第87話 策謀(一)

 沈みゆく陽が室内を紅く染め上げていた。

 沙京さけいの郊外にたたずむ広壮な屋敷の一室である。

 貴賓をもてなすための応接間らしく、床には毛足の長い絨毯が敷き詰められ、壁にはの書画が配されている。

 いま、部屋の中央に置かれた黒檀の机を挟んで向かい合うのは、三人の男たちだった。

 正確には、一人と二人と言うべきだろう。


 一人はまだ三十歳にもなっていない青年だ。

 いかにも中原の貴公子らしい典雅な目鼻立ちは、辺境の沙蘭国においても美男子の範疇に入るだろう。

 男ながらによく梳られたつややかな黒髪に、薄紅を差した唇がいやになまめかしく映える。

 気候を考慮した軽装ではあるものの、それゆえに襟と袖を飾るてんの真白い毛皮ファーはいっそう目を引いた。


 対するもう一方の二人は、どちらも五十を超えたかというところ。

 藍色に萌黄色があしらわれた揃いの官服は、二人が沙蘭国の大臣であることを示している。

 いかなる理由によるものか、この国において絶大な権力を握っているはずの男たちは、息子ほど年の離れた若者を前にすっかり恐縮しきっているようであった。


「私の要望はさきほどお話したとおりです――馬粛ばしゅくどの。姜嘉きょうがどの。返答はいかに?」


 若者はいかにも鷹揚に言って、手にした扇を顔の前でひらひらと舞わせる。

 およそ貴人を前にしているとは思えない振る舞いからは、相手へのあけすけな侮蔑が垣間見えた。

 馬粛と姜嘉はといえば、若者の非礼に立腹するでもなく、相変わらず虎を前にした兎みたいに互いの肩を寄せ合っている。


 やがて、おそるおそる口を開いたのは馬粛だった。


「むろん、是非もございません……」

「では、わがボウ帝国とのを締結するように国王陛下を説得していただけるのですね?」

「家門の誇りにかけてお約束いたしましょう。ちん大卿――」


 馬粛の言葉に、陳索ちんさくは満足したように眉を下げる。

 そして、手にした扇を唇に当てたまま、臣下をねぎらうような調子で言葉をかけたのだった。


「それは重畳です。大鴻臚だいこうろ(外務大臣)である私が沙蘭国まで出向いた甲斐もあったというもの」

「大卿のご足労に報いることが出来たのであれば、我らとしてもなによりの光栄……」

「ところで、国王陛下は先般より御病気おんいたつきで臥せっておいでとか?」


 問いざま、陳索の双眸がするどい光を放った。

 刃のような眼光に射竦められた二人の男は、気まずげに顔を見合わせる。

 どちらも考えていることは同じであるはずだった。

 それでも、大臣としての立場をかんがみれば、他国の人間に根拠のない憶測を口にすることは憚られたのだ。

 気まずい沈黙が流れるなか、姜嘉は馬粛を制するように身を乗り出していた。


「そのとおりです。わが主君は、すでに半年も我々の前に御姿をお見せになっておりません」

「ほう――しかし、その割には沙蘭国はよく治まっているように思われますが?」

「陛下は王妃さまを通じ、病床から有司ゆうし百官に御下知をお与えになっているのです。我らはその意に従い、これまでどおり国家を運営しております」

「なるほど。重い病を患いながら、政務にはまったく支障を来していないとは、なるほど蘭逸らんいつ陛下は聞きしにまさる名君であらせられる……」


 陳索が言外に込めた真意は、馬粛と姜嘉にも分かっている。

 国王としての職務は、ただでさえ過酷なのである。

 最高権力者として裁可を下すべき案件は日々膨大な量にのぼり、それは国家が存在するかぎりけっして途絶えることはない。

 それらの仕事を滞りなく処理することは、とても人前に出られぬような重病人にはまずもって不可能であるはずだった。

 にもかかわらず、目下のところ沙蘭国の政治が混乱を来していないとすれば、その事実から導き出される答えはひとつしかない。


 いま、実際に沙蘭国の政治まつりごとを執り行っているのは、おそらく蘭逸自身ではない。

 が蘭逸に代わって政治を担い、彼の権威を借りて国家を運営しているのだ。

 半年ものあいだ国王の務めを暗々裏に代行し、なおかつ破綻を来さないほどのすぐれた政治的手腕の持ち主となれば、この沙蘭国にひとりしかいない。


 えん王妃――。

 輿入れした当初よりその聡明さと気性の激しさで知られた美女は、いまや名実ともに国王の右腕と呼ぶべき地位を占めている。

 けっきょく夫とのあいだに一子も得ることなく、寵愛が絶えて久しいにもかかわらず、いまだ王妃の座に留まっているのも、その並外れた才知ゆえであろうとは、沙蘭国でのもっぱらの評判である。

 そんな袁王妃であれば、ひそかに国王に成り代わることも充分に可能であろうと思われた。


 それでも、他国の重臣にその可能性を口にすることは、沙蘭国の人間としてもはや後戻りが出来なくなることを意味している。

 

 馬粛と姜嘉は、額を流れる汗を拭うことさえ忘れたようであった。

 四柱家の当主であり、大臣としてそれぞれ国家の行政と警察を管掌する二人の男は、中原からやってきた若者を前に蒼然と俯くばかりだった。

 むき出しの刃の上を歩いているような心持ちに、腹の底がしんと冷えていく。

 馬粛は深く息を吸い込むと、意を決したように語りはじめた。

 

