CASE.3-04
けばけばしいカラオケボックスは本日も満員。客層のほとんどが特殊メイクを施した女子高生の集団でひしめき合った。その中の一つに例外なく目にも耳にも騒がしくはしゃぐ女子高生6人の姿があった。
「萌絵、最近付き合い悪くなくなくない?」
「そうかと思って来たの~。最近忙しくてさ~」
「何?誰か良い人でも見つかった?今度紹介してよ~。寂しいよ~」
「よしよし」
萌絵は友達の石原徹子の頭を撫でた。徹子はいわゆるコギャル、アムラーを自称する萌絵とは気の合う仲だった。
ひとしきりカラオケに興じた萌絵は本題を切り出した。
「そうそう、山野汐里って面識ある?」
何気なく装って訊いていたが、これこそが今宵のパーティに参加した理由だった。
「ヤマノシオリ?どこかで聞いたような?」
「うちらと同じ学校だって聞いたけど…」
「ねえ、だれかヤマノって子知らない?萌絵が知りたいんだってさ」
徹子は不躾にグループのメンバーに問いかけた。
「ちょっと、ちょっと」と萌絵は無頓着な徹子の口を押えた。できれば周知させたくない話なのだ。
萌絵の気苦労とは裏腹にほかのメンバーは気にもかけずカラオケや化粧に興じていた。
ビシビシと手をはたく徹子に気が付き慌ててその手をどかした。
「苦しいって」
「ごめんね。熱あるのかな」と笑ってごまかした。
「その、ヤマノって子がどうしたの?」
「何でもない、何でもない」
「そうなの?萌絵が気にするぐらいだから、きっと…」
徹子がどんな推理をするか思わず緊張して見つめた。
「きっと、とんでもないマニアなのね。安室ちゃん関係でずば抜けているのか、歌がうまいんだとか」
徹子の回答に萌絵は息を吐いて笑った。
「だから、何でもないって。その子が何が好きだとか知らないから聞いただけだし。テツが知らないのなら、目立つ子じゃないんでしょ」
「そうかもね。私が知らない子なら、いてもいなくてもわからない子よ」と言った徹子は大笑いして萌絵に抱きついた。いつものスキンシップを交わした後のポラロイド撮影。即席の写真は彼女のお宝だと誇らしげに写真帳に飾る。
笑顔で繕った萌絵の心には徹子の言葉が何度も繰り返し暗示のように取り憑いた。
(いても、いなくても、わからない)
手についた土、お気に入りの靴も泥まみれ、ひとしきり降ったスコールで全身が水浸し。手にはスコップを持っていた。大きな雷の音におびえる暇もなく萌絵はひたすらに土を掘る。涙でメイクが崩れていようが腕に力が入らなくても気にしてくれる人は誰もいない。手を止まることは許されない。
穴の中に横たわる誰かがこちらを見ている気がした。そんなことありえないのだ。
数時間前には何ともなかったはずのそれ。自分たちと同じように笑って、食事して、呼吸していたであろうのそれが、今ではこうして足元に沈んでいく。
土で覆い、雑草で敷き詰め、ついでに花を植える。掘り起こした量の土は押し付ければなんともない、そこには何もなかった。
終えてみると当事者である自分たちにさえ、何処に遺体が埋まっているのかわからなくなっていた。
だから何だというのか?
どうして私たちはこんな土臭いところにいるのだろう?
何事もなかった。記憶さえ真実味を失いかけていた。
いても、いなくても、わからない。
それはどんな子だったのだろう?どんな顔だったのだろう?
