CASE.3-18

 敷島ボクシングジムでの騒動は結局丸く収まった。

 虐待の疑いを掛けられた敷島洋次は被害者である阿部力男が告訴せず、証拠不十分として刑事罰をまぬかれた。だが、協会側からの処分により3年間の大会出場中止を言い渡されたことが響き、多くの生徒や会員が離れて行った。

 そんな中でも阿部力男は離れて行かなかった。オリンピック出場を目標に技術を磨いていった。惜しくも出場中止処分の影響で2000年の出場は果たせなかった。

 出場中止処分明け初戦から阿部による怒涛の連覇が成し遂げられた。チャンピオン防衛戦の無敗記録を打ち立てる快進撃により、敷島のジムは活気にあふれた。戦績から自他ともに圧勝と思われた2004年オリンピック大会は惨敗。けがの影響により予選敗退。期待が寄せられていただけに周囲の落胆ぶりは大きかった。

 それでも阿部は強かった。憎らしいほどにチャンピオンの座はそう容易く明け渡そうとはしなかった。幾度の防衛戦を迎えて、さらなる躍進が期待された。

 来たる2008年オリンピック大会。予選通過は当たり前だった。試合開始5分でTKOを決める圧倒的勝利を見せつけるなど、本大会へと余裕で勝ち越した。世間の期待は当然、金メダル。無敗の王者への期待は当然のものだった。そして待っていたのが出場失格。ドーピング検査に引っかかり大会にすら出場できなかった。不幸なことに摂取した飲料水が引っかかったのだ。

 それからというものの試合は不振が続いた。年齢的な面で若い選手に及ばない。引退目前だと誰もが口をそろえて言ったものだった。

 そんな阿部が伝説的選手ともてはやされるようになったのは2020年のことである。

 最年長38歳による出場を果たしたのだ。もはや忘れ去られた過去の選手による奇跡の復活が人々の心をわしづかみにした。

 オリンピックに出場できないジンクスに悩まされた男はリングに立った瞬間英雄扱いされた。結果は二回戦判定負け。それでも祝福された。待ちに待った世界の大舞台に立てた喜びとオーナーへの感謝の気持ちを述べたスピーチは大会を人々の記憶に印象付けるものとなった。


 そして迎えた2024年大会。阿部の後輩、つまり敷島ボクシングジム所属の選手、黒木剛志に注目が集まった。世間はメディアの影響で敷島ジムを悲願の目標に立ち向かう挑戦者、さらには不屈の精神の宿る半ば神的な存在として捉えている節があった。

 敷島が阿部を殴りつけて教育したことを美談とし、去り行く会員たちが多くいる中を居残って、二人三脚で大会を目指したという話に尾ひれをつけた。

 それが俊久にはどうしても許し難かった。

 娘が失踪してから25年間、振り子が壊れ、時間の流れが止まったように静かだった。

 新聞を破り乱雑に投げ捨てると、机の棚から過去のファイルを取り出した。捨てられずにいた古い資料はほこりをかぶっており、息を吹きかけるだけで塵が舞う。忘れたことは一度もなかったのに、いつしか疎遠になっていた。