「おそれながら、私どもには確たる証拠がございません……」

「それほどまでに秘密は厳重に守られている、と?」

「いかにも。ひそかに王宮に密偵を送り込んでも、ただひとりとして戻っては来ませなんだ」


 ようよう言葉を吐き出した馬粛とは対照的に、陳索はあくまで悠然と指先で扇をいらっている。


「つまり、こういうことでしょう。あなたがたは、蘭逸陛下の病状はご自分の意志を表すことが出来ないほどに篤いと思っておられる。いいえ、それどころか、もしやすでにお亡くなりになっているのではないか――とさえ。それで陛下を説得するつもりだったとは、いやはや呆れて物も言えませんね」

「お待ちください、陳索どの!! 断じてそのようなことは……!!」

「そう思っていたのでなければ、臣下の身でありながら独断で私とこのような密約を交わすこと自体、国王陛下と沙蘭国への重大な裏切りとなりましょう。違いますか?」


 陳索は試すように言って、馬粛と姜嘉をそれぞれ見やる。

 二人の大臣は魂を抜かれたように青ざめ、日頃の威厳が嘘みたいに震えている。

 そんな彼らの姿をひとしきり眺めたあと、陳索は一転してやさしげな微笑みを浮かべた。


「べつにかまわないのですよ。、沙蘭国はこの先も昴帝国にけっして逆らわないという約定やくじょうさえ取り付けることが出来るのであれば、大鴻臚として皇帝陛下より仰せつかった使命は果たしたことになるのですからね」

「約定を結べば、今後も沙蘭国の安全は保証していただけると――」

「それはあなたがた次第です。なにしろ、袁王妃は反昴帝国の最先鋒ですからねえ。かりに陛下の名を騙って政治をほしいままにしているとすれば、彼女を除くことは二つの意味で国益に適うということです」


 陳索はこともなげに言いのけると、

 

「ああ――私としたことが、もうひとつ大事なことを忘れておりました……」


 恐れおののく馬粛と姜嘉にむかって、底冷えのする声で告げたのだった。


「あなたがたが昴帝国われわれへの手土産にするつもりだった夏凛は、すでに王妃の手の中にあります。あの娘は私が責任を持って始末しますから、もう余計なことはしなくて結構」


***


「本当にろくでもない国だな、ここは――」


 馬粛の邸宅を辞去し、数日前から滞在している屋敷に戻った陳索は、玄関をくぐるなり心底から忌々しげに吐き捨てた。

 

「どこに行っても空気は埃っぽく、道を歩けば足元は砂まみれ。おまけに国民は蛮族との混血ばかり……こんな汚らしい国、わが帝国の版図に組み込む値打ちもないだろうに。皇帝陛下も物好きなことだ」


 誰にともなくひとりごちながら、陳索は屋敷の一角へと足を向ける。

 すでに太陽は没し、広い庭には宵闇が降りている。

 陳索は供回りも連れずに、たったひとりで庭を横切るように進んでいく。

 

「まあいい。私は大鴻臚として与えられた役目を果たすまでだ。皇帝陛下がこの私の才能を理解し、重用してくれるなら、こちらもそれなりに報いなければな……」


 やがて陳索が立ち止まったのは、屋敷の中庭に建つ離れの前だった。

 入り口にかかっていたかんぬきを外すと、そのまま離れの内部に踏み入っていく。

 室内を埋めていた薄闇がふいにやわらいだ。

 陳索が懐から燧石ひうちいしを取り出し、傍らの行灯に火を点けたのだ。


「おい、が戻ったぞ――出迎えくらいしたらどうだ?」


 言って、陳索は部屋の片隅に目を向ける。

 その視線の先――板張りの床の上には、小柄な影がじっと端座している。

 十四、五歳の娘であった。

 少女らしい可憐な唇は何かに耐えるように固く結ばれ、整った面貌は石像と化したように無表情を保っている。

 

「相変わらず愛想のない娘だ。私が飼ってやらなければ、お前などとうに処刑されていたのだぞ。もっとも、兄や一族のことを思えば、そうなったほうがよほど幸せだったかもしれないがなあ――」


 陳索は娘の傍らに進み出ると、細い顎を無理やりに掴み取る。

 指先にわずかな抵抗を感じたものの、それも一興と、無理やり唇を吸う。


 次の刹那、娘は床に突き倒されていた。

 唇を割って差し込まれた舌に噛み付いたのだ。

 陳索は痛みに顔を歪めながら、娘の顔にぺっと血混じりの唾を吐く。


「……生意気な小娘め。数えきれないくらい抱かれたくせに、いい加減つまらん抵抗はやめたらどうだ。そんなことより、今日はお前にいい報せを持ってきてやったぞ」

「……」

「夏凛がこの国に来ている。それも、私たちのすぐ近くにな」


 その名を耳にしたとたん、それまでまったくの無表情だった娘の面上に複雑な感情が渡っていった。

 驚きと困惑、そして、ひとさじの歓喜。

 一瞬に現れては消えたそれは、娘の意志とは無関係に溢れ出したものだ。


「ふん、めずらしく顔色が変わったな。やはり、夏凛のことになると黙ってはいられないか?」


 言い終わるが早いか、陳索は娘の前髪を掴み取ると、強引に立ち上がらせる。

 そして、娘の耳元に顔を近づけた貴公子は、甘い声で囁いたのだった。


「安心しろ、すぐに夏凛に会わせてやる。あの夜からお前をずっと飼っていた甲斐があった。いよいよ私の役に立ってもらうぞ――李薛りせつよ」

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