突然沈んでいたはずの彼女の目が開く、こちらを見るその目は自分を責めていた。見覚えのある瞳、瞼、まつ毛、眉毛だって。いつも見ている。見慣れた形。そこにいたのは…。
自分が土の中にいた。
萌絵は突然悲鳴を上げた。
歌っていたコギャルはマイクを振り落とし、ガングロ化粧の友は飲んでいたコーラをコップに吐き出した。徹子も思わず両肩を引き上げ、その場を立ち上がった。
いつもはあり得ない沈黙が訪れた。それぞれが顔を引きつらせて萌絵を見る。誰かがリクエストしたであろうSPEEDの曲が流れ始めていた。
「どうかした?」
徹子が恐る恐る悲鳴の主に近づいた。
萌絵は両手のひら見た後、周りを見回した。状況を把握したのか生唾を飲み込んだ。
「この曲歌いたかったの!去年の曲、十八番にするつもりだったのよ!」
「何だ~そんな素っ頓狂な声出さないでよ。お化けでも出たんじゃないかってビビったんだからさ」と徹子は自分なりの解釈を述べた。
「ね」と催促された他の女たちもやれ、虫やら呪いやら好きに怖いものを上げていった。そのたびごとに彼女たちはバカ騒ぎしては大笑いを上げた。そして取り繕うように萌絵も彼女たちのそれにならった。
玄関の扉をそっと開く。家は静まり返り明かりはない。
あの日以降父親は娘の帰りを待つようなことはしなくなった。以前はどれほど遅くに帰ってこようが小さな明かりとともにリビングには父がいた。その気配を感じるだけで何度もうんざりしていた。
靴を脱ぎ捨てた萌絵はリビングを覗き込んだ。真っ暗な部屋に父親の姿はない。
萌絵はため息をついた。
期待していたわけではなかった。既に自分が見限られていることは理解していた。それに見限られてようが構わないと思っていた。しかし、今回ばかりはそうも言っていられない。ポリシーを捨てるほどの緊急事態なのだ。
萌絵はヤキモキしながらソファーを蹴飛ばした。ただ物に当たりたかっただけなのだ。
「萌絵?」
突然声を掛けられ萌絵は腰を抜かし、ソファーに倒れ込んだ。
リビングのドアからこちらを見つめる母親の姿があった。
「びっくりするし…」
萌絵は呆れたようにソファー前のテーブルに足を乗せた。
「萌絵、何か困ったことでもあったんでしょう?」
母親の向けられる目にはかすかに恐怖が宿っていることは夜目でもわかる。それは近頃の世間の目と同類のものであるからだ。
「ママに何がわかるのよ」
萌絵はうんざりしながらルーズソックスを脱ぎ捨てた。
「わかるわ。あなたの親よ。お父さんに何か相談したいことでもあったんでしょう?」
図星だったがために萌絵は返す言葉が見つからない。
「ママのほうで訊いてあげようか?」
「…いいわ」
「でも…心配よ」
「いいんだって!」
萌絵は脱ぎ捨てた靴下をそのままにリビングを出ると、駆け足で自分の部屋へと閉じこもった。胸の鼓動がやたらと高まり顔中が紅潮していた。
萌絵は閉めたドアに寄りかかると、
「何よ、こっちの気も知らないくせに」とつぶやいた。
暗い部屋の鏡に映った自分がどうしようもなく哀れでみっともない。崩れたメイクが頬に線を引く。まるでピエロ。
萌絵はウェットティッシュで顔の汚れを拭き取るとそのままベッドに横になった。
睡魔はすぐに訪れた。女友達とのカラオケは何日ぶりだったろうか。久しぶりのバカ騒ぎが良かったのだろうか。そう考える間もなく彼女は深い眠りの中に身を落としていった。
雷雨の中。
不愉快な湿っぽさ。髪はベタベタに垂れ下がり、衣服すべてが汚れている。水分を含んだルーズソックスが重たい。濡れた下着は不快感を増長させる。
カサカサと葉っぱが音を立て、車のヘッドライトで照らされた自分の影が揺らめいた。
土と蛆虫、そして異臭。
寒さと恐怖で体の震えは止まらない。
思わず手を合わせた。冥福を祈るためではない。自分勝手な罪悪感から逃れたかった。
