CASE.2-15

 碓井からのメールで送られてきた住所は車で40分ほどの郊外にあり、何処にでもある民家であった。

 智沙の訪問に女性が訝し気に出迎えた。

 身分を示し「サカキの件です」とだけ説明するとその女性は目をバッと大きく開くと自らが母親であることを明かし中へと招き入れた。

 不信感を募らせていた態度とは一変し手厚い歓迎を受けた智沙は早速、息子の死について訊いた。

 「うちの子、自殺だって判断されたんです。息子に限って自殺なんてありえないって反論しても警察は自殺だって決めてかかっていて、それ以上問い詰められなかったのよ」

 警察に不信感を抱いているのことと、智沙を歓迎することは矛盾しているように思える。智沙はこの後、責められるのではないかと警戒したがそうではなかった。

 「あなたが来てくださったということは立花さんがうまくやったってことよね。あれ以来連絡がないから忘れられてしまったのではないかって悪く思っちゃたわ」

 智沙ははっとして聞いた。

 「立花さんとはお知り合いでしたか?」

 「息子のお葬式に来てくださいまして、そこで頼んだんですよ」

 「頼んだと言いますと、いったい何を?」

 「違うのですか?てっきり立花さんが捜査依頼をしてくれたのだと…」

 「立花景興さんですが、昨日亡くなって見つかりました。息子さんと同じく自殺です」

 島村は泡を食ったように空を見つめた。

 「何かご存じではありませんか。息子さんの死後に会社からコンタクトがあったとか、遺品に不審なものがあったり…」

 「遺品ならあちらの部屋にすべて…」と母親は部屋を示した。

 そこには段ボールが約20箱、手が付けられていない状態で収められていた。

 許可をもらいひと箱ずつ調べるほかなく重たい段ボールを調べて行った。

 冷房の効かない部屋だが、風通しはよく作業に集中していた智沙に声がかけられた。

 「まったく無茶しているね」

 渕上がうちわを仰いで見下ろしていた。その顔にはケガなど一つもない。だが今朝会話した渕上と同じストライプのシャツを着ていた。

 「手伝うよ」

 「ありがとう、でも碓井は?」

 「気が付かなかった?みんなここに来たよ」

 智沙は驚いて部屋を出ると全員がそこにいた。

 「班長!」と倉本がニヤニヤして言った。他にも桑原も碓井も席についている。

 「さあさあ、どうぞ召し上がれ」

 島村の母親が大皿を抱えて台所からやってきた。皿には大量のお刺身が盛られており、宴会のような賑わいだった。

 「島村さん」と智沙は声をかけた。

 「さあ、あなたも召し上がってください」

 「ですが…」智沙は訳が分からず途方に暮れていた。

 「いいのよ。息子のためだもの。こんな大勢の方が来られたのは久しぶりで…」

 「そうだよ。せっかくお母様が用意してくれたんだ。遠慮するのはよくないよ」

 渕上は智沙の手を引いた。

 「しかし…」智沙には全く理解できなかった。つい先ほど事件に関係あるかも定かではない遺族を訪ねただけなのだ。これほどの歓迎のゆえんはどこにあるのかわからない。

 智沙はハッとして渕上に小声で訊いた。

 「まさか能力使っていない?」と根拠なしにまずは渕上を疑った。