 触れることを無意識に避けていた。

 ターニングポイントがどこかと聞かれたら迷わず答えるだろう。

 「99年」

 背表紙に手書きで施されたタイトルを指で触れ、声に出した。

 あの頃の記録も記憶もすべてが詰まっている。やりかけの宿題を目の当たりにする高校生の気持ちに戻った。すべて答えが出ている問いに改めて立ち向かうのだ。

 『女児誘拐殺人事件』

 担当責任者名は杉田駿警視。長谷川満犯人説を遂行し、起訴。有罪判決の後、獄中で病死。

 新聞のスクラップは罪悪感で集めたものだった。

 最後までやり切ることができなかった事件の一つである。長谷川満の犯人説を覆す大きな証拠があったはずなのだが、それが何だったかは思い出せない。

 新聞記事とともに不要になった当時の証拠資料、写真、自らの手帳の切れ端が張り付けてある。

 そして『連続女子高生行方不明事件』

 名前は伏字。娘と思われる当時17歳の名前の下には『仮』の字が添えられていた。

 事件が大きく報じられたのは99年11月。同じ学校の女子生徒が突如姿を消し たことのミステリアス性に事件報道へと発展した。

行方不明者は3名。

 一人目は当然ながら、一時萌絵。俊久の娘。

 行方不明者の親が警察官だということも事件を大きく報道した理由の一つだった。

 二人目は山野汐里。捜索願もむなしく失踪。

 当時有力だとされた被疑者は阿部力男。一度の聴取以降正式に聴取されたという情報は残っていない。

 三人目の被害者を知ったのは娘の失踪からほどなくしてのことだった。

 被害者女性は石原徹子。しかし彼女の場合だけはケースが違う。

 行方不明の後、遺体で見つかった。遺体の顔を拝んだ時は気が付かなかったのだが、遺族から写真を見せてもらって初めて俊久は愕然とした。

 一度話をしたことがある女性だった。

 なぜわからなかったのか。それは単純な話、顔が違った。写真に写る石原徹子は俊久の記憶に残っている彼女その者だった。派手な髪色に黒メイク。当時の流行そのままの彼女はまさしく電車で会っている。石原徹子は娘の友達に違いなかった。

遺体の石原徹子は化粧をだいぶ抑えており、髪色も黒に戻され、写真の彼女とは別人の姿だった。

 遺体は川岸で発見されており、溺死と判明した。これだけなら単なる水難事故と処理されてしまいそうだが、事態は複雑だった。

 石原徹子の遺体が見つかったのは失踪の十日後。その間、彼女がどこで誰といたのか一切の連絡が途切れていたのだ。十日間の内ずっと川に漂っていたとは考え難く、司法解剖の結果、彼女は長くても24時間しか川に浸かっていないことが解明されている。空白の十日間を知る者は誰もいなかった。

 一連の行方不明事件は失踪者2名、志望者1名で事件は時効を迎え、迷宮入り。

俊久は破り捨てた新聞をぼんやりと眺めた。

 床に散らかった紙面には写真が掲載されている。顔を真っ二つに裂かれ口から下半分の何者かの姿が窓から差し込む日差しに照らされていた。

 自分で散らかしたごみを片付けるのも億劫だった。

 99年以降、人生は下り坂。

 五歳女児事件での疎外感もあったが、何よりもわが子の事件を外されたことが応えた。回された事件に身が入るはずもなく、どうせならと担当を外れた後も独自の調査を続けたのだ。

 始めのうちはよりを戻した妻のおかげで捗りを見せていたが、歳月を重ねるうちに忙しくなる日々と消えゆく手掛かりにすれ違いが続き、妻とは結局離婚。

 中原香とは事件からすぐに疎遠となり、何処か別の男と結婚したという話を風のうわさで聞いた程度だ。

 倉本一輝は1年近く俊久の事件を手伝っていたが、人事異動の末、彼とも疎遠となった。

 せっかく引っ張り出してきた事件ファイルだったが、どうしようもできない。ページをめくるごとに昔の記憶が嫌というほどによみがえる。時間の経過とともに風化したはずの苦い思い出が傷になってうずく。

 (いっそのこと)

 広げた資料を乱雑にファイルに挟めた。ぐちゃぐちゃにまとめた書類の束をつかみ上げ、ごみ箱に投げ捨てた。そうすることがいいのだと自分に言い聞かせ瞬発的に決断した。

 もはや娘の存在を感じさせる気配も希望もない。

 ふと見た鏡にはすっかり衰え、気力の欠片もない老人の姿が映っていた。

 俊久はコップ一杯に水道水を注ぎ、ソファーに腰掛けた。午前中飲むはずの常備薬を飲み忘れたことを思い出したのだ。

 床に投げ捨てた新聞の欠片に目が行く。よく見ると新聞の紙片とは関係ない何かが裏向きに落ちていることに気が付いた。それは投げ捨てたファイルから零れ落ちた何かには違いない。

 億劫だが散らかしたままではいられない。薬を口に含む前に腰を上げ床を這った。

 紙片をかき集めて一か所に山とした。その過程で写真が一枚表向きになった。

 山野家の家族写真だった。親子三人が幸せそうにカメラに向かってピースポーズを向けていた。

 「解決できなくてごめんよ」

 今更いたたまれない思いに浸るつもりはなかったが、何の気なく写真を眺めた。

 するとある個所が目に留まる。巻貝の形をしたネックレスだ。意匠がそっくりなネックレスをどこかで見た記憶がある。一度脳内を巡らせてみた。脳の衰えは思い出せそうで思い出せないことを無理にも追及することで効果があると聞いたことがある。半ば脳トレに近いゲーム感覚で特殊な意匠のネックレスを探した。

