番外編 青葉の頃

 放課後、アタシは担任の先生に呼び止められた。

「朝倉さん、来週進路相談だから、お母様に都合を聞いておいてね」

 横浜にいくつかある、名門と呼ばれるエスカレーター式の女子高の一つにアタシは通っている。

 今年で卒業だが、進路はまだ決めていない。

 このままだと付属の大学に行く事になりそうだが、それもなんだかなあ、と思っている。

 別になりたいものも無いし、やりたい事も無い。

「無気力」って訳でもない。

 ただ、自分の将来を決めるのが怖いだけなのかもしれない。

 漠然とした将来への不安感もある。

 毎日がフワフワして、まるで綿菓子の中で生活してるみたいだ。

「ここではないどこかへ」行きたいとも思うけど、多分行ったところでまた別の場所を探すだけのような気もする。

 

 学校の友達はみんな優しい。

 陰湿ないじめもない。 

 いや、あるのかもしれないが、少なくともアタシには向けられていない。

 かと言って「親友」と呼べるほどの深いつきあいの子もいない。


 学校に、アタシの居場所はなかった。


 家にはもっとアタシの居場所が無い。

 ママは優しいが、パパがどうやら外に女を作っているようで、滅多に帰って来なくなった。

 ママはいつも誰かに電話して愚痴をこぼしている。

「みぃちゃんだけはママの味方よね」と呪文のように繰り返す。

 正直ウザいが、突き放せるほどアタシは強くない。

 せめて兄弟姉妹がいればと何度思った事か。


 家にも学校にも居場所のないアタシは、必然的に夜の街に出るようになった。

 ママには文化系の部活に入ったと嘘をついた。

 パパは後ろめたいのか、お小遣いをいっぱいくれる。

 だからと言って、犯罪に走ったりするような度胸はアタシにはない。

 する必要性も感じない。

 ただただ、家にいたくないから夜の街を彷徨うだけだ。


 その日もアタシは石川町駅のトイレで私服に着替え、元町辺りをブラブラしていた。

 元町通りにお気に入りの喫茶店があるのだ。

 ここは喫茶店なのに中古家具屋も兼ねていて、2階の喫茶スペースのお客さん用のテーブルや椅子にも全て値札がついている。

 もしアタシがコーヒーを飲んでる時に他のお客さんが「あのテーブルを頂戴」と言ってきたら、アタシはテーブルなしでコーヒーを飲まなくてはならないのだろうか?

椅子も一緒に買われたらどうしよう?

と想像する。

 もちろんそんな事はないのだが、そういったくだらない想像が出来るのが気にいってる点なのだ。

 ここではいつも本を読む。

 今日は寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」。

 文庫本の表紙の女の子も可愛くてお気に入りだ。

 随分昔の本だけど、昔からアタシくらいの年頃の子の考えてる事なんてそんなに変わらないのかもしれない。

 寺山修司のエッセイや随筆は好きだ。

 競馬や野球の話は分からないけど。

 そのうち映画や演劇も観てみたい。

 アングラってのもよく分からないけど。

 でもハマったら人生狂いそうな気もする。


 結局、アタシは臆病なのだ。

 不良にもなりきれないし、敷かれているレールからはみ出すのが怖いのだ。

 分かってはいるんだけど、認めるのは嫌なのだ。

 何も出来ないのにプライドだけは高い、ダメな奴。

 それがアタシだ。


 もちろんこんな事をずっと考えてる訳じゃない。

 楽しい事だってあるし、好きな事もある。

 音楽を聴いたり本を読むのは好きだ。

 現実逃避と言われたらそれまでだが、少なくとも物語や音楽に浸ってる間は、アタシは「ここではないどこか」に行ってるような気がする。


 でも学校の友達みたいにアイドルに夢中になる事はない。

 別に馬鹿にしてる訳じゃない。

 単にアタシが興味が湧かないだけだ。

 恋愛ってのもよく分からない。

 ずっと女子校育ちで男性に免疫がない。

 ましてや一番身近にいる男性である父親がアレだ。

 男性不信って訳でもない。

 ホント、よく分からないのだ。

 物語の中にいるヒーローはカッコいいけど、現実の男性はあんなじゃないし。

 どちらかと言えば粗暴で無神経で汚い部分ばかり目についてしまう。

 自分は「夢見る夢子さん」なんだろうか?

