CASE.2-20

 真鍋のボックスカーは以前と同じ区画に駐車されているのが見える。コインパーキング内でひときわ異様な姿をさらけ出している高級車の中で二人は息をひそめて周囲を警戒した。すっかり暮れてしまった敷地内は電灯の明かりが目立ち始めていた。

 到着して10分ほどが過ぎたころ、歩道から二人の人影が姿を現せた。

 「時間だ」渕上はそろりと音を立てないよう車を出た。

 真鍋は寺浜の後ろにくっついていた。後ろ手にして歩いているところを見ると寺浜は手錠していることが窺えた。

 真鍋は自分のボックスカーを見た際、一瞬ひるんだ。マイカーの前方に人影が見えて驚いたのだ。だが、それも一瞬のことだった。

 「渕上、何している」

 人影は渕上が腕を組んで腰を曲げている姿だった。寒そうに凍えている仕草と全く同じだった。

 「一人で逮捕に行くなんてつれないじゃないですか。逮捕時は二人以上での行動が鉄則なのだから」

 「いらぬ気づかいだ。俺は何も逮捕しに行くなど一言も言っていない。これは任意同行だ。現にほら、手錠なんてしていない」

 すると寺浜は両手を前にかざした。

 渕上はしまったと思い、一歩下がった。

 「また会ったな」と寺浜は悠々と手首をこねながら不敵に笑った。

 「久しぶりだね。こちらもお待ちしていたよ」と渕上は何とか強がって見せた。

 「時間がもったいない。車に乗ってくれ」

 真鍋は車のロックを外し助手席のドアを開けた。

 寺浜は抵抗すること一切なく誘導されるままに車に乗り込んだ。

 「班長、実は重要な情報がありまして…」と渕上は真鍋に詰め寄った。

 突然馴れ馴れしく近寄ってきた男に真鍋は警戒心を強く持ったため、若干体を引かせてパーソナルスペースを保持しようとした。

 「先ほど大友宗介の件で話していない件があるのです」とあえて声を絞った。

 真鍋は聞きにくそうにして思わず詰め寄った。

 「東郷の遺書が見つかったのです。屋上にあった偽物ではなく、本人直筆のまぎれもない本物です」

 渕上は声を潜めてポケットから例のくちゃくちゃの皺だらけの封筒を見せびらかせた。

 真鍋は書類を奪い取ろうとしたが、渕上は真鍋の手に触れる直前に素早くその封筒を引っ込めた。

 「寄こせ」と案の定真鍋は神経を逆なでた。

 渕上は再び真鍋にすり寄ると、

 「その前に、なんでこんな場所に車を止めたのか教えていただけませんか。寺浜の自宅に駐車場ぐらいあっても不思議ではないはず」

 少し歩くような場所に車を止める意図を知りたかった。寺浜ほどの男の報酬ならマンションや一軒家などの駐車場とは無縁だとはどうも思えない。

 「なんでそんなこと気にする?」真鍋の目が明らかに鋭くなった。

 「いえ、ただ同類だと思っただけです。僕もほら、事件が起きた場所とか、これから起こりそうなところに止めて置きたくないので、極力目立たないところに止めておくので」とおどけたように自らの高級車を示した。