目をつぶった彼女の足に違和感を覚える。奇妙な感触、背筋を流れる水滴を感じとった。汚れた片手が足首を掴んでいた。
彼女は悲鳴を上げるまでもなく、腰を抜かした。何とか必死に手を振りほどこうと抵抗してみても、その手は決して逃さない。辺りを探してみても誰もいない。一緒に作業していたはずの彼の姿は消えていた。
逃げ出したくても逃げられない。
そのうち土が盛り上がってきていることに気が付いた。それはまぎれもなく…。
萌絵は思わず声を上げそうになった。カラオケボックスでよぎった光景と同じ夢。
軽快なテンポの着メロに起こされた。
寝汗で汚れたシーツがまた不愉快。目覚まし時計の針は3時を回ったところだ。
上体を起こして携帯電話を探す。こんな時間に迷惑だと言ってやりたかった。
その辺に放り投げたカバンの中から携帯電話を取り出し、発信者表示を確認した。
『リキオ』
以前の彼女ならとんで喜んだであろう相手。今となっては別の感情が生まれてくる。
「3時よ」
萌絵は冷たく突き放すように電話に出た。
『そんなこと、わかっているよ』
力男もツンケンとしていた。萌絵の不快感に同調したのだろう。
「眠たいんですけど」
『俺は眠れない。オヤジと話したのか?』
そっけなさがより二人の関係を物語っている。
「無理言わないでよ。あの人が私に何したか教えたでしょ?今更になって頼み事なんてできるはずないじゃない。それにどう言ったらいいのよ」萌絵は声を潜めて感情を抑えようとした。
『仕方ないだろ。警察がうちに来るのは時間の問題なんだ』
「だからって私を利用しないでよね」
『お前の家族の事情のことは知っている。それでも俺は萌絵を嫌いにならなかっただろ。お前のことを思っていなかったら、普通あの場でお前を捨てるはずだろ』
力男は体を求めた時のことを言っていた。萌絵は彼を受け入れなかった。
そのあとも力男の誘いを萌絵は何度も断った。そのたびごとに萌絵は父親を憎んだ。決して力男が嫌いだからという理由ではないのだ。
父親の俊久にしてはほんの些細なことだったかもしれない。だが萌絵はトラウマを抱えた。胸に触れた俊久に萌絵はこの上ない絶望を味わった。
以降、一時萌絵は父親を父とは見ていなかった。さらに口を利かなくなった理由は父親自身にあることを自覚していないことが許せなかった。
『萌絵はわかっていないんだよ。俺の優しさを』
「でも…あの人と話すのは…」
『利用してやろうと思えばいいんだ。奴を利用する権利があると思えば、お前の気も休まるんじゃないのか?』
「…かも」
それは萌絵にはなかった考え方だった。目からうろこの発見だったと表現してもいいだろう。
『大丈夫、あの女の捜索がどこまで進んだのか探るだけなんだから。口をきいていない娘がオヤジの職場に現れてみろ、あのクソジジイ喜んで何でも話すだろうよ。家で訊けないんだったらこの方法しかない。俺もいいこと思いつくな~』
力男の満足そうな声にはカチンときた萌絵だったが、考えを改めようかとも思えていた。この日一日だけでもすでに二度の悪夢を見た。徹子に聞いた山野汐里の価値観を知ったところで気はまぎれることはなかったのだ。
「友達はあの子のこと、いても、いなくても、わからない子だって」
『そうか。とりあえず安心できそうかもな』
何を根拠にしてか力男は落ち着いていた。
通話を切った萌絵はトイレに向かう。夜明けまではあと数時間はある。トイレに立ったついでに安眠のためのホットミルクを作った。ぬるいぐらいでちょうどいい。その程度の労力なら惜しまなかった。
牛乳を火にかけコップに注いだ時、萌絵は思わず鍋を落としそうになった。
リビングの奥に俊久が立っていた。トイレに起きたついで、電気が点いていたから気になって見に来たのだろう。
