第100話 慈雨(第三章・最終回)【前編】
「……往くのか、
背後から声をかけられても、怜は振り向かなかった。
それでも、門柱の傍らで足を止めたのは、育ての親に対するせめてもの礼儀であったのかもしれない。
怜が
しばらく傷ついた身体を休めた青年は、いよいよ今日、
「ボケオヤジ、何度言えば分かるんだ。俺の名前は――」
「怜だったな」
「……ちゃんと覚えてるじゃねえか」
怜はぶっきらぼうに言って、ちらと王扶建を見やる。
五十歳を過ぎてなお精悍な面立ちは、こころなしかいつもより一回り老け込んで見えた。
怜はふっと息を吐くと、視線を空へと向ける。
九月の空はどこまでも高く、美しく澄みわたっている。
雲ひとつない群青色の広がりは、天上に広がるもうひとつの海原を思わせた。
「ようやくこの国ともおさらばだ。せいせいするぜ」
「もう軍に戻るつもりはないのだな?」
「あんまり野暮なことを訊くなよ。殺されても仕方ないような大罪を犯した俺が、いまさらどのツラ下げて元の立場に戻れるってんだ」
「王妃さまはとうにお前をお許しになっている。お前にそのつもりがあるのなら、沙蘭国軍の全権を委ねてもよいと……」
王扶建の言葉に、怜はゆるゆると首を横に振った。
これ以上会話を続けるつもりはないと、そう言外に告げているのだ。
「悪いが、俺のことは死んだと思ってくれ。そのほうがこっちも気が楽だ」
それだけ言って、怜は手にした革袋を無造作に肩に引っ掛けると、
「あんたにはいろいろ世話になった。……もうお互い生きて会うこともねえだろうが、せいぜい達者でな。あばよ、親父」
ささやかな門構えをくぐろうと一歩を踏み出す。
そのまま足早に屋敷を出ていくはずだった怜は、しかし、数歩も進まぬうちに立ち止まっていた。
屋敷の前の道路に、一台の馬車が停まったのを認めたためだ。
さほど大きくない三頭立ての馬車である。
それでも、深みのある臙脂色に金銀の縁取りが施された車体は、貴人の乗り物であることを雄弁に主張していた。
その場に立ち尽くしたまま様子を窺う怜の前で、御者が馬車の乗降扉に手をかける。
「王扶建の屋敷というのは、ここか?」
優雅な挙措で降り立ったのは、見るからに高貴な佇まいの青年だ。
青みがかった髪が風にそよそよと流れる。怜にはわずかに及ばぬものの、人並み以上の背丈と、彫りの深い顔立ちが印象的な若者であった。
「そなたは王子季であろう」
「そうだとしたら、なんだってんだ? だいたいてめえ何者だ?」
「
「ああ……!?」
こともなげに名乗った青年に、怜は表情をこわばらせる。
蘭苒という名前は、むろん怜も知っている。
国王・
かつて怜が白面将軍と呼ばれていたころ、王宮の式典に呼ばれた際に顔を合わせたこともある。
当時すでに歳に似合わぬ落ち着きを備えていた少年は、王者の風格さえ漂わせる秀麗な若者へと成長を遂げたのだった。
怜はほんの一瞬苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたあと、慇懃に腰を折った。
「王太子殿下をわが
「茶化すな、子季。私はそなたを迎えに来たのだ」
「なんだって?」
蘭苒は答えず、その場でくるりと踵を返す。
やがて馬車の傍らで立ち止まった王太子は、怜にむかって手招きをしたのだった。
「早くせよ。お忍びで市中に出たことが知れると面倒なことになる」
「どこに連れて行こうってんです?」
「一緒に来れば分かる。道々、そなたとは話をしたいことがあるのでな」
疑念に満ちた視線を向ける怜をよそに、未来の国王はさっさと馬車に乗り込んでいた。
ままよ――と怜がその後に続いたのは、それから数秒と経たないうちだった。
***
「それで、俺に話というのは?」
馬車に揺られながら、怜は低い声で問うた。
向かい合って座った蘭苒は、瞼を閉ざしたまま腕を組んでいる。
車内には二人のほかに誰もいない。正真正銘、二人きりの空間であった。
「王子季。それに王
蘭苒がその名を口にしたとたん、怜の眉宇に翳りが生じた。
「そなたら兄妹が国王陛下の落胤だということは分かっている」
「……」
「べつにそれを理由にそなたを害するつもりはない。国王陛下の子など、国じゅうに数え切れぬほどいるのだからな。疑心暗鬼に駆られて王位継承権もない人間を除こうとするようでは、私には王太子たる資格がないと自分で証明しているようなものだ」
蘭苒は自嘲するように言って、ちいさくため息をつく。
蘭逸の男子十五人・女子二十三人とは、側室が産んだ正式な王子と王女の数である。
王宮外で産ませた子女を含めれば、その数はざっと五十人を下らない。
それでも、いまのところ私生児に関するなんらの問題も生じていないのは、
奔放ではあっても愚かではない彼女たちは、国王との関係を声高に叫べば、我と我が子の生命が危うくなることを知悉していたのだ。
権力とは能うかぎり距離を取るに如くはない。
甘い香りに惑わされて華やかな王宮に近づけば、容赦ない毒牙が待ち受けているのだから。
「王子季。たしか、いまは怜と名乗っているのだったか」
「どちらでも……」
「ならば、いまの名前で呼ぶことにしよう。怜、国王陛下に思うところはないのか?」
蘭苒に問われて、怜は逃げるように目を伏せる。
ない――そう言えば、嘘になる。
怜がみずからの出生の秘密を知ったのは、二年前のあの事件の直後のこと。
