いて玄関に立つ。
「早く、行かないの?」
すりガラスの奥に蠢く影を写し、もたもたとした様子の渕上に声をかけたが一向に返事はない。
「ねえ、カギが閉められないんだけど」
しびれを切らした智沙は靴を脱ぎ、再び部屋の中へ戻った。だが、そこに先ほどまでいたはずの渕上の姿はなく、代わりに置手紙がテーブルの上にあったのだ。
『先に行ってくれ』と一言。
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