第108話 再会(三)
一郡を統べる領主の屋敷だけあって、周囲の家々とは比べものにならないほど広大な邸宅である。
それでも、敷地の四囲に巡らされた高い垣根と重厚な門構え、そしてあくまで飾り気のない佇まいの建物は、武門の家らしい質実剛健さを感じさせた。
中庭で馬車を降りた夏凛と怜、司馬準が足を踏み入れたのは、迎賓館を兼ねた離れだ。
「なかなか大したお坊ちゃんらしいな、鷹徳のやつ――」
廊下を進みながら、怜は周囲を見渡す。
離れとはいうものの、その大きさは一般的な屋敷になんら劣るものではない。
来客者の目を楽しませるためだろう、邸内には瀟洒な内庭がしつらえられ、どこからか鳥のさえずりさえ聞こえてくる。
それも、人目を引かぬようにあえて高級な宿は避けてきたのである。
野宿をしていたころを思えば屋根があるだけ幾分ましとはいえ、長旅の疲れはすこしずつ蓄積していく。
鷹徳が用意してくれた離れは、すくなくとも夏凛にとっては
「それよりも、だ」
怜はふいに立ち止まると、夏凛に視線を向ける。
「凛、もし
「それは……」
「さっきの口ぶりはどうも頼りなさそうだったからな。別のツテを探すなりなんなり、いまのうちに次の手を考えておいたほうがいいぜ。いくら沙蘭国王の親書を持ってるといっても、華昌国王に手渡さなけりゃ意味が……」
言いさして、怜は足を止めた。
夏凛に背後から袖を引かれたのだ。
「……そのときは、私を華昌国の王宮に突き出してほしい」
「おまえ、自分がなにを言ってるのか分かってるのか? 華昌国王といえば、
「だからこそよ」
夏凛は顔を俯かせながら、それでも力強く言い切った。
「夏賛の娘が現れたと知ったなら、華昌国王はきっと自分の前に連れてくるように命じるはず。つまり、一度はかならず面会の機会を得られるということよ」
「そんなことをして、おまえはどうなる?」
「私のことなら心配いらないわ。それに、成夏王家の生き残りを引き渡せば、沙蘭国は華昌国にひとつ貸しが出来るでしょう。その上で同盟を持ちかけたなら、きっと上手くいくはず」
あくまで坦々と語る夏凛に、怜は苦々しげに眉根を寄せる。
即興で思いついた方策とも思えない。
となれば――この娘は、最初からそのつもりだったのだ。
自分の生命を差し出すことが華昌国王との交渉を有利に進める材料になることを承知の上で、夏凛はみずから使節となることを願い出たのだ。
ここまでそれに気づきもしなかったことに、怜は今さらながらに自分を責めずにはいられなかった。
わずかな沈黙を経て、怜はため息をつくみたいに語り始めた。
「凛、ひとつだけ言っておく」
「なに?」
「たとえ鷹徳の協力が取り付けられなくても、それだけはナシだ」
「でも、そうするのが一番……」
「”でも”も”だって”もあるかよ。おまえがそんな策しか思いつかねえっていうのなら、俺たちでどうにかするまでだ。なあ、司馬準?」
言って、怜は司馬準に視線を向ける。
司馬準は内庭に目を向けたまま、じっとその場に立ち尽くしている。
軽装の
その視線の先にあるのは、すっかり葉も落ちた一本の庭木だった。
「……おい司馬準、俺たちの話聞いてたか?」
「いえ、先ほどから鳥を見ておりました。ほら、あそこの木の枝に珍しい鳥が止まっているもので……あ、もう飛んでいってしまいました」
「人がせっかくカッコつけさせてやろうと思ったのによ! おまえになにかを期待した俺がバカだったぜ」
怜は心底から呆れたように言って、そのまま身体を反転させる。
ふいに廊下の奥に気配が生じたのはそのときだった。
怜と司馬準が揃って身構えたのは、身体に染み付いた武人の習い性だ。
それも束の間、こちらに向かって近づいてくる人影の正体に気づいて、二人とも構えを解いていた。
「お待たせしました、凛どの――」
言って、鷹徳は軽く
「それと、他の二人も……」
「おいこら、その他大勢みたいな言い方しやがって。俺たちは凛のオマケかよ?」
「べつにそこまでは言ってないが、当たらずしも遠からずだろう」
鷹徳は先ほどの意趣返しとばかりにわざと意地悪げに言って、ふふんと鼻を鳴らす。
そんな二人の他愛もないやり取りに割って入ったのは夏凛だ。
「あのね、鷹徳……さっきの話なんだけど」
「こんな場所で立ち話もなんです。あちらに軽い食事を用意させていますから、話の続きはその席でどうでしょう?」
言い終わるが早いか、鷹徳は三人を先導するように歩き出していた。
やがて夏凛たちが通されたのは、貴人の饗応に用いられるのだろう広壮な部屋だった。
卓上に並んでいるのは、見るからに上等な茶道具の一式と、この地方の伝統的な料理だ。
茶も料理も白い湯気をくゆらせていることから、食卓はたったいま用意されたばかりらしい。
酷寒の地として知られる華昌国においては、温かな食事を供することが客人に対するなによりのもてなしなのである。
「凛どのは、華昌国王への仲介を僕に頼みたいということでしたね」
夏凛たち見渡して、鷹徳はあくまで落ち着いた声で問うた。
「ええ。沙蘭国の国王陛下から預かった親書をお届けするのに、鷹徳に力を貸してもらおうと思って」
「差し支えなければ、その親書の内容を教えていただけませんか」
「それは……」
鷹徳の言葉に、夏凛はすぐに言葉を返すことが出来なかった。
ちらと横目で怜を見やったのは、暗にどうすべきか助言を求めているのだ。