蘭逸は、王妃を傷つけた罪で投獄され、処刑を待つばかりだった怜のもとを前触れもなく訪れ、自分こそが実の父であると告げたのだ。
突然のことにあっけに取られた様子の怜に、蘭逸はばつが悪そうに頬を掻きながら、
――いい機会だ。すこし外の世界を見てくるがいい。これがあれば、どこに行っても生きていけるだろう……。
そう言って、入牢にあたって取り上げられた
手に取ってみれば、琥珀の下にもう一つの構造が加えられていることに気づくのは容易だった。
沙蘭国王の
絶大なる権能の象徴は、たしかに怜へと託されたのだった。
妹の形見の品に無断で手を加えられていたことへの憤りも忘れて、怜は呆然と国王――父の背中を見送ることしか出来なかった。
怜が秘密裏に牢から解放され、国外追放を言い渡されたのは、それからまもなくのことだ。
それからというもの、怜はあてどなく諸国を放浪する日々を送ってきた。
数え切れないほどの孤独な夜を過ごしながら、それでも、怜は片時も首飾りを手放すことはなかった。
もう二度と帰ることのない故郷と自分を結びつけていた、ただひとつの証。
沙蘭国王の璽に窮地を救われたこともあった。
思い返してみれば、この首飾りがなければ、夏凛との長い旅が始まることもなかったのだ。
「じつは、この私も持っているのだよ」
「なんの話ですか」
「決まっている。……あの首飾りのことだ」
言うが早いか、蘭苒は胸元に手を差し込んでいた。
その手に握られていたのは、怜が持っているものと寸分違わぬ琥珀の首飾りだった。
「なぜ殿下が――」
「国王陛下がこれを手渡す人間は限られている。これはあの方の血を分けた子であるという証明なのだ。王族の女子には琥珀、男子にはその下に璽を埋め込んだものが与えられる……」
「そんなはずはない!! これは明蓮が俺の戦場での無事を祈ってくれたものだ!!」
「そなたの妹は、先に国王陛下からこの首飾りとともに真実を教えられていたのだろう。子供の時分には、
あくまで坦々と語る蘭苒とは対照的に、怜は蒼然たる面持ちのまま口を閉ざしている。
何か言葉を紡ぎだそうにも、思考はがんじがらめに絡まりあい、考えるほどに混乱の度合いは増していく。
それでも、怜の頭脳には、氷のように冷えた一角がたしかに存在している。
幾多の戦いで培った武将としての経験が、感情に流されかかっている怜の理性を強引に押し留めているのだ。
もうひとりの冷徹な自分は、受け入れなければならない現実を否応なしに突きつけてくる。
(そうか……だから、明蓮は……)
あの夜、明蓮が身を挺して秦夫人の凶刃から袁王妃を庇ったことも、いまなら納得出来る。
兄に先んじておのれの出自を知らされていた少女は、すべての王子と王女にとっての母である王妃を救うために、みずからの生命をなげうったのだ。
最愛の妹が生命がけで守ったその王妃に、兄である自分はけっして癒えることのない傷を負わせた。
のみならず、王妃が妹と秦夫人を死に追いやったと思い込み、長いあいだ一方的な怨嗟と呪詛を向け続けてきた。
いまさらながらに怜が自分自身の愚かさに打ちひしがれるのも当然だった。
そんな怜の葛藤を察したのか、蘭苒は怜の顔をまっすぐに見据える。
「国王陛下は、一度だけ私にそなたら兄妹のことを話されたことがある」
「……なんと仰っていたんです?」
「ずっと気にかけていた。……というよりは、そなたらの母とともに手元に置かなかったことを悔やんでいたと言ったほうが正しいだろう。陛下が王宮の外で作った子についてそのように仰せになったのは、後にも先にもあのときだけだ」
蘭苒の言葉にじっと耳を傾けながら、怜の両目からは熱いものが澎湃とあふれていく。
いまとなってはおぼろげな母の面影に、妹のそれが重なっていく。
声にならぬ嗚咽を漏らしながら、怜は涙が頬を流れるに任せることしか出来なかった。
やがて少し落ち着きを取り戻した怜は、蘭苒にぽつりと問いかける。
「殿下、なぜわざわざ俺にそんな話を……?」
蘭苒はしばらく考え込むような素振りを見せたあと、ひとりごちるみたいに語りはじめた。
「
「どういうことなんです?」
「義母上にとっては、そなたも大切な息子の一人だったということだ。あの方には実の子はひとりもいない。だからこそ、陛下の血を分けた子はすべて自分の息子であり娘だと思っておられるのだよ。それに……」
蘭苒はそこでいったん言葉を切ると、車窓にかかっていた竹編みの簾を指ではね上げる。
その合間からひとすじ差し込んだかそけき陽光に浮かび上がったのは、怜とよく似た横顔だった。
「腹違いとはいえ、血の繋がった弟に一度くらい兄らしいことをしてやりたくてな」
同じ男を父に持つ二人の青年。
同じ国に生を受けながら、けっしてまじわることのなかった二人の王子。
直接言葉を交わすのは、あるいはこれが最初で最後になるかもしれない。
そうだとしても、この瞬間は、どちらにとっても終生忘れられないものになるはずだった。
そうするあいだにも、馬車は目的地に近づきつつある。
沙京の東西に設けられた出入り口のひとつ――西の城門。
そこは古来から旅立つ家族や友人との別れを惜しむ人が絶えなかったことから、
車窓から吹き込んだ風が怜の蜂蜜色の髪を撫ぜていく。
埃っぽい風が運んだのは、懐かしくも愛おしい故郷の香りだった。
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