CASE.3-09

 時空を超えて襲われそうになった智沙は意外にもケロッとしていた。

 「どうせなら、7時に戻って温泉に入りたい」

 元の時間軸に戻ってきた二人は再び過去に戻ることになった。この時間軸的にはほんの2時間前。

 渕上は智沙の願いをかなえた。僕はタクシーじゃない、と文句の一つも垂れたいところだったが、そうすることが間違いではないような、少しでも慰めになるのならと思ったのだ。

 「この日は温泉に浸かっていないから大丈夫よね」

 気丈に振舞う智沙に渕上は頷くことしかできないでいた。

 「ちょっと、待った」と渕上はジャケットを手渡した。

 「サンキュー。ありがと」

 そう言って智沙はボロボロになった服の上からジャケットを羽織り、何食わぬ顔で旅館に入っていった。

 (この時間はまだ客室で食事をしているはずだから鉢合わせの心配はないだろう)

 旅館への侵入が成功した智沙を遠目から見守った渕上は再び時間移動の起点となった時間軸へと戻っていった。


 智沙はジャケット両手を前で交差させ肩の部分をつまんで歩いた。体が自然と縮こまり小さく見えただろう。

 「お客様。どうかなさいました?」

 声を掛けられ振り返る。そこにはあの美魔女仲居が立っていた。

 「大浴場どちらかなぁ~と」

 自分が今ブラジャーを着けていないことを悟られまいと体を隠していたが、それが目立ったらしい。見ればズボンが土まみれでみすぼらしくて仕方がない。

 「浴場でしたらこちらの角を左に曲がり、次の角を右に曲がりますと地下への階段がございますから、そちらを降り突き当りに浴場がございます。階段を上りますと温泉もございます」

 智沙は聞いてしまったと後悔した。この美女仲居様と出会うのはまだこれから先のこと。今出会ってしまっては影響が出るのではないか、と今更ながら思ったのだ。顔をできるだけ隠し、礼を告げ急いで温泉を目指した。

 時間帯にしては閑散としほとんど貸し切り状態であった。

 しきたり通りに体の汚れを落としてから、いよいよ温泉に向かう。

 (美女仲居様の言っていた温泉はここかしら)

 智沙はひときわ目立つ石造りのお湯に足を入れた。乳白色のお湯に浸かり体を清めた。心なしか、気休めか、肌の張りが若返ったような触感に歓喜のあまり顔までつけていた。10秒以上、息を止めては頬に触れ触感を楽しんだ。

 何度となく繰り返した子供じみた遊びは気を紛らわせるには不十分だった。リズミカルな動作から逸脱し、10秒しても頭を上げない。お湯から顔を引き上げようとせず体をしならせたまま息継ぎをためらう。

 苦しくなるのがわかっていても頭を引き上げようとしない。ブクブクと鼻から口から空気を少しずつ吐いても頭を上げるのがつらいのだ。

 男に襲われることがこれほどに怖いことだは思ってもいなかった。自分にはそれなりの護身術も備わっていてる。いざとなれば男の一人や二人ぐらい投げ飛ばすことだってできると自負していた。まさか自分が被害者の立場になるなんて思いもしなかった。力づくで弄ばれ抵抗できない恐怖を一身で受けて、気が紛れるなんて簡単にできるはずはない。

 お湯に浸かりながらでも目から涙があふれていることがわかる。

 (このまま温泉で溺死?あいつにバカにされそうね)

 心の中で渕上を思い返した。そんな非常な人間ではないことは知っていた。渕上と言う男は自分の身を投げ売ってまで智沙を時間のループから救い出したのだ。

 (ループなんてバカみたい)