 「まさか」

 いつの間にか日が暮れており、辺りはうす暗かった。

 「もう、夕食なんて…」

 ぼそりと言った智沙の声に碓井は反応した。

 「心配して探したんですからね」

 「心配なんて…」

 「一度、私に連絡入れていませんか?」

 「え?してないけれど…」と智沙はすぐにポケットの携帯電話を操作してみた。

 「それが心配だったんです。すぐに電源が落ちたみたいで折り返せませんでしたけど…」

 「本当だ。電源切れていたみたいね」

 「連絡がないからみんなで来たんです。班長がまた時間を忘れているんじゃないかって」

 「ごめんなさい」

 「とにかく食べようか」渕上はこういう振舞われることに遠慮はないが、腹ペコの捜査員のだれもとがめる気はなかった。

 智沙も「そうね」と島村の好意を受け入れようと部屋を出た時、ふと段ボールの隙間が気になって覗いてみた。招かれるようにして段ボールの隙間に手を入れてみるとそこには白い厚手の封筒が挟まっていた。封筒には島村正志宛の住所が手書きで記されていた。だが、差出人はない。中身を確かめるとクッション性の緩衝材に挟まれて写真とともに一枚の書類が4つ折りに収められていた。

 『契約雇用特命書』と書かれた書類には本人署名と判が押されていた。

 「これって!」

 「どうしたの?」のんきな渕上の返答があった。他の者たちは舌鼓を打つ中、智沙を待っていたのだ。

 渕上のもとに書類が手渡された。

 「悪魔の契約書よ。スパイになるって証明した書類」

 「つまり、島村は産業スパイにかかわっていたと証明できる」

 智沙は封筒の中にまだ何かが入っていることに気が付くと、息で空気を送り、封筒を膨らませてそれを取り出した。出てきたのはマイクロチップだった。小さな端末に埋め込むことが可能な極小のメモリーチップである。

 智沙はそのチップを手に急いで電子ボードを求めた。だが支給用の電子ボードでも読み込みできないサイズのものだった。

 「島村さん、このメモリーチップ、何に使うか聞いていますか?」

 母親は食事を一緒に楽しんでいた。

 一瞥した後「見たことがないわ」とあまり気に留めなかった。

 「きっと隠しデータですよ。元のデータをそのままにして他に写し入れて、手元には2つあるように見せないセキュリティー対策のようなものです。これはその受信用チップでしょうね」

 桑原が興味深そうに見つめていた。

 智沙はそのチップを桑原に手渡し、

 「見れそう?」と聞いた。

 「この手のメモリーは端末が特殊だから、セキュリティーもすごいだろうし。見れないことはありませんが、本部に戻らないと見れないですね。これを使っていた端末がなければ数日はかかるかもしれません」

 「ここにあるかもよ」渕上が口をはさんだ。

 「そうですね。普通はパソコンと一緒にあるかもしれませんが…」

 「きっとこれよ」

 智沙は一つの猫のぬいぐるみを手にした。オレンジのトラ猫が腰を下ろして座った姿勢だった。智沙はぬいぐるみの底に平べったいプラスティックのにカギヅメがあるのを見つけると、爪で開けてみた。そこにはUSB端子の穴やチップを入れるらしき隙間が設けられた基盤が埋められていた。