 「ダメだ」

 惜しくもあと少しのところで諦めた。潔く紙くずの山をまとめてごみ箱に向かった。写真を盆のようにしてきれいにまとめ上げた。こうすれば再び散らかしてしまう心配はない。

 ごみ箱の淵に盆にした写真をひっかけ、それを傾ける。

 「ん?」

 貝殻の意匠が目に入る。写真のそれではなく、また別の写真。

 破り捨てた元凶。阿部と黒木が肩を組んだ写真。胸元にそれがあった。筋肉で盛り上がった胸の中央に似合わない小さな形。

 瞬間的に雷に打たれたような衝撃が走った。ただの装飾品からその意味を手繰り寄せる。

 「まさか!」

 投げ捨てた事件ファイルを取り出し、そのまま床一面に広げてページを漁る。雑に入れた資料は折れ曲がっていて、変なところで傷がついていた。

 何度も見ていたはずなのに気が付かなかったサイン。探し出した目当ての写真は折れ曲がっていなかった。

 老眼鏡も虫眼鏡も手元にない。目を凝らして写真を見比べた。

 確信できない。やはり目が霞んで対象を捕えることができなかった。

 三枚の写真を大事に抱えて眼鏡を探す。普段使わない眼鏡は書斎の机の中だろう。結局机をひっくり返して見つけたのは虫眼鏡の方だった。

 家族写真、新聞の写真、そして片方のヘッドライドが割れたシルバーの車の写真。これは発見直後のものというよりは、敷島の体罰発覚の際に撮られた写真。施設の客観的状況の把握に用いる写真だった。被写体はあくまでもボクシングジムであり、そのわきに例のシルバーの車体があるのだ。

 三枚を見比べた。特殊な意匠、巻貝のネックレス一つは山野汐里の胸元、一つは今や国民的英雄阿部力男の胸上、そしてもう一つは事故車両の助手席、ダッシュボードの上。確かに光る巻貝のそれが置いてあるのだ。

 同じネックレスが写真に写っていた。だからそれがなんだというのだ。

 仮にそれが本当に山野汐里のものだとしても、彼女の意思で阿部に渡した可能性だってある。そもそも同じようなネックレスをたまたま見つけたとも考えられるではないか。

 それでも俊久は何かとんでもないものを発見した気になっていた。

 正体不明の確信的疑惑に体の底から気力がよみがえるようだった。

 それからというものの俊久は若返ったように気力に満ち溢れ捜査を続行させた。その過程で倉本一輝と再会を果たすのだ。

 お互い年を取ったと認識していたが倉本の体型と老け具合になかなかの衝撃を受けつつも捜査の進展具合を話し合った。結局何の収穫もなかったのだが、久しぶりに悪酔いした。

 悪酔いついでに倉本にこう口を滑らせた。

 「俺が死んだら敷島ジムを疑えよ」

 近いうちジムを訪れることを話題にしていたのだ。考えてみればブラックジョーク的発想で場を和ませたかったのかもしれない。

 倉本も本気にしておらず楽しい会話の一端にすぎなかったはずだ。

 オリンピックの期間、前回の二〇年大会では大会後事件が発生しただけに開催を危ぶまれていた背景がある。予定していた開催時期を一カ月ほど後にずらし大会が催された。

 競技開催のなか、ボクシングの試合だけはあえて見るのを避けた。絶対話題になるのは黒木剛志の実力と阿部力男の英雄伝からの敷島ジムの指導へとの流れ。そのはらわたを煮えくり返すのような構成を見てしまった夜には必ず悪夢が襲った。

 悪夢には決まって娘が現れる。何かから逃げている。何かが自分であると気が付いた時に目が覚めるのだ。何よりの嫌悪を誘ったのは娘が下着姿のままなことだ。あの敷島ジムへ押し入った時にかき集めてきた娘の私物を彼女は両手いっぱいに抱えて逃げていく。走りにくそうなのに自分は追いつけないもどかしさを感じているのだ。