 いや、そんな純粋なものでもないような気がする。

 結局、経験不足、サンプル不足なんだろう。

 身近に男性がいっぱいいる環境になれば改善されると信じている。

 

 辺りが暗くなった頃、元町から歩いて関内方面へ向かう。

 今日はママがフラワーアレンジメント教室の会合とかで遅くなる。

 夕食も勝手に外で食べていい事になっている。

 今日は横浜スタジアムで野球の試合があるらしく、関内駅から凄い人の群れが歩いて来るのを避けながら、駅の反対側まで行き、福富町の美味しいホットドッグ屋さんを目指す。


 横浜は「寿町」「福富町」「黄金町」といったおめでたい名前の町ほどヤバいところが多い。 

 夜になると外国人娼婦が街角に立ち、現金を賭けられる違法ギャンブルの機械を置いてあるお店もある。

 さすがにそんなディープなゾーンには立ち入らないように気をつけてはいるが、夜になると知らず知らずのうちに近づいてる時がある。

 ナンパは多いが、意外とスカウトはほとんどない。

 関内には風俗店もほとんどない。

 なんでも、大きい病院があって、条例でその周りには作れないらしい。

 そこが潰れたら一斉に出来るのだろうか?

 アタシにとってはまったくの別世界の話だけど。


 でもそういった猥雑な街をうろつくのは好きだ。

 誰もアタシを見ていない。

「群衆の中の孤独」って誰か昔の偉い人が言ってたらしいけど、まさにそんな感じ!

 自由を満喫するには、なるべく目的が無い方が良い。


「みぃちゃん? みぃちゃんじゃない?」

 関内のアーケード街を歩いてると、いきなり後ろから声を掛けられた。

「あれ? ユミちゃん?」

 同級生だった松島由美子だった。

 彼女は中学まで一緒だったが、親の仕事の都合で横須賀の共学高校に入ったはずだ。

「ひさしぶりだねみぃちゃん、元気してた?」

「こっちは相変わらずだよ。ユミちゃんは変わったねえ」

 ユミちゃんは派手な化粧をして、全身真っ黒な服を着ている。

「ウチの学校、バンドやってる子が多くてね。卒業生にもミュージシャン多いんだよ。で、私も影響受けてライブハウスとか通うようになっちゃってね」

 なるほど、それを聞くと納得出来るスタイルだ。

「実は今日も今からライブなんだ。近くのライブハウスで。卒業した先輩たちのバンドなんだけど、凄くカッコいいの!」

「そうなんだ。楽しそうだね」

「みぃちゃんも一緒に行かない?」

「え?」

 思いもよらない展開にびっくりした!

 社交辞令だったのに。

「実は一緒に行くはずだった友達が急にこれなくなっちゃってね。チケットもったいないし」

 なるほど、そういう理由か。

 でも悪い話じゃない。

 前々からライブハウスというものには興味があった。

 ただ、やはり一人で入るには勇気がいる。

 アタシにとって、そこは立ちんぼストリートと同じくらいデンジャラスな香りがするところだと認識していた。

 ユミちゃんにも悪い印象は無い。

 普通にいい娘だ。

「何時から? アタシお腹空いてるからホットドッグでも食べようと思ってて」

「そのバンドは20時半からだし、ライブハウスはすぐそこだからまだ余裕だよ。じゃあ一緒にご飯食べようか?」

「そだね」


 ユミちゃんの誘いに乗ったのは、ホント単なる気まぐれだった。

 もしその日、ママの帰りが遅くなると分かっていなかったら?

アタシの機嫌や体調が悪かったら?

関内をフラついてなかったら?

