CASE.1-07

 未希はつかまれた肩を痛そうに振りほどいた。

 「乱暴しないで。どうしたっていうのよ!」

 「お前、浮気しているだろ」

 夫の狂気の正体が表れた。未希以外のものからしたらそう思ったであろう。そう、ただの愛憎のもつれ、男女関係、夫婦喧嘩。

 「馬鹿言わないでちょうだい。さっき仕事に出て行ったと思ったら何?突然帰ってきて、理由を聞いても話さない。それで今度は私の浮気を疑うなんて。あなたどうしたいの!」

 いくら忍耐強くなったとはいえ、怒りがこみあげてきていた。

 そんな妻を差し置いて勇哉は未希の襟元をつかんでもう一度リビングに引っ張った。

 「やめて!」

 「俺より浮気相手を大事にしているんだろ」

 「よく言うわ。私のことなんて何とも思っていないくせして」

 未希はすべて知っていた。

 「電話しろ」

 いつの間にか勇哉の手にはフルーツナイフが握られていた。刺されたり切られたりしたら痛いであろうことはだれにでも予想できる。向けられた刃先はまっすぐと微動だにしていない。

 「誰に?」

 「決まっているだろ、男だよ」

 「男なんていない。誰のこと言っているのだか」

 「黒川だよ」

 その名を聞いて未希は思わず表情に出してしまった。

すかさずとばかりに勇哉は「不潔な女だ」と吐きつけると未希のバックをひったくり、ごそごそと中身を探った。

 携帯電話を取り出し、得意げに操作するとそれを突き付けた。

 「早く出ろ」

 勇哉は勝手に電話帳から相手の番号を引っ張り出すと通話状態にしたのだ。

 未希は慌てて電話を取り返すと平静を装うため深呼吸をした。助けを呼ぶこともできたが、目先にナイフがちらついていた。

 勇哉は電話に出るように告げただけで、話す内容に関しては一切口を出していない。何を話したらよいやらわからなかった。未希にとって黒川朔は単なる仕事の後輩であり、一度歓迎会で飲んだ時に趣味の話題で盛り上がった程度の付き合いであった。黒川がどういう感情を抱いていたのかまで考えたこともなかった。

 話題はと考えると、これからのシフトのことで十分だろう。そう考えるとシフト交代ぐらいしか思いつかなかった。聞きようによってはSОSにもなるのではないかと淡い気持ちも込めていた。時折目の前の夫をちらちらと確認したが、一切要求を示すことはなかった。

 結局何をさせたかったのかわからないまま未希は電話を切った。

 勇哉は隙を与えることなく役目を終えた電話を奪い取ると自らのポケットへと押し入れた。

 「じゃあ」というと未希をソファーに突き放し、腰を落とした先に4つ折りの紙を置いた。

 「何よ、これ」

 「見ればわかるだろ」

 即座に開いた紙が意味しているものを不気味な目で見つめた。

 「自分がどれほど勝手をしているか理解していないようね」と怒りのままに紙を投げ捨てた。

 「当然の結果だろ。こうなっては関係は修復できない。もう離婚しか選択肢はないんだよ」

 離婚届の紙にはすでに夫の名前と判が押されていた。

 「呆れるわ」

 ため息をついた未希の目の前に再び離婚届を突き付けると、

 「当然、慰謝料も財産分与もなしだ。何せお前が破綻させたんだから」

 その言葉についに怒りを爆発させた未希は立ち上がると離婚届をぐしゃりとつかみ取り、滅茶苦茶に破り捨てた。そして飛びぬけるようにしてその場からキッチンに足を向けた。

 勇哉は逃がさぬとばかりに駆け寄って見せたが、妻の姿に一瞬たじろいだ。

 「さっきからどの面下げて、何を主張しているの!」

 今まで見たことのない怒りに満ちた妻は包丁を手にしていた。

 「私が知らないとでも思っているの?あんたには付き合いきれないわ。さっさと出て行ってちょうだい」

 包丁の刃先を玄関に向かって突き付けた。その刃先は狂気と怒りで震えていた。

 その威嚇に勇哉は気圧されたのか何も反論せずのっそりと家を出て行った。

 外は変わらず雨が降り続いていた。

 未希は二度目のため息をつくと手にした包丁をその場に置いた。手はまだ震えている。

 自分勝手な人間だと思っていたが、これほど勝手な人間だったとは想像していなかった。数年間耐えてきた辛抱は一瞬の出来事で崩壊した。積み上げてきたものが崩れ行く後悔以上に胸がすっとした。

 だが、その安堵はすぐに終焉を迎えることになった。

 窓ガラスが割れる音がした。すさまじい雨の音が室内の雑音を支配した。

 ガラスの割れる音から数秒もしないうちに今度は玄関が開く音がするのだ。

 感じたことのない恐怖で身をかがめ、再び包丁を握りなおした。

 それから間もなく勇哉の手は血に染まっていた。

 未希は恐怖で体を硬直させ全く抵抗することなく夫の手にかかったのだ。

 キッチンのわきに崩れるようにして倒れた妻を横に、手についた血を洗い流した。

 返り血は全身を覆っており、ワイシャツは赤く染まっていた。血の付いた衣服をすべて脱ぎ、床に並べるとズボンから携帯電話を取り出した。

 それを操作するとガラスの割れる音が静かに鳴った。勇哉はその音を確認すると再び携帯電話の操作をし、割れた窓の前に置いた。ガラスの向こうに覗く雨脚は一向に勢いを落とすことがない。

 天気を確認すると勇哉は急いで部屋中を荒らしまわった。実際に貴重品の入った棚をひっくり返して、貴重品は冷蔵庫の奥に詰め込んだ。


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