 テレビでは黒木の話題が必ず上がる。順調に勝ち越しているらしい。

 日増しに期待高まるメディアの誇張に俊久は抗うことをしなくなっていた。悔しくも自然と黒木に目が行くのだった。

 そしてオリンピック大会期間中毎日悪夢にうなされた。少しずつだが夢が変化していることに気が付いた。娘に近づいている。三日目には手を伸ばせば届く範囲にまで自分が迫っていた。

 次の日には手が届いていた。そこで目を覚ます。気が付けば目覚まし時計の五分前。なぜだか目から涙を流していた。

 黒木のメダル獲得が確定した夜、久しぶりに阿部がカメラの前に立った。誇らしげに後輩をねぎらい、自らの功績を超えたことを褒め称えているのだ。阿部が画面上に現れた時、瞬時的にテレビを消そうとテレビリモコンを手にしたのだが、電源ボタンを押さなかった。阿部の首下に例のネックレスが下がっていることに気が付いてしまったのだ。

 それだけネックレスは大事だということなのだ。

 すると俊久の頭に何かガツンと来る大きな衝撃が走る。

 夢で何度も見ていたはずのあの光景がよみがえる。

 毎夜逃げ走る娘に近づいていたわけではなかった。近づいて見えていたにすぎなかった。何度も彼女を捕まえ姿を見ていたのだ。ただ覚えていなかっただけ。

 下着姿の娘、その胸元に光るネックレスはテレビで見たそれと同じ。

 夢はネックレスの存在に気が付くと瞬く間に走る電車の中に場面が切り替わる。

 真剣な面持ちで窓の外を眺めていた。

 いきなりの悲鳴。そして振り返る。

 顔を引きつらせ体を反らす娘の姿。顔を見た瞬間体が大きく揺れる。

 その続きは覚えている。娘の友達石原徹子に絡まれ、萌絵が俊久を父であることを釈明する。徹子の止まらない愚痴話。最寄り駅で下りる友達に恥ずかしそうに手を振る娘。

 ぎこちなく数年ぶりに話しかけられ、父親ぶった対応。

 駅を降りてからも続くぎこちなくも幸せな瞬間。

 「まだ気が付かないの?」

 突然隣を歩く娘が立ち止まり訊いたのだ。

 「何が?」

 このような会話はしていない。少なくとも覚えていたのは不登校になっている同級生の話だ。

 そういえばそうだ。娘は唐突に警察署を訪れ当時行方不明だった五歳の女の子を気にかけている節があった。倉本の作り話だとあまり気にしていなかったが、その日の帰り道、そうつまりこの唯一、二人で歩いた帰り道、娘は家出中の同級生を気にかけていた。

 「気にしていたのは山野汐里のことか?」

 「そのことじゃない。本当に何も気が付かないの?」

 怒っているわけではない。むしろ悲しんだ表情でこちらを気にかけているようだった。

 「ごめんよ。俺には無理だ」

 「私を見て」

 萌絵は真剣な顔をして俊久を見ていた。面と向かって顔を合わせたことがなかった彼には照れ臭かった。

 「もう、いいだろ。そんなこと。気が付かないことは、どうしようもないことだ」

 娘も諦めるだろう、そう思って顔をそむけてしまう。

 しかし、萌絵は動こうとしなかった。

 「どうした?早く帰るぞ」

 (帰る?どこに?)

 夢の中の俊久は当たり前のように口に出た言葉に動揺した。親子の会話はこの瞬間しかなかった。最初で最後のチャンスを自ら不意にしようとしていないか?