ユミちゃんの友達が都合悪くなければ…


 いろんな偶然が重なって、今があるんだと思う。


 ユミちゃんとホットドッグを頬張りながら、いろんな話をした。

 どうやらアタシは「普通の会話」に飢えていたらしい。

「ユミちゃんの学校ってそんなにバンドマン多いの?」

「うん、卒業生で一番有名な人は凄く爽やかな歌歌ってる人なんだけど、ここ最近卒業した人たちや現役連中は割りとパンク寄りとかハードロックなのが多いね」

「凄いね、こっちじゃ考えられない!」

「横須賀って土地柄もあるのかもね。ドブ板とか行くと、米兵も多いからミュージックパブみたいのもいっぱいあるし」

「へー、やっぱり違うんだ」

「凄く頭悪そうな女の子でも、普通にネイティヴっぽい英語喋ってたりするしね。日本っぽくないよね」

 ユミちゃんの話を聞いてると、横須賀にも行きたくなって来た。

 アタシの中での「ここではないどこかリスト」の上位にランクインした。

 日帰り出来る近さだし。

「ユミちゃんのお父さんって自衛隊だっけ?」

「うん、海軍の制服組」

 つまり、自衛隊幹部だ。

 防衛大を卒業したエリートらしい。

「忙しいんだろうね」

「まあね、ほとんど会わないし」

「たいへんな仕事だもん、仕方ないよね」

「こっちも好き勝手やってるしね。お母さんはおろおろしてるけど」

「どこも一緒だね」

「でもウチはお兄ちゃんが2人いるから、そっちの方で大忙しみたいよ。ま、こっちは

助かってるけど」


 アタシはこんな普通の会話がしたかったんだろうな。


 ライブハウスの入口付近には真っ黒で怖い人たちがいっぱいたむろっていた。

 アタシは青い服を着て来た事を後悔していた。

 浮くだろうなあ…

「かえって目立っていいじゃん!」

 ユミちゃんはそう言うが、やはり新参者としてはあまり目立ちたくないのだ。


 ライブハウスの入口では、お客さん達より遥かに怖そうなお姉さんが受付をしていた。

 とても客商売とは思えないような愛想の悪さだ。

 煙草を咥えたまんまでチケットをもぎっている。

 ユミちゃんがいて良かった!

 アタシ一人だったら、このお姉さんを見た途端に回れ右してたと思う。

「あー見えて、あのお姉さん凄くやさしいんだよ」

 ユミちゃんはそう言うが、とてもじゃないけど信じられない。

 それとも回数こなして常連になれば違うのだろうか?


 中に入ると、割りと満杯だった。

 ギュウギュウ詰めではないにしろ、結構人でいっぱいだ。

 前のバンドが演奏終わったみたいでステージを片付けている。

 こちらからだと照明が「光のシャワー」みたいになっててステージの様子は見えない。


 凄くドキドキしていた。

 何かの「予感」をはっきり自覚していた。

 何か途轍もない事が起こる予感を!


 いきなり照明が落とされ真っ暗になると、スピーカーから教会の鐘の音が鳴り響いた。

 凄く不穏な響きだ。

 音量の大きさも相まって、だんだん現実味が薄れてきているのが分かる。

 ああ、大きい音って身体に直接響くんだな。


 鐘の音が鳴り止むと、いつの間にかステージにいたギターの人が、歪んだ音で何度も何度も同じマイナーコードをかき鳴らす。


 そして中央に「彼」が現れた。

 スポットライトに照らされた「彼」の姿は神々しかった。


 その絶望に満ちた歌声を聴いた途端、アタシは自分の居場所を見つけた事が分かった。


 いつの間にか最前列に立っていたアタシは、「彼」の顔をマジマジと見た。

 今まで現実で会ったどの男性とも違っていた。

 中性的で、非現実的で、なおかつ絶望的に暗く、美しかった。

 発する声は、美しい呪詛のようだった。

 この人になら、自分の絶望や諦観が分かって貰えるんじゃないかと思った。

 激しい曲になった時、知らず知らずのうちに頭を振っていた。

 こんなにも心地良い陶酔がある事を初めて知った。

「彼」の声は「世界一魅力的な音を出す楽器」のようにアタシに纏わりついてきた。

 

 ああ、どんな言葉もむなしいくらい、アタシは「彼」に夢中になったのだ!