 「相変わらず嫌味な車体だ。俺はただ、住所を探すために車を降りた。それだけだ」

 「何だ…」と渕上はわざとらしく残念がり例の封筒を真鍋に差し出した。ついでに、

 「コピーありませんから大事にしてくださいよ」と付け加えるとマイカーに戻った。

 真鍋は急いで運転席に乗り込んだ。

 「それ、まさか!」と寺浜は飛びついた。

 「少し静かに」と寺浜を制し、渕上の動向を窺った。

 高級車はまさに車の鼻先を横に抜けようとしていた。運転席からはわざとらしく手を振る姿があった。

 真鍋はひと呼吸の後、手にした遺書を広げると

 「お前の欲しがっていたものだ」とちらつかせた。

 寺浜はたやすくそれを奪い取り両手で切り裂き、ついには細かい紙くずが手の内を覆い尽くす。

 「失礼します」と突然後部座席のドアが開いたと思うと、何者かが中に入ってきた。

 「犬養!」振り返った真鍋は智沙の登場に呆気に取られていた。

 「姉ちゃん、あんたもいたのか」と寺浜は馴れ馴れしくも第一声を放った。

 間髪入れず智沙は問答無用に寺浜の両手に手錠をかけた。

 「何する」

 「保険…いいえ、逮捕です。逮捕状申請は間もなくおりますから、とりあえず現行犯ということで。ああ、現行犯というのは真鍋さんに襲い掛かろうとしたことに対してだから」

 「犬養!それは横暴だ。俺は襲われてなどいない」

 「では、その紙くずはなんですか?」

 車内の至る所に細かい紙片が散らかっている。社内エアコンの風力で一瞬にして飛び散ったのだ。

 「大切な証拠品ですよ」

 「こいつが勝手にやったことだ」

 「では、正当な現行犯逮捕ですね。正直に言いますと不思議だったのです。寺浜の名前を聞いただけでどうして怪しんだのか。大友宗介からはおそらく何も聞き出せていなかったはずなのに。だから、こう考えました。あなたたち二人は知人同士。そして何らかの利害関係もあるのではないかとね」

 「つまらぬ推理だ」

 真鍋はエンジンキーを差し込みもう一度振り返っては智沙に言った。

 「話にならん。さっさと降りろ!」

 真鍋の口調がこれから荒くなるであろう寸前の出来事だった。突然大きな音を立てて、運転席のガラス片が内側に飛散したと思うと、大きな閃光が車内に広がった。

 一瞬にして視覚を奪われた智沙はとっさに座席の下で体を丸めた。ドアが開く音とシートをたたきつける音に恐怖を覚えたが悲鳴を上げたりはしない。瞼にぎゅっと力を込め、三度の深呼吸のあと頭を上げた。

 そこにはジタバタと体をくねらせ抵抗する真鍋の姿があった。その首筋に何者かの腕が絡みついているのだ。それも割れた窓の枠から徐々に引きずり出され、今にも引きずり出されそうになっていた。そして助手席には寺浜の姿はなくドアが開けっぱなしに放置されていた。手錠のまま逃げ出したのだ。

 智沙は急いで何者かの対角線側のドアを開け車体越しに銃で身構えた。その時にわかな違和感を覚えたのだが確認している余裕などない。銃口の先で男が真鍋を力ずくで引っ張り出しているのだ。

 男はめざし帽をかぶりサングラスをつけていた。細身の体に目立たない黒のシャツにグレーのスウェット。防弾チョッキのようなベストを着用していた。そして伸ばした手から皺がやけに目立っている。帽子の外には白髪が光っていた。

 「犬養、さっさと撃て」

 もがき苦しむ真鍋は呼吸も絶え絶えに必死に抵抗した。手を伸ばしたが自分のピストルホルダーに手が届かない。

 ついには体を引っ張り上げられ窓から上半身が大きく露出した。

 「今すぐ放しなさい」

 男は智沙の指示には従う気はなかった。力づくで真鍋を車から引っ張り出した後、アスファルトにたたきつけ仰向けの顔に大ぶりの拳をぶつけた。

 殴られた真鍋は腰のホルダーに手をかけた。確かな重量感を覚えながら指は引き金にかけてゆく。二撃目の拳が振り上げたとき、銃口を男に向けた。真鍋にためらいなど一切ない。

 だが、突き付けた銃口はむなしく力を失い、標準は簡単に地へと沈んでいった。

 男は無言のまま何度も真鍋を地面にたたきつけた。既に意識を失っていても男はやめようとしない。

 智沙は決死の覚悟で男を突き飛ばした。

 「生意気な」と男は声を上げた。声の質がやけにしわがれて聞こえる。

 「あなたは誰?」と智沙は再び拳銃を構えた。

 「犬養。あんたは次だ。俺の人生を返せ」

 男は智沙の拳銃に手を伸ばした。手を出しても届かない距離である。

 すんでに智沙は引き金を引いた。その時やっと違和感の正体に気が付いた。

 (モデルガン?)

 銃弾は火を噴かなかった。代わりに小さな球が飛び出す程度、目に入ったら痛いだろうが、傷を負わせるまでの威力はない。

 判断を誤った智沙に男の腕がたどり着く。

 男は智沙からモデルガンをはたき落すと地面に落ちたそれを蹴飛ばした。さらに男は右手首を掴むと体を強く引き寄せた。

 力のままに智沙は体を持っていかれ、勢いのまま体は投げ出され地面にうつぶせに倒れた。智沙はひるむことなくうつぶせのまま目の先で倒れている真鍋に手を伸ばした。その手の先に真鍋の拳銃が握られていた。