 「お父さんのバカ」

 娘の言葉が突き刺さる。

 「もっとわかりやすく教えてくれよ」

 俊久の要求に萌絵はおもむろに背負っていたカバンをその場に投げ捨て、さらに上着を脱ぎワイシャツ姿で正面に見据えた。

 その瞬間俊久は我に返る。一人さみしくソファーに腰掛けテレビに呆けている日常につき返された。テレビはまさに試合中。準決勝戦の模様が中継されていた。

 リングの外で応援する阿部の姿が映し出され、黒木の右ストレートが相手選手を追いやっていた。

 俊久はその一瞬の隙を見逃さなかった。首元に掛かるネックレスを大事そうに撫でている姿。

 「あの日、萌絵も掛けていた」

 疑惑が確信へと変わった瞬間だった。

 娘は山野汐里失踪の件に関わっていたということに。

 ではなぜ山野汐里は失踪しなければならなかったのか。それには一つの仮説が思い浮かぶ。テーブルに散らかった資料の断片を片っ端から漁る。昔一度だけ疑いの目を向けたことのある事実。

 古い記録の中から自らのメモ書きを見つけ出した。それは山野誠についての小さな記録だった。

 俊久はそのメモをポケットにねじ込むと帽子を取った。

 テレビからは落胆の声が聞こえてきた。見れば黒木がリングに倒れているのだ。レフリーのカウントが行われていた。観客はカウントに祈りを込めているようだった。

 間もなく俊久はテレビを消し、アパートを出た。


 敷島ジム所属選手の帰国から1週間。結果として銅メダルの成果でピリオドを打った黒木の功績はそれなりの評価を受けていた。敷島ジムの評価・知名度共に上昇傾向といったところで、受講希望者で溢れていた。

 その人込みの中に一時俊久がいた。希望者は年齢層が広く、俊久のような存在はそう珍しいものではなかった。

 「おじさん、ボクシング経験は?」

 俊久の半分の年齢も取っていないだろう青年が受付を担当していた。

 「俺は受講希望者じゃない。オーナーに会いに来たんだ」

 「オーナーですか…あなた誰ですか?」

 「そこは確認のアポイントを取るものだろう?」

 「ああ、ちょっと待って」

 青年は足早に奥へと引っ込んだ。

 待っている間辺りを見回した。久しぶりに訪れたジムは見違えるほどにきれいになっていた。昔の古びた廃屋は見る影もなく、整えられた体育館と7階建てのビル、ゴム製のグランドまで完備されていた。リングは3つもあり、シャワーとプール完備の高級ジムへと姿を変えていた。

 体育館の壁には写真が飾られ、阿部や黒木、他にも多くの選手の功績をたたえるものになっていた。

 「予定があって無理だって」

 なんの前ぶりもなく受付を担当していた青年がそう言った。

 「電話はないのか?普通内線でつながっていたりしないの?」

 「あるんだけど、出れないかもしれないから直接聞きに来るようにって、オーナーの指示です」

 「そうか」

 俊久は中へと入っていく。

 「ちょっと、おじさん」

 青年は止めに入ったが払いのけて押し切った。

 「受付しなくていいのか?」背歩きして受講希望者の団体を指した。

 青年はキーッとなり、元の受付の席に戻っていく。

 オーナーがいることは分かったのだから、直談判で構わない。元より正体を明かしたところで面会してくれる可能性は高くはないはずだ。

 俊久は直感でビルを進んだ。昔見た汚らしい廊下も臭いのきつい部屋もない。ビルは居住空間に違いないが、マンション並みの下宿施設へと変貌していた。

 フロントに着くとフロアー表を確かめた。ジムの規模拡大に伴い、昔はなかったしっかりとした事務所を構えたようだ。

 フロアーの上階部分を占める事務所へと足を運んだ。事務所を構えている割にはがらんどうとしていた。マスコミの対応に追われているのだろうか。職員と呼べそうなものは見当たらない。ちゃんとした大人が受付の受講希望者に構っている余裕はないということに違いない。

 「何の用ですか?」さっそく気が付いたように奥から若い男がやってきた。

 俊久は自らの名刺を取り出しそれを示す。昔、使っていた古名刺で肩書は警察時代のもののままだ。

 「警察の方ですか?」

 「昔な。敷島洋次に合わせてほしい」

 「アポイントメントは?」

 小憎らしい職員の言い方に俊久は意地悪したくなった。

 「君は25年前、この周辺で9歳の子供が殺された事件を知っているか?」

 「さあ?生まれていませんので」

 当然の返しだろう。俊久はジェネレーションギャップをさして気にせず続けた。

 「当時、ここに容疑がかかったことは?」

 「まさか?」

 男性職員は想定した通りの驚きを示していた。

 「しかも、その事件に新たな証拠が挙がったとしたら?それを私が週刊誌に売ったらとんでもないスキャンダルになるとは思えないかな?」

 「ちょっと失礼します」

 待ち惚けは慣れっこだ、好きにしてくれと言いたい気分だった。もはや25年間もまたされた結末だ。今更時間を惜しむ気持ちはないと言ったら嘘になるが、もう惜しむ時間はとっくに忘却の彼方に投げ捨てた。