 それからのアタシの生活はライブが中心になった。

 さすがに横須賀にまで範囲を広げると帰りが遅くなってしまうので、行くのは横浜市内のライブハウス限定だ。

 それでもそのバンドは月に一度は必ず横浜でやってくれた。

 アタシはその日の為だけに他の退屈な日々を我慢出来た。

 必然的にユミちゃんとも頻繁に連絡を取るようになったし、ライブハウスの怖いお姉さんも徐々に平気になっていった。

 ユミちゃんのお蔭で、他のファンの人とも仲良くなれた。

 中には凄く綺麗な人とか、少し年上のお姉さんたちもいて、親切にしてもらった。

 お姉さんたちにいろいろと雰囲気の似たバンドも教えて貰った。

 The CureとかThe Smithとか、いろんなバンドを聴いて、ルーツを探ってみたりした。


 ようやくアタシに学校でも家でもない居場所が出来た。

探していたのはここだったのだ。


やがて、最愛のバンドがデモテープを発売する事が発表された。

飛び上がるほど嬉しかった。

これで、いつでもあの声が聴ける!


発売ライブは横須賀だったが、その日だけはママに「横須賀のユミちゃんちに泊まりがけで遊びに行ってくる」と伝えた。

嘘ではない。

実際、ライブは土曜日だったのでユミちゃんちに泊めてもらった。

朝までずっと二人でデモテープを聴いていた。

幸せだった。

今までの短い人生で、こんなに幸せを感じた事はなかった。


デモテープの嬉しい点は、歌詞カードもある事だ。

今までライブではなんと歌ってるのかあやふやだったところが確認出来る。

その歌詞の暗さも大好きだった。

わからない単語や固有名詞があると調べた。

そこからまた新しい世界が開ける事もあった。

万が一の事を考えて、デモテープは2本買っていて、1つは机の中に保管して、1本はウォークマンに入れていつも聴いていた。

僅か4曲しか入っていない46分のカセットテープがアタシの宝物だった。


そうやってアタシが幸せな時を過ごしている間に、両親の仲は修復不可能なところまで行ってしまってたようだ。

いきなりママに呼び出され、離婚を聞かされた。 

高校3年生のこの時期に聞かせる話じゃないような気がするが、どうせエスカレーターで大学に行くんだから関係ないと思っているんだろう。

ママの説明によると、この家は残してくれるらしい。

パパは既に新しい女の人とマンション暮らしをしているようだ。

結局変わるのは、ママとアタシの名字だけだ。

ママの旧姓はあんまり好きじゃないので、そこだけがちょっと嫌だった。


でも正直、どうでも良かった。

そんな事は些末な事だった。

或いはそう思いたかったのかもしれない。

「彼」の事を思う。

 同じ男性なのにパパとは対極の存在である(と、アタシが勝手に思っている)「彼」の事を。


「彼」とはまだ話した事もない。

 インディーズバンドなんだから、勇気さえあれば話しかける事も出来る。

 機材の搬出やってる姿はよく見ている。

 その時に大勢のファンと一緒に「お疲れ様です」と言うのが精いっぱいだ。 

「彼」はライブ中にMCもしないので、喋ってる声も聴いた事が無い。

 物凄く話しかけづらい雰囲気を纏ってるってのもある。

 若い男の人と話した事が無いアタシには、超えなきゃいけないハードルが多過ぎる。


「朝倉さん、もうそろそろ進路を決めてね」

 今日も担任に急かされる。

「内部進学って事で良い? おうちがいろいろたいへんみたいだけど、もし途中で名字が変わったりすると手続きが煩雑だから、進学した後の方が二度手間にならなくて良いかもよ」