俊久は娘の姿を見ても何するまでもなく、再び寝室に足を向けた。
萌絵は蛇に睨まれたカエルのように固まった。対照的に心臓の鼓動は激しく脈打つ。
なんてタイミングの悪い遭遇だったろう。こんな動揺した気持ちでは父親から捜査状況を聞き出すことなどできそうにない。
今更ながら萌絵は自分が作り続けた父親との溝の深さを痛感した。
翌日、授業をそこそこに力男の提案に従い父親の勤務する警察署に向かった。
父の仕事に興味を持ったことは一度もなかった萌絵は職場の場所すら知らなかった。そこで授業を抜け出し帰宅した際に父親の書斎をあさった。幸いにして散らかさない内に名刺を見つけることができた。
『西新東京警察署』それが父親の所属する警察署だと初めて知った。
記載してある電話番号にかけ、住所を聞いた。電話番の女性は電話先の相手がまさか女子高生であるとは思っていなかったであろう。親切に住所と最寄りの駅名まで説明してくれた。
自宅近くの最寄り駅から地下鉄を乗り継ぎ二本で着く。それほど難しい場所にはない。
萌絵は一度ベッドに横になった。昨夜結局寝付けず明け方まで浅い眠りに漂う程度だったから眠たくて仕方がなかった。そのせいか朝学校では不健康そうに見られた。こちらはそれを見越して化粧にも念を入れたのだ。特に目の下のクマを隠すのに必死だったのだが、その甲斐もむなしく友達に指摘された。
「もう、だめ~」
我慢していた睡魔に負け、萌絵はいつしか眠りの中に引き込まれた。睡魔に負けている場合ではないことは肝に銘じていたはずなのだ。今日は不安の種を少しでも摘む、すべては力男と自分のために。
それでも誘われた先の夢の世界は心地良い。
だが、そのひと時の幸福感はすぐに化け物によって妨害された。
自分の中に住み着く彼女は萌絵が眠りに就くのを待っているようだった。虎視眈々とこの身の主導権を狙うような恐怖。目が覚めた時には別人格に乗っ取られているのではないかと思えた。
午後1時前、萌絵は起き上がり浴室へと急いだ。寝汗の不快感から逃れるため、それと幻覚から目を覚ますため何よりも先んじてリフレッシュを求めた。
夢の中の土からもう一本手が伸びた。それだけではない昨夜よりも土は盛り上がりを見せる。手の感触はより鮮明だった。頭部が現れるのは時間の問題かもしれない。
冷たいシャワーを頭から浴びながら床にうずくまった。
軽く身支度を済ませた萌絵は最寄り駅へと向かう。化粧を施すほどの気力はない。だが、おしゃれに気にしないわけにもいかず、目に留まった巻貝のネックレスを首からひっさげた。それをどこで買ったか覚えていないが、いつの間にか手元にあったお気に入りだった。濡らした髪を乾かしているほどの余裕もなく、考え抜いた策としてニットの帽子を被ることを思いつく。比較的控えめな身なりの仕上がり幾分か満足してやっと意を決して家を出た。
駅前でピンクの色のチラシが地面に捨てられているのが良く目に入った。チラシは踏みつけられ足跡で汚れている。萌絵も宗教の勧誘程度にしか見ていなかった。
だが、教えてもらった警察署の最寄り駅でようやくチラシの意味を知る。女性が一人懸命にビラを撒いていた。手渡しと同時に「情報お願いします」と声掛けを添えている。いつからこの行為に及んでいるのやら声は枯れていた。
萌絵は息をのんでチラシを受け取った。
『尋ね人』『行方不明』の文字が目に飛び込んでくる。
萌絵は思わず声を上げそうになった。それを察してか女性が「何か知っているの?」と詰め寄ってきた。
「何も」
言葉短めに萌絵はその場を逃げるようにして離れて行った。女性どころか周りにも不審に見えていただろう。
痛恨のミスだった。これほどに取り乱してはかえって怪しまれる。萌絵はチラシを破り捨ててごみ箱に押し込めた。
尋ね人は5歳の女の子。少なくとも自分には関係ない。だが、もしこれが本命の山野汐里だったとしたら、完全にアウトの行動だ。
