CASE.1-04
謎の欠片、一つ一つがまとまりつつある。智沙には実感が湧いてきていた。ただその欠片がいかにまとまるのか、何がまだ欠けているのか、未知数である。その前に手許にある欠片が正しいという確証が欲しかった。
智沙はハンドルを切って目的地を変更した。
「やはり旦那を第一容疑者とみるのが賢明のようですね」
碓井もすでに察していた。事件現場で抱いた違和感の正体に誰もが納得した。
碓井は改めて夫竹中勇哉の証言に目を通した。
「単調であって平凡だけど十分なアリバイは保証されているって感じよね」
「はい。日中は会社。会議を中心に一日を過ごして、夜は同僚らと飲みに行く。確かに絵にかいたような花の金曜日って感じです」
最近ではめったに耳にしない表現に智沙は思わず噴き出した。
碓井は「何かおかしいですか?」とわざとらしく焦ったように訊いた。そのしぐさが智沙にはかわいくて仕方がないのだ。
「花金なんてよく知っているわ。私ですらあんまり言わないのに」
「当然ですよ。金曜日が週末だって括りがあった時代の象徴みたいなものなんですからね。教科書に載っているぐらいなんですから」
智沙は感心して見せた。教科書云々ということは彼女の世代では初耳であったからだ。
週休二日制、完全週休二日制と働き方の変化は大きく時代とともに変化を伴った。
数年前のある事件から人々の労働環境は二極化に進んだのだ。完全週休三日制を採用する会社はあるが、ほんの一握りの海外優良企業、加えて公務員各種である。公務員に関しては労働時間を削ることで財政の圧迫を緩めるという、なんとも切迫した状況に置かれており、副業が当然のごとく認められる事態である。
大してほかの企業のほとんどが休日なし、出来高制の給与支給制度となった。
前者を『有休企業』といい、後者を『不休企業』といった。これらの言葉は数年前の流行語大賞にもノミネートされたほど広まった。
「さあ、着いたわ」
周りと比べ比較的大きいビルの駐車場に入っていった。このビルの二フロアを使っている会社〈安田ペンシルホールディングス〉が竹中勇哉の勤め先である。
受付案内の内線から適当な担当者を呼び出すと、数分後背が高く顔の堀が深い男が姿を表した。彼が竹中勇哉の直接の上司である。
「吉川です」
男は営業マンらしく名刺を差し出した。頭を下げた際、顔に不釣り合いな太鼓腹が目立った。数年前までは女子社員にちやほやされていたのではないかと思わせる顔のつくりなのが残念感がうかがえた。
会議室に促され事件当時の竹中勇哉の裏取りを始めた。
「昨日の竹中君ですか」
吉川は手元の電子手帳で確認した。その手は小刻みに震えていた。
「昨日のことですよ。覚えありませんか?」
智沙は少し厳しい口調でまくし立てた。
「あ、はい」とハンカチで汗をぬぐって続けた。
「昨日は午前中は打ち合わせです。午後からはずっと席にいたはずです」
碓井は手帳を見ながら頷いた。竹中勇哉の供述の通りであった。
「午前中に打ち合わせと言いましたが、打ち合わせのメンバーを教えてください」と智沙は質問した。
吉川は再び汗をぬぐいながら、
「私と竹中君とあと女子社員が一人です」
「女子社員といいますと?」
「松浦さんです」
これもまた竹中の供述通りであった。容疑者を含めた3人での打ち合わせに加えて…。
「ああ、それと途中で清掃のおばさんが入ってきたなあ。ごみの回収とかですぐに仕事を済ませて出て行ったはずです」
吉川の供述すべてが竹中の供述のままであった。
話に出た女子社員松浦、清掃員の上田にも話を聞いたが、竹中の供述に非の打ちどころがほとんどない。
松浦は怒りを込めて、
「竹中さんはずっと会社にいました。竹中さんを疑うのは時間の無駄です。何があったか知りませんが、別をあたるべきです。税金の無駄よ」と厳しい声を向けた。