 何もかも面倒臭い…


 ユミちゃんは大学受験があるのでしばらくはライブに来れないようだ。

「アタシ、なりたいものがあって、その為には大学出てないといけないからね」

 ユミちゃんは強い子だ。

 成績も優秀だし家族もみんな良い大学出てるから、多分夢を叶えるだろう。


 なんとなくモヤモヤしながら、今日も関内のライブハウスに向かう。

 取り置きしているチケットを貰いに行くのだ。

 受付はいつものお姉さん。

「すみません、25日のチケット予約してます朝倉です」

「25日ね。1枚で良いの?」

 お姉さんは今日も咥え煙草でチケットをくれる。

「最近はあそこも動員が増えて、予約してないと入れない時があるからね」

 珍しくお姉さんが話しかけてくれた。

「そうですね。それにいつも一緒の子が受験でしばらく来れないんです」

「ああ、そうなんだ? ユミちゃんだっけ?」

「はい」

 名前を覚えている事にちょっと驚いた。

 まあ、いつも受付にいるからアタシたちの会話は聴く気がなくても聴こえてくるんだろう。

「毎年この時期になると、そういった理由で来なくなる子がいるからねえ。ま、それでも親の目を盗んで来る子も多いんだけど」

「そうなんですか?」

 お姉さんと話せるのは嬉しい。

「そうだよ、去年なんかライブの最中に親御さんからお店に電話掛かって来て『ウチの娘がそちらにいるはずです!呼び出してください!』って。映画館じゃねーって!」

「映画館でも上映中は無理ですよね」

 二人で笑った。

 お姉さんは笑うと結構人懐っこい顔になる。

「朝倉さん、みぃちゃんだっけ? 受験しないの?」

「ウチはエスカレーターですし、まだ大学行くかどうかも決めてないんですよ」

 これは本当だ。

 アタシはまだ決めかねていた。

「どこ通ってるの?」

 アタシは学校名を告げる。

「超お嬢様学校じゃん! まあ、ここら辺そういう学校多いけど」

「まだ将来何やれるかわかんなくて、いろいろ悩んでるんですよね」

 なぜかアタシはお姉さんに進路相談を始めていた。

「そんなお年頃だよね」

 お姉さんもわかったようなお説教をするタイプではないので、アタシも素直になれる。   

気が付けば、アタシはお姉さんの事が大好きになっていた。

「今日はお店が静かですね」

「今日、貸切なんだよね。結婚式の2次会で」

「そんなのもやってるんですか?」

 アタシは素でびっくりした。

「よくあるよ。昔バンドやってた人が2次会で演奏したいとかさ。で、ステージから花嫁さんに捧げる曲とかやるの」

「うわー! 花嫁さん照れちゃいそうですね」

「まあ、顔真っ赤にして照れてるか、本気で感動してるかのどっちかだね」

「危険な賭けですね」

「だねえ。ま、それで今日の演者もお客さんも今は披露宴の真っ最中でリハにも来れないから、こっちは暇なんだよね。みぃちゃんみたいにチケット取りに来るお客さんとか手売りチケット取りに来るバンドを待ってるくらいで」


 そんな話をしてる最中に、いきなりドアが開いた。

 そこには最愛のバンドのベーシストがいた。

「すみません、手売りチケット取りに来ました」

「噂をすればなんとやらだね」

「え? 何か噂してたの?」

 私は心臓がバクバクして、口をパクパクさせていた。

 顔は、ステージから愛の歌を捧げられた花嫁のように真っ赤になっているのが自分でもよーく分かった。

 お姉さんは神業のようなスピードでチケットに日付スタンプを捺し始めた。

「いやー、相変わらず凄いなあ」

「この娘も君たちのチケット買いに来たんだよ」

「あー、よくライブに来てくれてるよね、いつもありがとう」

アタシはうつむいている事しか出来ない。

ただでさえ、若い男の人と喋った事がないのだ。

「さすが、バンドで唯一の常識人だねえ」

「他が性格破綻者ばかりなもんでね」

「そこまでは言ってないけどね」

「でもホラ、ここでもお姉さんにウザいほど話しかけていつも罵倒漫才みたいになってる奴とか、まったく目を合わせないような奴とかだし」

「そうなんだよね。あれはなんとかならない?」

「どっちが嫌?」

「どっちもだよ!」

 この2人も充分ボケとツッコミが成立してるような気がするが、アタシはそれどころじゃない。

 やはり目を合わせられないのが「彼」なんだろうか?