気持ちを落ち着けるために一度コンビニに寄った。ランチはまだだったが、のどを通りそうにもない。ただコンビニの中をブラブラと歩き回り店員に怪しまれる前に店を出る。何の生産性もない無駄な行動で気持ちをごまかした。
目的地である西新東京警察署はすぐ近くだったはず。行方不明の子供の親のせいで地図の確認ができないのが残念だったが、相手に悪気はない。萌絵は改めて目的地を探した。
もう一度コンビニに入って警察署までの道を教えてもらった。店員は萌絵を見てヘラヘラしているのが気になったが構わないに越したことはない。男の見え透いたもの、まして薄化粧の時はよくある態度だった。喧嘩売られた気分である。
教えてもらった道順のメモを頼りに何とか目的地に到着。駅から10分ほどのところにあった。
署内の様子は昼間だからだろうか、それほど混雑していなかった。そもそも警察署に用事のある人物自体珍しいのかもしれない。
受付の女性職員は笑顔で萌絵に対応した。
緊張した面持ちの萌絵は名刺を取り出した。その際、自分が娘であることは名乗らない。
名刺を手にした女性は不審そうに萌絵を見つめた。
「いますか?」
ぶっきらぼうに萌絵は尋ねた。
「今、確認します」と女性職員は内線番号を探した。
「お名前と要件を教えてください」
萌絵は焦った。決意だけ持って来ただけで準備は何もしていない。何をどう切り出すべきか策は全く用意してこなかった。
不信感を募らせた受付嬢は警棒を携えた正面の警察官を手で子招いた。
萌絵は焦りながらもどうしたものか頭を回転させた。容量いっぱいに回転させた脳はすでに稼働領域を上回っている。
「どうかしましたか?」
若い警察官が受付嬢のところまで足を運び、状況確認に来ていた。
「いやあ、この子が一時さんに会いたいのだそうよ」
「そうですか。俺に任せてください」
若い警察官は自ら子守を買って出た。
「そう、悪いわね。くれぐれも…わかるわね」
受付嬢は悪そうな顔をして何か言いたげな風を装った。
警察官は苦笑いを向けると萌絵を署内の別の場所へと連れて行った。
「ごめんね、河合さん、結構、意地悪なところあるからさ。それに拳銃の件とかもあるし警戒強化中なんだ」と警察官は笑顔で萌絵の顔色を窺った。
同年齢にはない大人な雰囲気にドキリとしたがすぐにその心臓の鼓動が別の高まりであることを自覚する。署内は慌ただしく職員が歩き回っていた。いろいろな事件の捜査に奔走しているのだろう。その誰もが父と同じような鋭い目つきであった。自分と同じように誘導される人物も見かけた。
そう、ここは現在の萌絵には敵本拠地。無謀にも萌絵は一人果敢に乗り込んでいった形なのだ。
萌絵は不安感を悟られまいと必死に取り繕ってみせた。
「さあ、座って」
案内されたのは小会議室だった。テレビで見るような取調室ではないことが心からありがたく思えてきた。
「俺は倉本一輝。正直、この職場に来てまだ日が浅いんだ。だから一時警部とはほとんど面識がないんだけど…。呼び出すことはできる。どう、自分が何者か名乗ってみる気にならない?突然約束もなく誰かが来たところでこちらも対応できるとは限らないんだ」
倉本と名乗った若い警察官は優しく萌絵に語りかけた。
「実は…」声が震えていることに自分でも驚いた。自分は何を言おうとしているのだろう、それすらもわからない。
「何かな?」
「アタシは一時萌絵と言います」
倉本は一瞬ポカンとした。それが萌絵にもわかるほどの絶妙な間だった。
「君は警部補の娘さんなのか?」
「はい」
「何か身分証は?例えば学生手帳だとか、そんなもの」
萌絵はカバンをあさった。いろいろなものが入っているそのカバンは四次元ポケットのようだと友達に茶化されたこともあったが、学生手帳は見つからなかった。