 智沙はすぐに真鍋から拳銃を引きはがし状態を仰向けに回転させると再び男に銃口を向けた。先ほどのような軽さはない。明らかな重量感が感じられ重みが違った。

 引き金を引こうとした直後だった。男は素早く手にある拳銃を奪い取った。

 男は勝ち誇ったような高笑いを見せた。その間、銃口の先は決して標的から離さない。

 「智沙!」

 智沙の耳に渕上の声が聞こえる。

 智沙は覚悟を決め、両目をつぶった。破裂音は明らかに男の手元から発せられた。まるで時が止まったように発砲音の名残が耳を離れない。すべてのものが遅く感じられる。サイレンの音やもがき苦しむ真鍋の声、そして駆け寄る渕上の姿。感覚が過敏に反応する現象を体一身に受けていた。

 ドシンと音を立てて倒れる身体を確認した時には智沙は意識を失った。


 「ループの二重併合化、言っておくけど別に専門用語じゃない。まあ、この場合は言葉が肝心ではないが…」

 智沙は黙っていた。説明を続けろという暗黙の指示であった。

 「ああ、質問はないってことで続けよう」渕上は気を取り直して、ホワイトボードの図形や文字をすべて消した。多少雑だが、何かを書き込むには十分な広さのスペースを確保した。

 「まず、ループのことだけど、これは時空的概念なのであって、現実には存在しないとされてきたものなんだ。まず一般的な言葉の意味では始点と終点が同じということになる。それに対して時空的概念を含めた場合、これは複製的、完全同一が求められる。つまり、普通は輪だがこっちでは平行線」

 渕上は智沙の目をみた。理解力を試していた。

 「続けて」と智沙はなんてことないと言いたげに返した。

 「そして、この時空的概念の中に僕らのような観測者でもある侵入者からすると二つの図、つまり輪と直線は融合し線と線の間をつなげることになる。これがさっき説明した根幹部分とか後に続く過去の僕らの存在につながるわけだ。これは一つのループと言ってもいい。これはわかる?」

 「過去に戻ってきた私たちが過去に干渉しないように苦労してきた理由と同じってことよね?過去になかったはずのことをしてしまうと矛盾が生まれてしまう。そうならないことがループってことでいい?」

 「多分」渕上は頼りない声を上げた。

 「たぶん?本当に大丈夫なのよね?」

 「複雑なんだ。時空問題は専門家である朝倉影清にでさえ、雲をつかむ話だと定義しているのだから、百パーセント正しい予想なんて立てるすべが確立できない。それだけものすごい試みなんだよ」

 「付き合うわよ」智沙は肩を張るのをやめて椅子に座って抗議の続きを聞くことに専念した。

 「僕らがこうしていることも、例えば1時間後ここに戻ってみるとしよう。きっと同じ風景を見るだろう。この目の前に僕らが現れないということは1時間後、十日後、今後未来にわたって僕らはこの場所に時間移動しないということの証拠になる。でも姿を見せないだけで時間移動していないとは絶対に言えない。なぜなら確認ができないから。

 そして今起きているすべての現象には時間の経過とともに時空の既判力が生まれる。既判力というのはわかるよね。法律用語だけど、この場合も適応しよう。これを時空概念的なループという。

 では観測者でもある侵入者が時空の既判力を超えた行動をするとどうなるか。それは君も言った過去に干渉するということだけど、多くの場合はすでに決められた通りに行動しているからほとんど影響が出ずにループ内に収まってしまう。君の知らないところで僕らがこの世界に戻ってくる前の現在のどこかでそのほころびが現れているということだ。

 きっとこう聞こえるのではないか?過去を変えることはやはり無理なのだと。結局決められた行動を無意識に取っているのだから、僕らにできることはないのではないかと。しかし、別の考え方だってできる。僕らは意思によって世界をなぞることができるのだと。自由意志による無意識ではループを抜け出せない。つまりループをなぞってこそ世界はあるべき姿を維持できる。ループを外れない限りは混乱は生じないとね。

 まあ、ややこしい話だけど、つまりはこの一つ一つの線をそれぞれ一つと見るのではなく、二本で一つ、しかも互いに隣り合う時間軸を共有するという意味でお互いが共存し、やがて一本の線を作る。つまり、ループの二重併合化だ」

 ホワイトボードには横書きの平行線が何本も書かれ、隣り合う二つの平行線同士を輪で囲う。必ず一本の線には輪が二つ分重なり合い、その先から新たな平行線が書かれ線が続いている。