 イメージ的にはピッタリだけど。

「仕方ないんで、いつも外部との折衝は俺の役目なんだよね」

「君がバンドマンじゃなければ今度出来るウチの2号店に引き抜くんだけどね」

「え? そんなの出来るの? 儲かってるなあ」

「ライブハウスはバンドにノルマをつけてちゃんとブッキングさえ出来れば売上は確保出来る固い商売だからね」

「そうだね、普通の飲食店よりはリスク無いよね」


 その時。

 アタシの中で何かが灯った。


 それからお姉さんとは仲良くなり、いろいろと話をするようになった。

 たまにご飯も一緒に食べに行くくらいに。

 一人っ子のアタシには、本当のお姉さんが出来たみたいで嬉しかった。

 あんなに怖がってたのが嘘のようだ。

 煙草は少し控えた方が良いとは思うけど。


 そしてあの日がやってきた。


 お姉さんが休みの日に一緒に中華街でご飯を食べる約束をした。

 でも何故か中華料理屋さんじゃなくて中華街の入口にある台湾料理屋さんだ。

「ここの腸詰と、青菜と角煮炒めが美味しいんだよ」

 お姉さんは青島ビールも呑んでいる。

上機嫌だ。

「みぃちゃん、まだ彼氏とか出来ないの?」

「微塵も兆候がありません」

 最近は恋愛相談らしきものにも乗って貰っている。

 もっとも、アタシが全くの未経験なので、専らお姉さんの昔の武勇伝を聞くだけだが。

 お姉さん曰く

「ライブハウスで働いてると、バンドマン以外と知りあえないから、自然とバンドマンとしかつきあわなくなる」

「でも気をつけないと、『バンドやってなきゃ人間のクズ』みたいのが多い」

「最低限、働いてる奴とじゃないとつきあったらエラい事になる」

「でも人間の好みってそうそう変わるもんじゃないから、次から次へとダメ男に引っかかる子が多い」

 といった実体験から来る貴重な話をいっぱい聞かせてくれた。

「肝に銘じます!」

 アタシは素直にそう応じた。

 