「代わりになんですが保険証なら…」と財布から紙きれを取り出した。それはいかにも警察関係者が加入する保険の写しである。
「身分証じゃないけど、まあ、それっぽいか…」
倉本は保険証を一瞥した後、頭を掻いて「お父さん、探してくるから待っているように」と言い残し部屋を出て行った。
萌絵の中で緊張感が増す。自分がなぜ、こんな場所にまで来てほとんど絶縁状態の父と話をしなければならないのか、という後悔に迫られながらも、その反面で得体のしれない恐怖から逃れることができるかもしれない、という期待も表れている。
萌絵は葛藤のなか、何度も会議室を飛び出したい衝動に駆られた。今なら何事もなかったかのように引き返すことができる。こっそり部屋を抜け出ることなど朝飯前のことだ。
ノックする音、間髪入れずに扉が開く。
まだ乾いていない髪頭部から水滴が頬に垂れる感覚。冷や汗だった。
だが萌絵の葛藤は徒労に終わる。
「ごめん、今、警部いないそうだ」
「どこに行ったか分かりますか?」と気持ちとは裏腹に言葉が出た。
「事件の件で出ているそうなんだ」
ドキリと一瞬心臓が跳ねた。それでも何とか平静を保ち探りを入れる。
「事件ってもしかして五歳の女の子?」
「何のことだい?」
その言葉には他意も悪気もない。事件のことを全く知らないのか、思い当たらないのか。どちらにしても倉本の言い方は探りを入れようとか、上げ足を取ろうなどという悪意に満ちた意図がないようだった。
「子供がいなくなったって…」
「五歳児の失踪だね。警部も口が軽い」
なるほどといった様子で勝手に解釈したのか手を叩くと進捗状況を話し始めた。
「いまだ手掛かりすら見つかっていないらしい。子供の連れ去りの可能性があるから初動捜査は早かったんだけれど、成果はまだ上がっていないらしい」
「そうですか…」
「もしかして何か知っているのか?」
「まさか!」慌てて否定して見せたが、余計に怪しく見えたに違いない。そう思って萌絵は早口で話題をそらす。
「子供の行方不明ってやっぱり、その、初動捜査というのは早いの?」
「そうだね、一般家出人とはだいぶ差があるね。身代金要求とか事件性があるとか、はっきりしないうちはなかなか動けないのが現状だ」
「そうなんですか…」萌絵はその説明をぼんやりと聞いていた。無理に話を合わせるようなことはできそうにないので、授業で編み出した真剣に聞き流すという技法でかしこまって見せた。
そんな彼女を怪しく思ったのか倉本は、
「警部のことだから戻ってくるの、きっと7時を過ぎると思うよ。それまで待つ?」と現実的な本題へと戻す。
不在まで頭になかった。当然のごとく行けば会えるだろう程度にしか考えていなかったのだから。
萌絵は椅子の下に置いたカバンを持ち上げ、頭を下げた。その頬は紅潮している。
「要件があるなら聞くよ」
「何でもありません。お手数おかけしました」
すぐにでも立ち去りたかった。やはりこんなところまで赴くのは間違いだと悟った。変に勘繰られでもしたらとボロがすぐに出てしまうかもしれない。
「君は何のために来たんだ?」
慌てた様子の萌絵の腕をつかんだ。その腕は倉本の想定以上に細くて弱々しかった。
「本当に何でもないんです。できればこのことは父には言わないでほしい。ただの不良人間の気の迷いですから」
倉本の腕を必死に振りほどこうとした。力の差は歴然だったが、何としてもこの場を逃げ出したかった。
事件性を直感した倉本は何としても萌絵を引き留めたかった。しかし引き留めるべき権利も理由もない。それに力づくでか弱い女性を捕えている自分が嫌だった。
仕方なく手を離した倉本の目は偶然にもある光景を見てすべてを勝手に悟った。
萌絵は突然腕への力が緩んだことに困惑したが、すぐに倉本の目線が何かにくぎ付けになっていたことに気が付いた。
