第9話 トラウマ

「いや、鬼畜って」


 優子が出て行った玄関を見つめながら、先程の会話の事を考える。

 要は一言で纏めると、リナさんとミウちゃんを居候させるって事だよね!?

 保育士を目指す優子からすれば、幼い子供を大事にするという気持ちは分かるけど、分かるんだけどさ。

 ただ、リナさんを納得させる事なんて出来るのだろうか。

 どうしたものかと考えながらリビングへ戻ると、


「あ、優ちゃん。一先ず、ウチとミウは食べ終わってんけど、もう片付けちゃって良いんかな?」


 ミウちゃんを椅子から降ろしながら、リナさんが尋ねてくる。


「ちょっと待って。まだ琴姉ちゃんが食べると思うから、ラップを掛けて置いておくよ」

「あ、ごめん。そう言えば、まだ起きてないって言ってたね。じゃあ、とりあえず食器類だけ洗っておくから、優ちゃんはミウの事を見ててー」

「えっ!? いや、それなら僕が食器を洗うよっ!」

「ううん。妹さんが朝ご飯を用意してくれた訳やし、これくらはさせてもらわなきゃ」


 そう言って、リナさんがキッチンへと姿を消す。

 その直後、視界の端に小さな手が映り、


「パパー! だっこーっ!」


 ミウちゃんがいつもの抱っこを要求するポーズで僕を見上げてくる。


「リ、リナさーん! ちょっと……」


 キッチンに向かって助けを呼んでみたけれど、


「コール・ウォーターッ!」


 謎の言葉と共に水の流れる音が響き渡り、たぶん僕の声が届いていない。

 水道から流れる水にしては、随分と音が大きい気がするのだけれど、リナさんは一体何をしているのだろう。


「パーパー! だっこーっ!」


 再びミウちゃんがお願いしてくる。

 だけどキッチンへ行くには、手を広げるミウちゃんの横を通り抜けなければならない。


 明日香は今ここに居ない。

 リナさんには僕の声が届かない。

 琴姉ちゃんは未だベッドで眠っている。

 優子は既に家を出て部活に行ってしまった。


 つまり、今僕からミウちゃんを遠ざけてくれる人は誰も居ない。

 昨日と同じ様に、僕の脚にミウちゃんがしがみついてきた。

 フニフニと柔らかい肌に包まれた細く小さな手足は、少し力が加われば簡単に折れてしまいそうで、小さな身体に対して不安定にさえ思える頭は、ちょっとぶつかっただけで、倒れてしまいそうだ。

 弱くて、脆くて、すぐに壊れてしまう。

 この小さな女の子は、壊れる。僕が少し力を加えるだけで、簡単に壊れてしまうんだ。

 僕と子供だけしか居ない空間で、誰も助けてくれない。そう思った途端、不意に視界が真っ黒に染まった。


……


 視界の中に朱色の柵と鳥居が映る。

 柵の向こう側には広い池が広がり、水面が夕陽を反射させてキラキラと輝いていた。

 そんな中を、数十人の子供たちが談笑しながらぞろぞろと歩いている。

 僕も同じクラスの田中君とゲームの話をしながら歩いていた。


(田中君の顔が幼いのに、目線が合う? これは……あの時の記憶!?)


 脳内に映される内容を冷静に分析する僕が居る一方で、当時の事をそのまま再現していく自分も居る。


「あのボスが倒せないんだよねー」

「それなら、あっちのイベントを先にクリアすれば? 強い武器が手に入るし」


 田中君の言葉に、へぇーとか、そうなんだーと幼い頃の僕が頷いては、教えて貰った事を頭の中のメモ帳に記していく。

 子供会の遠足として、数人の保護者と共に、同じ地区に住む小学一年生から三年生までの子供が伏見稲荷神社を散策しているけれど、正直当時の僕は全く興味が無くて、早く帰って教えて貰ったイベントをクリアしようという考えしかなった。

 そんな中で、不意に聞き覚えのある声が耳に届く。


「やめて……痛いよ……」


 消え入りそうな小さな声で、女の子が何かを懇願している。


「川村? どうかしたの?」

「いや、ちょっと」


 隣に居る田中君には聞こえなかったみたいだけれど、それでも僕には聞こえた。

 密かに想いを寄せる、近所に住む明日香の声が。

 周囲を見渡すと、列の後ろに不思議な空間があった。列が途切れ、そこだけ誰も歩いて居なくて、間隔を開けてまた列が続く。

 よく見てみれば、列が途切れる前――僕が居る三年生の列の最後尾が明日香で、距離が開いて二年生の先頭が続くのだけど、その先頭の男の子が明日香に石を投げつけている。

 周囲に先生――もとい、大人は居ない。学校の遠足ではないから仕方がないのかもしれないけれど、付き添いの保護者は子供会全体の先頭と最後尾にしか居なかった。


 いつから明日香は石を投げられていたのか。

 小さな石とは言っても、頭や顔に当たったらどうするのか。

 どうでも良い会話ばかりして、どうして僕は明日香が困っている事に気付けなかったのか。


 カッとなった僕は、田中君の制止を無視して列の後ろへ移動すると、


「嫌がっているだろっ! やめろっ!」


 二年生にしては小柄な男の子と、明日香の間に割り込む。だけど、


「うるさいなー。ちょっと遊んでるだけだって」

「危ないし、嫌がってるだろっ!」

「リュックサックを狙ってるだけだろ」


 僕の注意を全く気にも止めず、再び明日香目がけて石を投げつける。


「痛いっ」


 後ろから明日香の声が届いた瞬間、


「やめろって言ってるだろっ!」


 僕は男の子を突き飛ばし……後ろへ数歩下がった後、何かに躓いて派手に転ぶ。

 僕は明日香を守るナイトだと自己満足に浸っていたけれど、突き飛ばされた男の子は倒れた時にどこかで打ったのか、額から赤い血が流れていた。

 だけど、流れたと言っても大した怪我じゃないはずだ。普段から外で遊んでいれば、それくらいの傷は普通に出来そうな気がするけれど、だけどその子は大袈裟に痛がって……


……


「……パ? パパー? パパー!?」


 気付いた時には、いつの間にか僕は仰向けになっていて、視界を今にも泣きだしそうなミウちゃんの顔が埋め尽くす。


「――ッ!」


 思わず、声をあげそうになった所を、何とか留めた。

 この子は小さな子供だけど、ちょっとした事で怪我をしたあの時のクソガ……男の子とは違うんだ。

 だけどこの子は、あの男の子よりも更に小さく、もっと弱々しい。

 僕が触れると、きっとまた怪我をさせてしまう。

 だから僕は何もせずに目を閉じ、ミウちゃんが諦めるまでこのままで居ようとして、


「優ちゃん。後片付けは終わった……って、大丈夫!? 何があったん!?」


 ようやくリナさんが来てくれた。

 これでようやく解放されると思って目を開けるが、視界は真っ暗なままだ。

 何かに顔を覆われている? と思った直後、


「ミウ。とりあえず、パパの顔に抱きつくのはやめたげよっか」


 リナさんがミウちゃんを抱きかかえてくれて、ようやく解放されたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る