 「これです」覗き込んだ桑原は大声を上げた。

 「それ、あの子が大事にしていたものなんです。大事すぎてボロボロになるまで持っていたのよ」母親は悲しそうにぬいぐるみを手に取って頭を撫でた。

 「どうしてこれだと?端末って聞いたら普通、電気製品を思い浮かべるよね」

 渕上の疑問はもっともだった。桑原でさえ想定していなかった形状なのだ。

 「写真が入っていたのよ。お母さんと息子さんの写真ですよね」と今度は写真を母親に手渡した。

 「そう、小さいころ温泉旅行に行った時の写真。どうしてこれが…」

 封筒に入っていた写真には笑顔の二人とともに例の猫のぬいぐるみが映し出されていたのである。中央のぬいぐるみは心なしか汚れていた。

 「さすがと言ったところだね。写真だけで見つけてしまうのだから」

 「偶然よ」

 謙遜したわけではなかった。自分でも不思議だった。あてずっぽうに近い感覚で言い当てただけなのだ。

 「これなら中身が確かめられます」

 桑原は早速その猫のぬいぐるみ型に埋められた端末と支給用電子ボードをコードでつなぎ合わせて読み込みを始めた。

 「班長、早く飯食ってしまわないと皿が片付きませんよ」

 黙々と食事をしていた倉本は楊枝を咥えてリラックスしていた。人の家でも遠慮がない。

 「では、お言葉に甘えて」智沙はようやく食事にありつけた。空腹も忘れて没頭していただけに、一口目がやけにおいしく感じられた。

 静かにうなっている智沙を横にメモリーチップの解析が進められていた。

 「島村さん、協力していただいても?」

 倉本は楊枝を咥えたまま母親を呼び止めるとテーブルの食器を寄せ広めに空間を設けた。そして片づけた空間に写真を並べ始めた。

 「これは?」

 「この中に見覚えのある顔がないかと思いまして」

 一枚一枚相手に見えるように写真をきれいに並べた。全部で12枚12人分の顔写真である。その中には智沙も知った顔、東郷会長、立花景興も含まれていた。

 「この方はテレビで見ましたし、立花さんとは面識がありますね」

 島村は智沙と同じ認識であるようだ。

 「そうですか、他は?もしかしたら見た顔もいるかもしれません」

 「はあ~。誰だかちょっと…」

 島村は目を細めて眺めたが言葉につかえていた。倉本はあきらめて写真を片付け始めた。

 「ちょっと待てください。もしかしたら…」島村はある一枚の写真に目を止めた。その写真を取り上げると顔に近づけ前後にじっくりと観察を始めた。

 「インストールできました。テキストと動画がいくつかあるみたいですね」

 「今は島村さんに集中させんと」と倉本は桑原におかしそうに注意した。

 「すみません。期待させてしまいまして」先に誤ったのは島村だった。写真をテーブルに置いて続けた。

 「見たかもしれませんが…自信ありません」

 「お構いなく。参考程度ですので…じゃあ、先に動画見ようか。頼むよ。桑原ちゃん」

 「それじゃあ」と桑原は改まってコホンと咳払いをすると猫のぬいぐるみをテーブルに置いた。

 「おそらく島村さんは自分のパソコンに保管していた情報をこちらのメモリーチップにコピーを取っていたのでしょう。パソコンのデータとして残しておくのが不安だったのでしょうね。こういった隠しデータは誰かに秘密で残しておきたい情報を安全に危機回避しておくための最終手段なんです。おそらくパソコン上のデータは消されると判断して島村さんはこのチップを残したのでしょうね」

 「身に危険を感じていたってことですか?」碓井は真剣に聞いていた。

 「恐らくは。テキストがいくつかありますが、サカキに送っていた極秘文書でしょうね。大橋産業自動車新興商事の社内情報がまとめられています。きっと契約通りの働きをしたのでしょう」

 「産業スパイは黒だ」

 「ちょっと、黙った」智沙は慌てて渕上の口を遮った。母親がいる前で遠慮がなさすぎる。

 母親は黙っていた。

 「え~と。動画です。4つあります」

 動画は日付順にそれぞれタイトルが付けられていた。桑原はとりあえずもっとも古いタイトル『懺悔1』を再生した。

 生前のアパートだろう。椅子に座った島村がカメラに向かって語り始めた。

 『こんにちは島村正志です。この映像は懺悔のため撮りました。

 懺悔というのはサカキのために今の会社を裏切ることに疲れました。初めは単純に自分の利益だけを見ていました。会社に必要されているのだとも。だけど違いました。目先のお金で俺は信念をなくしてしまった。…そもそも会社に打ちのめされた経験があるのに必要とされていると勘違いしていた。信頼してもらっている人を欺いてサカキに貢献している自分が本当に嫌になってきました。