怜はそんな夏凛に対して何も答えず、ただ黙って茶を啜っている。
それが怜の返答だった。
他の人間ならいざしらず、鷹徳は華昌国王家の一員である。いまさら隠し立てするよりは、いっそ事の重大さを知らせたほうが協力を得やすくなるのはまちがいない。
「あのね、鷹徳。驚かないで聞いてちょうだい。そして、このことは誰にも口外しないと約束して」
「もちろんです。先祖の名誉にかけて誓います」
「沙蘭国は、”
「凛どの、それは……」
鷹徳が言葉を失ったのも無理からぬことだ。
華昌国は、表向きは
同盟締結から二年が経過し、
華昌国が既存の盟約を一方的に破棄し、沙蘭国とあらたな同盟を結ぶとなれば、たとえ相手が新興の昴帝国であったとしても道義上の誹りは免れない。
それだけでなく、こちらから昴帝国に侵攻の口実を与えかねない危険な賭けでもある。
むろん、このまま両国の蜜月関係がいつまでも続くはずがないということは、華昌国王を始めとする宮廷の誰もが理解している。
いずれ昴帝国が他国を滅ぼし尽くしたなら、中原に蟠踞する大国・華昌国をそのまま残しておく道理はない。
それでも、やがて訪れるであろうその日をみずから早める決断を下すことは、並大抵の覚悟ではとても出来るものではないのだ。
鷹徳は飲みかけの茶杯を卓に置くと、そのまま視線を自分の膝に落とす。
いま少年の胸で激しく渦を巻くのは、戸惑いと逡巡だった。
他の事柄ならいざしらず、そのような外交上の重大事となれば、鷹徳自身もたんなる仲介者というだけでは済まないだろう。
国王の勘気に触れることがどれだけ恐ろしい結果を招くか、王族である鷹徳は誰よりもよく理解している。
そんな鷹徳の胸の内を見透かしたように、夏凛はふっと微笑みを浮かべてみせる。
まるで自分が拒むことを許すかのようなその笑みに、鷹徳はおもわず席を蹴立てていた。
「凛どの、僕は……!!」
「もし駄目なら、遠慮せずそう言って。我儘を言ってるのは分かってるし、私も鷹徳に迷惑をかけたくない」
「いえ! 迷惑だなどとんでもない!」
気遣うように言った夏凛に、鷹徳はおもわず声を荒げていた。
しまったというように片手で口を塞ぎながら、鷹徳は努めて穏やかな声で言葉を継いでいく。
「沙蘭国との同盟は願ってもないことだと思います。昴帝国との同盟が遅かれ早かれ破綻することは、国王陛下や重臣たちも分かっているはず。凛どのを追ってきた刺客が華昌国の民を殺したことも、父上を通してすでに陛下には報告済みですから」
「それじゃ、私たちに協力してくれる?」
「ただ……」
「ただ?」
「僕は訳あって国王陛下の御前に出られないのです……」
弱々しく言った鷹徳に、怜はじろりと青い瞳を向ける。
やがて口に詰め込んでいた豚肉と
「おい鷹徳、そりゃどういうことだよ。なんで国王の前に出られねえんだ?」
「……本当は、もうとっくに蓉姫と婚礼の儀を挙げているはずだった」
「それがどうしたよ?」
「僕は陛下に頼み込んで婚礼を延期してもらった……病気だと嘘をついて、郷里に帰ってきたんだ……」
言葉を重ねるにつれて、鷹徳の声はほとんど聞き取れないほど小さくなっている。
自分の意志では抑えようのない恐怖心がそうさせているのだということは、夏凛や怜にもそれとなく察せられた。
「このあいだもまだ病気が思わしくないという文を王都に送ったばかりなんだ。仮病を使っていたことが陛下に知れたら、どんなお叱りを受けるか分からない……」
「なんだ、そんなことか。男のくせに肝っ玉が小せえな、鷹徳くんよう」
「なんだとはなんだ! それに、僕が恐れているのは国王陛下よりもむしろ……」
部屋の外で戛然たる足音が聞こえたのはそのときだった。
ほどなくして室内に飛び込んできたのは、鎧兜に身を固めた一人の男だった。
上等なしつらえの
そして、そのような立場の人間がこうまで慌てているということは、よほど差し詰まった事態が
「若様っ! 一大事でございます!!」
「
「あ……いえ……そういう訳では……」
「一大事と言ったのはお前だろう! 報告があるならはっきり言え!」
自分の孫のような年齢の鷹徳に叱咤された周憲は、やがて意を決したように口を開いた。
「それが、先ほどから城門で若い女が暴れているのです。警備兵が鎮圧に向かいましたが、まるで歯が立たず……」
「若い女ぁ~?」
素っ頓狂な声を上げたのは怜だ。
とっさに顔を背けたのは、必死に笑いをこらえているのだ。
たしかに華昌国軍は昔から成夏国に戦で勝てた試しがなく、そのために戦力の上では七国最大の規模を誇りながら、しばしば弱兵の寄せ集めと陰口を叩かれてきた。
それでも、戦闘訓練を積んだ軍の兵士が女に遅れをとるなどとは、本来なら絶対にありうべからざる醜聞である。
鷹徳の顔からすっかり血の気が引いているのは、しかし、それだけが理由ではないようだった。
「そ……その女は何者なのだ……」
「分かりません。ですが、現場に居合わせた部下の報告によれば、暴れながらこんな畏れ多いことを口にしていたそうです」
そこまで言って、周憲は口ごもる。
どうやらそこからさきの内容は語るも憚られるものらしい。
全員の視線を浴びながら、顔じゅうに汗の玉を浮かべた将軍は、ええいままよとばかりに声を張り上げる。
「自分は王女の
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