 「そこで知りたいのは方法だろうね。まず結論。君が死なないこと」

 「それだけ?」

 長ったらしい説明の後の結末があまりにもあっけなく聞こえたのだった。

 「でも前提条件はある。渕上Bから何を言われたかわからないが、忘れること」

 「確認だけどBってことは未来から来たあなたのことよね」

 「そう、それと君一人でこなすこと」

 「なんで?やるからには協力したほうが…」

 「今回、僕の存在が邪魔になる。なぜなら本当の目的は…」

 突然言いよどんだ渕上は何事か考えこんでいた。

 智沙の目が不意にホワイトボードの図形に目が行った。平行線の一番上は当然ながら丸が重なっていない。直線一本に対して輪が一つ。そこに偶然、雑に消したものだから、消し残りの曲線が一本その平行線と交差していた。

 そこで智沙はある仮説に気が付いた。

 「もし、仮によ。私があなたに未来から来たあなたの存在のことを黙っていたら、ループは止まっていたの?あの日のあなたは今のあなたに悟られてはいけないと警告していた。それって過去に戻ってはいけないということを意味しているとも解釈できる。過去に戻らないことで私の命を救おうとしたということになる。でもこうして過去に戻り自分から命の危機に直面しようとしている。あなたがその二重併合案を提案することも、抗うすべを模索することも、すべてを含めてすでにループの中。そう考える方が自然ってことでしょう?」

 智沙は自分で口にしてゾッとしていた。すべては運命のまま操られているという超自然的な結論に改めて逃げ場がないのではないかと実感したのだ。

 深刻そうに表情が暗い智沙とは対照的に渕上は思いっきり笑い出した。

 呆気に取られていた智沙を見透かすように渕上は笑顔で見ていた。

 「何が面白いのよ…」

 「さすが犬養班長だよ。この数日でここまで時空科学の理解したなんて。でもね、安心してよ。君は死なない。恐れているようなことにはならない。君は何もないはずの敷地を病院の跡地だと言い切った。これはループを抜けるための前兆だと思ってもいい。真鍋班長も助かるだろうし、君も死なない。君の道に疑いは必要ない。なぜなら君が正しいのだから」

 その言葉に嘘は感じられなかった。揺れや歪みなど一切感じさせない、まっすぐでいて、確信に満ちたものであった。

 智沙は涙しそうになった。かつてこれほどまでに自分を肯定してくれたものがいただろうか。そしてこれほどまでにまっすぐ向き合ってくれた人はいただろうか。たとえ慰めや嘘であったとしてもかまわない。既に決意は定まった。

 「念のためもう一度聞こう。僕らはなんでここにいるの」

 「阻止するためよ」


 「はい、重軽傷は2名です。そう…真鍋と犬養…はい。民間人への被害はなし」

 高岡はパトカーの無線機を使ってやり取りした。無線機の電波が乱れ時々聞き取りにくい部分もあったが業務報告には支障がなかった。

 助手席の窓ガラスからノックする音が聞こえ、すぐに目をやった。

 渕上が手のひらを見せて顔をのぞかせていた。無線通信を切らずジェスチャーを交え招き入れた。

 「お疲れ様」と紙コップが差し出された。セプテンバーナインスのロゴマークが紙コップに印刷されていた。

 高岡は受話器を装置に引っ掛け通信を切り、冷たいコーヒーを口にした。

 「これも」と渕上は紙袋を手渡した。

 受け取った高岡は「悪いな」と早速中身のドーナツを口にほお張った。

 「犯人について何かわかりましたか?」

 「さあ、訳が分からんことしか言っていないらしい。それも相手は見るからに老人ときたもんだ。あの真鍋を半殺しにしたんだから、相当の腕力の持ち主なのだろうな。渕上は真鍋から聞いていないのか?老人から恨まれる理由なんて」

 「まったく」

 「あの真鍋だ。恨みの一つや二つじゃ尽きないだろうな」と高岡は笑った。

 渕上もコーヒーを口にして笑顔を努めた。

 「それにしても、不思議な夜だ。変な感覚だ。以前にもこんなことがあった気もするがそれがいつだったか…」

 「疲れているのでしょう。夜に駆り出される事件はよくありますから」

 「そうか?そうかもしれないが、不気味なんだよな。とんでもなく忙しくて、今日以上に緊張感があった気がするんだけど、あんまり思い出せないんだよな」

 高岡は「歳かな~」と無精ひげをポリポリ掻きながらフロントガラスから見える空を見上げた。

 「それにしてもその顔の傷…」と訊こうとした時だった。無線から緊急に情報が飛び込んできたのである。高岡は慌ててコーヒーで口の中のドーナツを押し流し、無線機をつなげた。