もし、自分の身に何かあったらこの映像と証拠書類を信頼できる誰かにと思って託そうと思います』

 動画はほんの数秒で終わった。本人島村正志は終始震えた声で自らの苦悩を語っていた。

 感想なく桑原は続けてタイトル『懺悔2』を再生した。

 『また映像を撮ります。夜な夜なこんな懺悔映像を撮ってるなどお母さんにも言えないな。罪の意識があっても俺は弱い人間なのかも…。

 今日、また機密情報を盗んだ。どこの地区に何が売れるのかとか、金属素材の配合率の詳細や従業員情報のことなんか、もう何でも。今日、部署の先輩に変に勘繰られたかもしれない。思わずドキドキして目の焦点が合っていなかったかもしれない。

 本当に嫌なんだ。この会社で新たに自分の居場所を見つけたいのに、契約が頭にいつもあるんだ。

 もう無理だ。直談判してやろうと思う。もしかしたら見てるかもしれない。俺は立花さんのように勇気をもってサカキにぶつかってやることにする。今の会社に入れるように恩義を図ったのはサカキだけど、もう言いなりにはならない』

 また短い動画は終了した。

 母親はすでに泣いていた。葛藤に揺れる息子の姿に涙するのも無理はない。

 タイトル『警告』は前の2つとは始まりが違った。

 『今、帰り道です。サカキに言ってやりました』風の雑音とともに島村は自分を撮りながら話し始めた。

 『すごい形相の幹部に怒鳴られた。あの人たちはだれも反論するはずないと思っていたみたいだった。裁判沙汰にはできないだろうから、そこは心配していないけど報復が怖い。俺も思わず警察に行くって言った。そしたら夜道には気を付けろだとか、20年前かって。とにかく家に帰ったら策を練らないと…』

 死へのカウントダウンが近づいてくるようで見ていてつらいものがあった。

 「どうします?最後まで見ますか?」桑原は誰にともなく承諾を求めた。

 「お母様はどうします?」と智沙は念を押した。

 ハンカチを目に当てた島村は鼻をすすりながらうなずいた。

 「これだけ動画の保存形式が違うようです」と桑原が一言加えると動画を再生した。

 タイトル『無題』が最後の動画であった。タイトルだけで不穏な心象を与えた。ワンシーン目から不気味だった。泡を食った島村がカメラの様子を気にしていた。

再生時間4時間。それは録画時間限界まで見るも無残な殺人映像だった。大きな男が島村の首にロープで絞めつけた。そのロープをドアノブに括り付けて首吊り自殺を作り上げたというわけだ。

 母親は見ていられず台所に走り出した。

 「寺浜龍悟」そう言ったのは渕上だった。

 「ああ、こいつだ」と倉本はテーブルの上の写真を指ではじいた。その写真こそ島村の母親が見つめていた写真である。この時初めて智沙は寺浜の姿を見たのだ。

 智沙は初めて見る寺浜の姿にあの夜の光景を思い出してた。

 寺浜の行動は殺害以降、証拠隠滅であった。パソコンのデータを消去し遺言を残す。手際よく終えると30分で出て行った。

 「この映像、証拠になりますよね」碓井は吐き気を抑えながら訊いた。

 「島村正志さん殺害の容疑は堅いわね」智沙もそれ以上の飲食は控えた。

 「あとはこいつをしょっ引いてスパイの件で絡ませれば全員を聴取できそうだ。それにいしても、まったく気分が悪い。寺浜の奴ぬけぬけと」

 倉本は余った刺身をすべて口に含んだ。

 「逮捕状請求するわ」

 立ち上がった智沙は早速区警本部に電話した。

 電話のコール音を聞きながらあの夜の光景が頭をよぎる。

 東郷の事件直後屋上に現れた男、智沙を蹴飛ばし立花と消えた男、そのどちらもが寺浜の体系に一致する。島村の死以外に本事件にも大きくかかわっていることは確かなようだ。

 長い呼び出しの後、捜査課に内線がつながった。普段はこれほどの時間を要することはない。かかっても1分が目安だが、すでに5分は経っている。

 「河合です」と事務の女性が息を切らせて電話先に出た。

 「犬養班です。逮捕状の件で…」と本題に差し掛かろうとしたが口を挟んでとんでもない話を聞かされた。

 「つい先ほど真鍋さんが亡くなりました」

 智沙は携帯電話を落とした。


 「どうしたものか。あの真鍋が死ぬなんてな…」

 高岡耕助が智沙の横で言った。

 現場に駆け付けた智沙と渕上は殺害現場となった駐車場の一角で手を合わせていた。目の前には遺体の跡を示す白いテープがかたどられていた。ガラスの破片や無数の血痕が事件の名残を漂わせていた。