 お腹が膨れて酔いも回って来た頃、お姉さんが訊いて来た。

「みぃちゃん、進路はまだ迷ってるの?」

「一応、内部進学にはしたんですけどね」

 さすがにもう学校側には伝えてないといけない時期なのだ。

「まだ迷ってるんだ?」

「はい…」

「じゃあさ、とりあえずバイトしてみない?」

「え?」

「前に言ってたようにウチの2号店出来るからさ。その前に研修も兼ねてしばらくウチでやってみない? で、来年その新しいところに移ってって感じで」

 アタシは多分、その言葉をどこかで待っていたんだろう。

 自分から言い出すのは恥ずかしかったのだ。

 くだらないプライドだが。

 お姉さんはそれも全て見透かしてたんだと思う。

「アタシなんかで大丈夫でしょうか?」

「誰だって最初は初心者だよ。とりあえずは私の真似からだって良いんだから」

 それは結構ハードルが高いな、と思ったが口には出さなかった。

 私は一滴もアルコールを呑んでいないのだ。

 とりあえずはチケットに連番判子捺す練習しなきゃな。

「みぃちゃん、幽霊とかは大丈夫な方?」

「え?」

「ライブハウスには付き物だからさ」

「まあ、見た事はないですけど…」

「ライブハウスで働くと、嫌でも見るようになるよー」

 それはちょっと怖いなあ。


「実はさ、私プロポーズされてるんだよね」

 お姉さんは唐突に言った。


「へ?」

 我ながら、世にも間抜けな声を出してしまった。

 一瞬、理解出来なかった。

「えっと、プロポーズってあの、映画とかドラマでよくある…」

「現実でもよくあるんだよ!」

 お姉さんのツッコミは今日も良く冴えている。

 アルコールの影響もなさそうだ。

「えー! お相手は? まさかバンドマン?」

 お姉さんはそこで初めて言いよどんで、うつむいた。

「実はこれはみぃちゃんには残酷な話かもしれないし、まだ誰にも言わないで欲しいんだけど…」

 嫌な予感がした。

 まさか…

「相手はみぃちゃんの大好きなバンドのメンバーだよ」

 頭が真っ白になった。

 店内の極彩色の模様も見えなくなったくらいに。

「ごめんね、内緒にしてて」

 お姉さんの声も遠くから聞こえてきた。

 現実感が無くなっていた。

「この前言ってた『罵倒漫才』みたいなの仕掛けてくる奴なんだけどね。彼ら全員大学生で、そいつは就職決まったみたいでね」

「就職? じゃあバンドは?」

 アタシはようやくその言葉を絞り出せた。

「実は、この事が無くても解散するのを決めてたみたいでね」

「え?」

「なんか、他の事情もあるみたいよ」

 そうだ。

 バンドは永遠に続く訳じゃないんだ。

 ずっと分かっていながらも、このバンドに限ってそんな訳がある訳ないと信じ込もうとしてたアタシは、今更ながらにその事を思い出した。


 聴いた時はあれだけ衝撃を受けたお姉さんのプロポーズ話も、解散話で消し飛んでしまっていた。

 アタシはこれから何にすがって生きて行けば良いんだろう?

「ホントごめんね、みぃちゃん。」

 お姉さんは何度も何度も謝ってくれた。

 おめでたい話なのに。

 ユミちゃんが最初に言ってたように、ホントは凄くやさしい人なのだ。

「でもね、今までのバンドマンと違って、アイツはちゃんと就職が決まってから私に言ってくれたんだよ。そこは感謝してる。バンドマンにしては上出来なくらいにしっかりした会社だしね」

 そうだ。

 お姉さんはこれから幸せになるんだ。

 祝福しなければ!

 アタシは気力を振り絞った。

「おめでとう、お姉さん。正直頭はパニックだけど、お姉さんに幸せになって欲しいって気持ちに変わりないよ」

「みぃちゃん…ホントごめんね。」

「もう大丈夫です!」

「そう…そんなこんなで、仕事もいつまでも続けてられないから後継者も育てなきゃいけないんだよね」

「お姉さんが安心してライブハウスを卒業出来るように、アタシも早く仕事を覚えます!」


 そう。

 この時、私は将来自分が何になりたいのかを悟ったのだ。


 翌日。

 アタシはお姉さんのところに履歴書を持って行った。

 バイト経験の無いアタシは初めての履歴書を書くのに苦労した。

 しかも、名字が変わっての初めての書類になるのだ。

 ちょっと感慨深い。


「じゃあ、これは預かって社長に渡すね」

 お姉さんはアタシの履歴書を読みながら確認をする。

「新しいライブハウス、同じ関内だけど、駅の反対側、スタジアムの隣の地下に決まったみたい」

「名前も決まりましたか?」

「うん、5th STREETって名前になるみたいよ」

 そこがアタシの来年からの職場の名前か。

「みぃちゃん、本名は未散だったね。この名字がお母さんの?」

「そうです。ゴツいんであんまり好きじゃないんですけど」

「確かに女の子で『鬼塚』はゴツいね」





これが1984年に起こった出来事だ。

 その後、お姉さんはアタシの最愛のバンド「レプリカンツ」のドラマーと結婚した。

 今は子どもも出来て、煙草もやめたらしい。

 そこに一番ホッとしている。


 そして今、アタシは何の因果か、かつて死ぬほど憧れていた「彼」に今日も憎まれ口を叩いている。

 バンドが解散して、アタシが5th STREETで働くようになり、その後達ちゃんも入って来て、「彼」はよくお店に顔を出すようになった。

初めて話した時、ステージとのあまりのギャップに腰が砕けそうになった。

 思わずユミちゃんに電話したくらいだ。

 ユミちゃんは「おかしいなあ? そんな明るかった記憶はないなあ」と首を捻っていた。


 でも「アタシの青春を返せ!」という魂の叫びはみんなにも分かって欲しい!


 気になる事が一つある。

 達ちゃんがある日「佳太は、あの頃とは別人だから」と言った。

 比喩表現としてはよくある言い方だ。

 でも。


 アタシには、それを言った時の達ちゃんの瞳の暗さが気になって仕方ないのだ。

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