 「久しぶりだ。一時警部」

 アロハシャツで髪の真っ白な老人が姿を現せた。数度テレビで見た姿よりも相当ラフないでたちで敷島洋次が現れた。

 「もう警部ではありません。警察はとっくに引退しております」

 「お互い年を取ったわけだ」

 敷島は手を添えて中へと誘導した。

 オーナー専用の個室に誘われ大きなソファーに腰を下ろす。そしてカバンの中から『99年ファイル』を机に堂々と置いて見せた。

 「今日は何ようかね?」

 「娘の件だ。これ見てわからないか?」

 「まだ諦めていないのか?もう何年前だ?」

 「25年前です。今でも娘には悪いことをしたと思っています」と俊久は即答した。

 「俺には子供はいないからその気持ちはわからんが、気の毒だ」

 「結婚は?」

 「この通り、独り身だ。教え子たちがいるおかげで悲しくはない」

 「ああ、オリンピックおめでとうございました」わざとらしく話を続けた。

 「テレビや新聞で何度も観させていただきましたよ。例えばこれとか…」

 ファイルから数枚の紙きれを取り出して並べた。それは新聞のスクラップだったり、テレビの映像を写真にしたものや、雑誌に掲載されたものの一部といったものだ。そしてそのすべてに共通しているものがある。

 「このネックレスはご存知ですか?」

 俊久はもっとも大きく写っている写真を手渡した。

 「ああ、坊主がいつも身に付けている」

 「誰からもらったか聞いていますか?」

 「知らんな。妻といったところだろ」

 「それは違います。阿部選手が今の奥様と結婚するずっと前から身に着けていたものです。大事な試合やインタビューの際は大体いつもつけていました。それだけ彼にとっては大切なものなのでしょう」

 用意したあらゆる年代、場面の写真を並べていった。言われた通り必ずといっていいほどに例のネックレスが首元にあった。

 「話が見えないな。一時さん。そんな報告のためにわざわざご足労いただいたのか?」

 敷島は苛立ちを隠さず両足をテーブルの上に投げ出した。

 「このネックレス。私の娘から渡ったものと見て違いないと思っています」

 「そう言うのならそうなんだろうね。だからどうした?」

 「いやあ、もっと遡ればこのネックレス、山野汐里という少女のものだとわかったんです」

 俊久は例の家族写真を突き付けた。ネックレスのあたりに指を添えて現在の阿部のそれと照らし合わせる。

 「これを偶然と見るかどうかは自由です。端的に言って私は山野汐里さんはこちらの誰かに殺されたとみています」

 「証拠はないだろ」

 「これだけではありません。山野汐里さんの父親、山野誠さんについてです」

 敷島は山野誠の名前に過敏に反応を示した。それをごまかすためか放りだした足を引き戻し姿勢を整え膝に腕をつけた。

 「ご存知ですよね。山野誠さんを」

 敷島はポケットをまさぐり煙草の箱を取り出した。

 「あいつは事故死だ」と震えた手でライターに火を灯した。

 「それはどうでしょうか?人の見方によっては事故だと見えるかもしれません。ですが、本当に事故で片付けられる死に方だったでしょうか?私は念のために過去の事件を洗ってみたのです。すると当時の自己の記録が見つかりました。今の技術なら当時の事件の状況を再現できるんですよ。なのでそちらにお願いして確認してもらいました。すると驚きましたよ。ブレーキに異常があったんです。明らかに何者かの細工によるものだとわかったんです」

 これも資料で用意済みだった。数値が並べられた検証結果資料は法的根拠に基づいたもの。当時の事故写真からはガードレールを突き破って崖下に突っ込んだ車両の凄惨さが見て取れた。