確かにアリバイだけに焦点を向ければ完璧なのだ。これ以上疑う余地はないと言われればそれまでであろうと智沙は一瞬思いかけた。
ただ、一点。容疑者の供述に欠点を上げるとしたら、清掃員の上田の記憶だ。彼女の記憶にあいまいな部分があったことだ。打ち合わせ中にそれぞれの姿を見たものの確信はできていなかった。そのあいまいさが裏取りの正確性には微々たるものと言われればそれまでだ。清掃に入った一瞬を覚えていないことを誰も咎められない。
つまり容疑者竹中のアリバイは十分立証されていた。
智沙は後ろに結んだ髪を触り、碓井は手帳を抱えて腕を組んだ。二人はそれぞれ考え込んでいた。
そのあとも仕事終わりの飲み会の参加者全員の供述をとっても収穫は一切なかった。
空腹感を覚えながら二人は安田ペンシルを後に事件現場へ向かった。
「アリバイは崩せそうにありませんね」
助手席についた碓井は難しそうな顔をした。
「そうね」智沙も同じ顔をした。
「居酒屋にも裏取りに行きますか?」
「必要ないわ。時間の無駄ね。あれだけ聞いてこの成果じゃあ、竹中勇哉の供述に不備はなさそうと思わない?」
「そうですね…」
「それにしてもアリバイが完璧だとは思わない?」
「ええ。結局事件は強盗殺人なんでしょうか…」と碓井は自信を失いかけていた。
「それはない」と智沙は即答した。
『窓ガラスが割られていたのに足跡がなかった。雨が降っていたはずだから、靴底のシミが床にないのはおかしいでしょ。窓からの侵入だとしたら靴を脱ぐのは危険なはず。ガラスの破片が窓うちに散乱していた。だとしたらやっぱり玄関からの侵入を考える。犯人は決して土足で押し入ってはいない』
仮説は班3人で共有したものだった。床の汚れやガラスの欠片については倉本の調査済みである。
「強盗殺人の可能性はない。犯人が偽装したとしか思えない」
揺らぎのない確信が智沙にはあった。
「仮に靴跡や窓ガラスをいったん忘れたとして、本当に強盗事件だとしたら、凶悪事件よ。在宅者の存在に気づくことなく、凶器を携帯した強盗犯が侵入した。窓からだとしたら、音のリスクがある。玄関だとしたら、カギをこじ開けたのだから不審者として目立つでしょう。それでも中に侵入できた強盗犯は奥さんに気づかれてしまった。きっと何の躊躇もなかったのでしょうね。背中を何度も刃物を突き刺し、辺りは血の海。当然ながら犯人は返り血をたくさん浴びたはず。リビングの死体を横に箪笥や棚を物色。箪笥や棚に血がついていなかったのだから何かで汚れを拭いたのかもしれない。そして何事もなかったように玄関から現場を後にしたということになる。もし呼び鈴を使ったのなら犯人は被害者の知人とも考えられる。中に招き入れたぐらいだから知人以上の間柄ね。だとしたらこれはもう強盗事件ではない。明らかな殺人事件よね」
智沙は整然と想像を並べながらもゾッとしていた。
「私も強盗事件はどうも腑に落ちません。空き巣目的の果ての結末だとしても、どうも犯人の意図が読めなくて、なんだか気持ち悪いです」
「そうね」
「侵入経路なんですけど、玄関からの侵入なら窓ガラスを割る必要なんてなかったんじゃないかって思うんですが」
「なるほど」と感心して見せたが、智沙の頭にもその疑問があった。
「ガラスの割れる音が聞こえてしまっては侵入犯にとって不都合なはず。それを抜きにしても窓ガラスを割るメリットがあるとは思えないのです」
「さあ、私たちには気が付かない犯人の思惑があるんでしょう。それかただの間抜けか」
「そうですね」
空腹のために二人はこれ以上の思考をあきらめた。
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