 信憑性の乏しい絵空事。そもそもループの中にいたという話もどのように受け止めるべきか、いまだ確かめるすべがない。

 「班長!」

 聞き覚えのある声が幻聴のように脳に響いてきた。だが、すでに頭を上げる気力がない。

 お湯は飲んでいなかったが意識が飛んでいた。

 頭を水面から引き揚げられ大きな深呼吸とともにせき込んだ。

 「班長、大丈夫ですか!」

 碓井だった。真っ青な顔をして肩をつかんで前後に揺らす。乳飲み子にやったら死んでしまう、いわゆる揺さぶられっこ症候群と同じ動きである。

 (後で注意してあげないとな)と意識の外から思っている不思議な状態だった。

 ここは温泉。当然ながら全裸の碓井が半身を温泉に浸かった状態で目の前にいた。

 「死なないでくださいよ!」

 死ぬ、と言うワードに智沙は心臓の高ぶりを覚えた。ぼんやりとしたままだったが意識だけはそこにある。

 (脳死?植物状態?そういえば昨日から…今日の朝からタイムトラベルしてろくに眠っていない)

 タイムトラベル時刻を含めるとすでに次の日の昼頃になる計算が導き出された。このどうでもいい計算を頭ではじいていて我に返る。

 「死んでない。のぼせただけよ」

 「よかった」

 安堵した碓井は周囲を見回し恥ずかしそうに片手でタオルを胸元に添えて、お騒がせしました、と挨拶を交わした。いつしか利用客が数名群がっていたのだ。

 裸のまま救急車に乗せられる事態を回避したと考えると冷や汗ものだった。

 「心配かけたみたい…。ごめんね」

 「本当に良かった」

 智沙は立ち上がり温泉を抜け出ようとした。熱気でふらついていたが、碓井の介抱のおかげで脱衣所へと抜けることができた。

 「温泉を楽しんで、部屋に戻るから」

 「本当に大丈夫なんですか?」

 「少し休んでから行くから心配しないで。それに伝説の温泉は今日しか味わえないわよ」

 押しつけがましく碓井を追いやろうとした。

 それでも碓井はすんなりと入浴を楽しもうとしない。いたいけな部下が上司を気遣うのは非常にありがたいことではあるが、ボロボロなワイシャツを見られたくない。

 智沙はいつもの笑顔を取り繕って碓井の頭を撫でた。犬養の名にふさわしい。部下を犬だとは思いたくはないが、碓井は仔犬のように智沙にべったり。頭を撫でられるのが好きなのが何とも可愛らしくて仕方がない。

 「さあ、伝説の温泉にもう一度はいってらっしゃい。美女仲居様の思し召しなんだから」

 碓井は何を言っているのかさっぱりわかっていないが真っ裸で体が冷えたのだろう、体の胸の下で腕を組んで頷いてみせた。

 脱衣所から浴場へとつながる扉に手を掛けたが、手を止め頭だけを向けて思ったことを口にした。

 「バーに向かったんじゃぁ?」

 一瞬理解できず間ができたがすぐに質問の意味を理解すると昼間(山火事の前)に考えていたシナリオを言った。

 「仲居さんに伝説の温泉を勧められたのよ。時間制だからね」

 「なるほど」と碓井はさして疑いもせず受け入れたようで、

 「それでは失礼します」と言葉を残し扉を抜けた。

 湿度のこもった熱風を払いのけると洗面所の鏡に向かった。温泉の効能は確からしく、証拠に涙の後は見当たらない。

 急いでタオルで胸を巻きつけると、背中の裂けたワイシャツを無理してあてがいジャケットを羽織る。髪を乾かすことなく客室へと急いだ。せめてもとタオルを頭に巻いて出てきたが、みっともなく見えるだろうか。

 例の美魔女仲居が智沙に気が付いたらしく「まあ」と声を上げた。

 「どうも~」と口元に手を当てて誤魔化しながら客室を目指した。

 さっきの「まあ」という言葉の意味を取り違えていたのではないかと歩きながら思ったが、後悔はしない。狐につままれたとでも思ってほしい、いや今回は狸と会ったから狸につままれたのほうがいいわ、程度の妄想を抱いた。

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