 「一時さん、そんな紙いくら並べたところで過去のことですよ。何年前のことだったかな?」

 「事故は1999年。25年前ですね」

 「お引き取りいただこう。時効成立済みの案件をわざわざお調べいただいたようだが、楽しませていただいた」

 敷島は咥えていた煙草を灰皿に押しつぶし、ソファーから立ち上がると愛用の椅子に腰を移した。

 「お認めにならないんですか?山野誠氏の事故であなたはこのジムの経営権は独占できました。山野氏の事故の上に今の地位があると自覚していないわけではないでしょう」

 「あなたは結局何が望みなんだ。もう20年以上も前のことを並べ立てたところで過去は変わらんだろうが」

 「俺の望みは25年前から変わっていない。娘だ。あの子は何処に行ったんだ」

 「俺に聞くな」

 敷島は興味をなくしたように書類作業を始めた。

 「頼むよ。教えてくれ。せめてあの子がどこにいるかだけでいいんだ」

 俊久は藁にも縋る思いで敷島に掛け合った。相手が憎き敷島であろうと構わない。膝を床につき頭を体でうずめて泣きついた。

 敷島は受話器をつかみ暗号めいた言葉を口にした。するとすぐに何者かが部屋にやってきた。

 「オッサンか?」

 俊久は顔を上げると、そこにはこちらを見下した阿部の姿があった。

 「懐かしい。元気だったか?」

 間の抜けた挨拶を向ける男に俊久は低い姿勢から飛びかかった。

 突然の突進に気を許した阿部は見事に身体を投げ出されソファーの背もたれに体を打ち付けた。

 俊久は正気を取り戻し阿部を背後から羽交い絞めにした。

 「ジジイ、何する」

 もがき苦しむ阿部の首筋に冷たい刃物が触れる。

 「娘がどうなったか言わないとこいつを殺す」

 「一時、正気でも狂ったか」

 敷島が近づこうとしたら首の刃物を強く押し付けられる。少しの接近も許されない状態だった。

 「本当のこと言うと週刊誌に売りつけることも考えた。オリンピックメダリストの英雄を生んだ立役者に実は殺人疑惑があるなんてきっと世間で騒がれるだろう」

 「馬鹿言うな。事実無根で週刊誌が何を取り扱うって」

 阿部が刃物を避けるように首を上げて反論した。

 「元警官だ。そこにある資料のほかにも信憑性のある書類は十分に保管してある。俺の実名での報道となればなおのこと聞いてもらえるだろう」

 「もういい」敷島はぼそりといった。

 「もういいって何が?」

 「阿部、こいつの娘をどうしたか教えてやれ」

 俊久は阿部の顔を覗き込んだ。

 「言えない」阿部は震えていた。

 「言え!」刃先を首にこすりつけた。肌が少し切れて血がしたたり落ちている。

 「わかった」阿部は観念したようにすべてを白状し始めた。

 すべてを聞き終えた時、体から力が抜けるのを感じた。結果的に事故だと言い張る阿部と不可抗力で遺体を処理したと語る敷島。そして浮上した第三者の存在。そのどれもに悪意を感じていない。阿部に至っては未だに萌絵を忘れることができず、彼女が最後に身に付けていたアクセサリーを大事にしている始末なのだ。それがもとは山野汐里のものだと知らずに。

 残忍な事件の背景には間違った指導によって正された師弟関係が存在していた。

 事件は根深い。俊久は直感した。

 山野汐里、当時5歳の女の子、石原徹子。三者の事件の背景にも敷島ジムが絡んでいるに違いない。一刻も早く再捜査してもらわねば。

 俊久はナイフを収めて急いでファイルの資料をかき集めた。

 「お帰りかな?」

 のそりと立ち上がる阿部の首筋には小さな切り傷が残っていた。

 「悪いが報告しないとならない」

 俊久はポケットからボイスレコーダーを取り出した。試しに再生してみると「今日は何ようかね」と雄弁に話す敷島の声が流された。それは会話の一部始終がデジタル情報で収められたことを意味する。

 「25年前にはこんな小さな機械ありませんでしたからね。便利になったものだ」とレコーダを手のひらで覆い、カバンの隙間に流し込んだ。

 振り返り出口を目指そうとしたときだ。視界がいきなりひっくり返る。痛みを感じる前に血の臭いと赤いガラスが感触を誘う。

 テーブルのガラスに勢いよく頭を打ち付けた俊久は一瞬のうちにして意識を失ったのだ。

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