萌絵はつられて反射的に目線の先を探った。それが拙かった。
廊下の先の給湯室、窓の隙間から父が見えた。そしてそれ以上に目立つ女の姿。二人は抱き合い、キスを交わしていたのだ。
萌絵は隠れるようにして会議室へ引き返す。つられるようにして倉本も無言で後に続いた。
息を押し殺す、気まずい沈黙の後、倉本が扉の隙間から外をのぞく。だが、もうそこには一時俊久の姿はなかった。
「裏口に案内するよ」と小声で提案した。
萌絵は黙ったままだった。
それを承諾だと思った倉本はこっそりと慎重に周囲を見回し、廊下に出る。
「あの!」
突然萌絵に声を掛けられた倉本はドキリとして振り返った。
「別にお兄さんがヒソヒソする必要はないはずです」
「…言われてみれば」
萌絵の正論に倉本は苦笑した。本当にヒソヒソする必要がある人物は倉本でも、萌絵でもないはずだ。
「このまま帰ります」
かよわそうにしていた先ほどまでの姿から今ではツンケンとして、苛立ちをひしひしとにじみ出している。
萌絵はドアの縁をつかんでいた倉本を押しのけて廊下に出た。ついでにかぶっていたニット帽をカバンにしまい込むと、少し湿った長い黒髪を揺らし外を目指した。
父親となれ合うどころか、利用することもできない。そもそも初めから信用していなかったのだから痛みは感じない。萌絵は自分に言い聞かせた。
すっかり呆気にとられた倉本は彼女の後を追いかけ出口へと誘導した。
「倉本君、さっき一時警部帰ってきたみたいだよ」
ある女子職員が声をかけてきた。要件を具体的に話していないから倉本が警部を個人的に探していたということで話が回っていた。
「ありがとう」と礼を言いつつ、その女子職員と目を合わせることなく萌絵に付き添った。その女子職員こそがさっき警部とただならぬ行為に及んだ人物なのだから。
「あら、気が済んだ?」
受付嬢の河合が好奇な目線で二人を見た。
「来なければよかった」と最後に吐き捨てるように萌絵は毒づき警察署を出て行った。その足は心なしか速足だった。
河合の目の色がますます好奇に満ちており、倉本は手で払いのける仕草で応戦し、萌絵に続いた。
警察署の向かいの通りのベンチで腰を下ろし萌絵は天を見上げた。放心状態、上の空と言ったものだった。夏もそろそろ終わりだ。訪れる始めた秋の香りを感じつつ雲の流れを目で追った。
「これ食べて」と倉本は近くのコンビニで買ってきた肉まんを手渡した。
正直食欲はなかったが、自動的にそして機械的に手が伸びた。
倉本は遠慮なく萌絵の隣に座り一緒に肉まんを頬張り始めた。手には紙袋を抱えており、まだ数個入っている。
「あんまり食べると太りますよ」
「余計なお世話だ。俺はいくら食っても太らないの」
ぺろりと一個を易々と食べ終わると紙袋に手が伸びた。
「こんなところで油売っていてもいいんですか?職務放棄ですか?」
「君だって学校さぼったのだろ。俺は油売っているだけましだと思うけど」
萌絵は思わず笑った。倉本のボケに対してもそうだが、こうしておもむろに何かを案じ、物思いにふけっている自分が可笑しかった。つい先ほどまでの葛藤はなんだったのか、しょせんよくある家族の問題。現在進行形で抱えている自分の悪行に比べればちっぽけな悩みかもしれない。しかし、それもすべてこの胸を占める不安要素。大きいも小さいもない。
萌絵は肉まんを食べ終わると切り出した。
「黙っていてくださいね」
「その方がいいだろうな」とすでに3つ目を食べ終えた倉本は喉元を叩いた。
「頼んだよ」
萌絵は立ち上がり手を掲げた。それはさよならの合図。倉本を信頼している証だった。
倉本もそれに応える様に手をかざした。
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