 二人が駆け付けた時には現場検証の九割は終わっていたが、警察関係者の動きは活発に右往左往している。

 「いったい何が?」渕上は智沙の頭越しに高岡に訊いた。

 「真鍋は君らが追っていた事件の犯人を逮捕しに行ったと聞いている」

 「それは誰ですか?」

 「寺浜龍悟という男だ。令状が真鍋のカバンに入っていたから間違いないだろう。それと手錠が車に無造作に置かれていたから寺浜は逮捕された後、拳銃を奪って真鍋に発砲したという見解だ」

 「じゃあ、犯人は今も拳銃を持っているわけだ…」

 「おかげでこのありさまさ」

 高岡の言うとおり、豊坂本部長の令により厳戒態勢が敷かれたのだ。あちこちでサイレンとランプの点滅が危機感をあおっていた。

 「真鍋の奴のことをどう思っていたにしろ、死んでしまってから惜しい人間をなくしたって思えてくるのは不思議だよ」と高岡は眼鏡を掛けなおし、ぼそりと言った。

 「私のせいかもしれません」

 智沙は震えていた。

 「犯人について何か手掛かりでもあるのか?」わが子を心配するように高岡は顔を覗き込んだ。

 「…特には」目を合わせようとしなかった。

 「あまり変に気負う必要はない。犬養は他人を思いやりすぎるところがある。自分の業務だけに責任を持つだけで十分だ」

 「しかし…寺浜の情報を教えたのは私です」

 「そこが変だと言っている。真鍋は真鍋で犯人逮捕の確信までこぎつけただけのこと。情報一つ与えたからって犬養に責任があるなど誰も思わない。今日は休め。明日もまた早いのだろ」

 そう言うと高岡は智沙の肩をポンと叩いて、班捜査員のもとへ向かった。

 高岡の言葉にも智沙はなかなか立ち直れないでいた。真意はだれにも理解してくれないことは言わずも知れる。

 「僕らの出る幕ではないみたいだね。真鍋班長のことは残念だけど僕らも引き上げよう」

 いつまでもその場を離れようとしない智沙に渕上は声をかけた。

 智沙に必要ないと言われてもついてきたのが渕上だった。碓井や桑原、倉本もついて来ようとしたのだが、メモリーチップを含めた証拠品の保管や事件進捗報告などやることはまだあるのだ。島村の母親の体調も思わしくないことも気にかかった。

 「何!発砲だと!」

 パトカーの無線機に向かって高岡が怒鳴り上げていた。

 「けが人は?重症だと⁉」

 高岡は「クソッ」と受話器を投げつけ頭を掻きながらその場を歩き回っている。

 「これはまずそうだ」はたで見ていた渕上は未だ動かぬ智沙の両肩をつかんで強引に押しのけようとした。

 「高岡さんが僕らを疫病神だと思う前に帰ろう」

 「このままじゃいけない。私のせいだもの」

 「まだ言うの?どこに責任を感じる必要がある?僕らには何もできなかった。真鍋さんには悪いけど犯人を取り逃がして返り討ちにあったのは自己責任だろ…」

 「渕上さん、私を三時間前に連れて行って。真鍋さんが殺される前に私が寺浜を捕まえる」

 「何馬鹿な事言っているんだ。過去をいじるととんでもないことになるのは想像できるだろ。そんなリスクを冒してまで君は真鍋を助ける価値があると思っているのか?」

 「ひどい言い方ね。あなたの上司を助けようって言っているのよ」

 「ひどいわけあるか。僕はあの人にこき使われて来たんだ。権力を振りかざして偉そうなあいつを今になって何とも思わない。君だって思っていたはずだ。お人好しもいい加減にしなよ」