 「寺浜龍悟の確保?それで、被害者は…ゼロ。よくやった。我々も撤収しよう」

 高岡は朗報にガッツポーズを決めた。共感を求めたくなり、隣を見たがそこにはいつのまにか渕上の姿はなかった。


 「班長!」

 目を覚ました智沙の前に碓井が飛びついた。例のごとくカーテンの向こう側に倉本がいるのだろう。

 「無事でよかった」と顔だけのぞかせた倉本は安堵した表情だった。

 「ここはどこ?」

 「私は誰、とか言わないでくれよ」と倉本はカーテンを開けた。そこで気が付いた病室には犬養班3名だけであった。

 「蝶の森林記念病院です」

 智沙は驚いて上体を起こした。シーツも一緒にめくりあがり、着ていたワイシャツが乱れ、胸元が大きく露出した。

 「班長。胸」と碓井は慌てて注意した。倉本も咳払いして自分なりの注意を示していた。

 智沙は気が付くと慌てて胸元のボタンをしっかりと閉じてから改めて訊いた。

 「今日は何日?」

 「7日ですよ」

 「今日は何していた?」

 「大丈夫か?班長。やっぱりよ、記憶喪失なんて言わないでくれよ」冗談事が現実であってはまさにシャレにならない。倉本は本気で心配していた。

 「島村正志さんの実家で調べ物をした後、真鍋さんから連絡があったとかで渕上さんと出て行きましたよ。本気で覚えていませんか?」

 智沙はくらくらとする額を押さえて記憶を巡らせた。最後に覚えている光景。

 「痛っ」額の真ん中に触れた時、小さな痛みを覚えた。

 「大丈夫ですか?」碓井は心配そうにしていた。

 「撃たれたはず」最後の光景、それは誰かに銃で撃たれて倒れたものだった。

 智沙は両手で頬や額、頭など至る場所を触った。

 「やっぱり休んだ方がいいですね」

 「大丈夫だから」と智沙は足をベッドの外に投げ出した。

 「本当に平気なのかよ」と倉本は介抱しようと手を貸した。

 「真鍋さんは?」

 「真鍋の奴なら命に別状はないってよ。複雑骨折だが犯人に死なない程度にいたぶられたそうだ」

 「犯人?」男の姿を思い出した。あの帽子にサングラス、細身の老人である。

 「逮捕したけど、素性について手掛かりなしだそうです。話では最近頻発した捜査官襲撃犯ではないかという話ですが、班長はこいつに襲われたって聞いていますけど、思い出せそうですか?」

 「ダメ、混乱してきた。最後の瞬間…」智沙は頭を抱えてベッドに腰を下ろした。

 どうも事の経緯をうまく思い出せない。自分がなぜ真鍋に呼び出され、結果的にけがを負っているのか。病院を疑っているのか記憶に霧が立ち込めていた。

 「先生にはこのまま入院すると俺から言っておくから、班長はしっかり体を休めることだ。明日にはサカキの事件も解決できるだろうから」

 「そうですね。明日には立花の話が聞けますし、島村の証拠画像もあります。今回は私たちが事件解決を…」碓井はふと見た智沙の異変に気が付いた。

 智沙は涙を流していた。

 「どうしたんです?」

 「いいえ、何でもないのよ。いつもの癇癪だから…」

 「癇癪って余計悪く聞こえるよ。俺たちももう帰ろう。班長疲れているんだ。碓井、桑原と渕上にも帰るって伝えておいてくれ」

 「そうよ。渕上、何処にいるの?」なぜか薄れゆく記憶の中でその名前が胸を打った。

 「ずっと真鍋さんの病室にいるはずです。一応部下だからって看とかないとって話でしたけど。呼びますか?」

 「いいえ、いいのよ。みんな今日も忙しかっただろうから休んでほしい。さや、ありがとうね。気遣いはいつもうれしい。倉さんもありがとう。私のほうが上司なのに本当にいつも面倒を見てくれて」