 渕上は呆れたように速足で歩いた。

 「今度はなんだと?また犠牲者⁉勘弁してくれ」

 「捜査官が撃たれたそうだ!」

 捜査官の苦悶した声が口々に背後で渦巻いていた。

 智沙は渕上の袖をつかんでその場にふさぎ込んだ。

 「違うの。私に責任があるのは責任感だとか、お人好しだからじゃない。まぎれもない事実。私が殺したようなもの」

 事件の犠牲は真鍋だけでは済んでいない。事態は一般市民にも及んでいる。

 「僕が…」と言いかけた渕上は智沙を袖から払いのけると彼女の両肩をつかんだ。そしてまっすぐに智沙の顔を見つめた。その見つめた顔に涙が見えた。だが一瞬の躊躇いの後、言葉を続けた。

 「僕が何も気が付いていないと思っているのか。さっき君は犯人の情報を真鍋に与えたといったけど、それは僕らが寺浜であると知る前に渡した情報なのだろう。僕らがあの場で確信を得る少し前からどうして君はその情報を真鍋に差し出せたか…。未来の僕が君に教えたからだ。僕なら簡単に言う。信頼し始めた僕なら君にいとも簡単に犯人の情報を話してしまうに違いない」と渕上は周囲を気にして声を落として言った。

 現場はさらに慌ただしく荒れ狂ったように人の往来が激化してきた。駐車場の真ん中で立ち話している二人を周囲はお構いなしに転がりまわっていた。

 「それでも僕は黙っていたんだ。未来を知ることでそのあとに大きな歪みが生まれる可能性がある。歪みが大きければ大きいほど修正は利かなくなる。だからあえて知らないふりをしていたんだ。きっと未来の僕はよっぽどのことがあって表れたに違いないけど、こうも言っていただろ。現在の僕に知られるなって」

 智沙はかわいらしくコクリとうなずいた。

 「それがいけないんだよ。今ので確信した。僕は過去に戻ることになる」

 渕上は再度呆れて駐車場の出口に向かって歩き出した。

 智沙は急いで渕上を追った。だんだんと遠退く渕上の背中を必死に追いかけた。 その後ろ姿に追いつけそうにないほど渕上の姿が遠のいた。

 「お願いだから。助けて。本当は私が死ぬはずだったの」

 「そういうことか…」

 気が付くと智沙のすぐ目の前に渕上の背中があった。現実的には少しも距離を離していない。手を伸ばせば届く範囲に渕上はいた。

 「これ以上言ったらきっと、未来に影響があるのかもしれないけど、知ってほしいの。今日私が真鍋さんのように死んでいた。私が真鍋さんに余計な前情報を与えてしまったから真鍋さんは死んで他にも大勢けが人が出た。今日の七夕の夜を壊したのは私」

 智沙は渕上の背中に顔を押し当てた。

 「それは違う。真鍋の代わりに君が死んだところで犯人は逃走しただろうね。拡大被害は恐らくそれとは無関係だ」と渕上は語りかけるように静かに背中を貸した。

 「どうしたらいいの?過去は変えられないし、未来に変な影響が出るんでしょ」

 智沙は顔を上げた。渕上の後頭部の先に夜空が光ってみえた。

 「大丈夫。策を思いついた」そういって渕上はさっと振り返り、智沙の震える両肩を抱きしめて頭を撫でた。

 「どうするの?」

 「未来に影響を与えずに、過去を変える。そして君の前に現れた別未来からの情報を生かしつつ、現在に矛盾が生じない方法。F&Sの応用さ」

 「そんなことが可能なの?」

 「やってみる価値はある」

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