 「いいんだよ。俺らは。犬養班なんだし。あんたが班長じゃないとやってけない」と倉本は照れ臭そうにした。だが、その照れ臭さが倉本の本質を助長した。

 「そうですよ。私は犬養班長にあこがれているだけです」

 その迷いなき生真面目な性格すべてが碓井だった。智沙は思わず碓井の頭を撫でてやりたい衝動に駆られたのだが、それは彼女の胸にしまっておいた。


 一人になった智沙はふと夜空の下に佇んだ。

 病院の屋上には患者用休憩スペースがあり、夜中でも利用できるものだった。ただ、病院であるのでフェンスが2メートル以上あり真下を覗くことはできない造りだ。

 一人夢想にふけった。

 この数日とんでもなく長い旅をしたような気がしていた。

 天に広がる星空に奇跡を感じていた。これまで一度も七夕の夜を待ち望んだことなどもないはずなのだ。子供のころにかいた短冊にお願い事を書く、それ以上の思い入れはない。しかし今夜の静寂なる七夕は漠然とした不安に募らせた心を満たすほどの幸福に思えた。

 駐車場の奥に目をやった時、不思議なまでに懐かしさがこみあげてきた。

 正体に気が付いたとき智沙は病院を駆け下りた。時刻は11時を過ぎていたが、病院は出入り自由だった。普段は救患の対応に慌ただしいこの病院もこの日はなぜか閑古鳥が鳴いていた。

 「ミニー」

 智沙は思わずマイカーを呼んだ。ミニー、それが彼女の軽自動車の愛称だった。

 車は病院の駐車場ではなく、なぜか敷地を囲う車道の端に停められていた。さらに見覚えのない紙がフロントガラスから見えるように内側で貼られているのが見えた。

 『警察車両につき駐車中』とまぎれもなく自分の手書きで書かれているのだ。

 「何よこれ?」と呟きその紙をじっくり見ていた。

 「探したよ」

 不意に声を掛けられた智沙はあまりの驚きによろけてミニーに腰をつけた。

 「元気そうだ」

 「渕上?こんな遅い時間にどうして?」

 「君を待っていたよ。と言っても僕は何があったのかあまり知らないんだ」

 「知らない?覚えていないとかじゃなく?」

 すると渕上は二つ折りにした一枚の紙を手渡した。几帳面な手書きの文字でこう書かれてあった。

 『2回目の7月5日へ来た僕への大切なお願い。

 訳あって僕はこの場から姿を消さなければならなくなった。これはある女性を救うため重大な決断に迫られた僕からの切なる願いだ。女性というのはわかると思う。犬養智沙のことだ。彼女は僕らの力に引っ張られ、同じく時間移動を経験したであろう。ここまでわかれば僕なら理解できるはず。

 話はとても複雑である。その女性はある人物によって得体のしれないループに囚われることになったのだ。ある人物というのは未来の僕、この場合僕らはお互いに渕上Bと名付けていたのだが、わかるように、これは決して他人ごとではない。Bと言っても僕自身なのだから。

 僕らはおそらく今までの彼女を取り巻くループから解き放つすべに気が付いていたはず。僕らはそのすべを知っていても成し遂げらえなかった。何度も失敗を繰り返してきたのだ。僕らの失敗で彼女をループに閉じ込めた。だから僕はそれを食い止める。今まで成し遂げられなかった無数の僕らはもうこの渕上Aで食い止めようと思う。

 ここからがお願いだ。僕という渕上Aの存在は二度とやり直しがきかない。だからこそ、情報を一切持っていない僕にお願いしたい。僕が救い出した犬養智沙を僕の代わりに守ってほしい。僕だからお願いできることなんだ。具体的には7月7日の日中は家を出ないでほしい。そして22時以降、入院しているであろう彼女に読ませてほしい書類がある。そのもう一枚の書類というのは僕自身は決して読まないように。時間移動の重要な内容が書いてある。機械的に知ってはいけないことなので邪推はしないでほしい。

 最後にどうかくれぐれもよろしく頼む。そしてループの先端を突き進むことになるであろう君をうらやましく思う。智沙を頼んだ。

 2回目の7月7日を過ごした僕(渕上A)より』

 そこに書いてある内容のほとんどは理解できなかったが、心に迫る複雑な感情が痛烈に神経を駆け巡った。抜け落ちた記憶が何なのかもう少しで手が届きそうである。だが何かが足りない。それこそが智沙が知らなければならないものであることは、なぜか理解できるのにだ。

 目の前の渕上は厚手の封筒をそっと手渡した。しっかりと封印され、一枚目の書類とは明らかに重みが違った。

 「ここに書いてあった通り、僕は読んでも開けてもいない。中を盗み見たい衝動に何度も駆られたのは事実さ。この手紙で記憶が戻ることを願うよ」

 渕上は背を向けた。

 その後ろ姿がなぜかさみしそうに感じたが、今はこの男とどういった接し方をしていたのかも覚えていない。かける言葉を見つけられずに智沙は一人呆然と立ち尽くしていた。

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